2022年11月13日 救いの約束 小田哲郎神学生

(要約)「わたしはあろうとする」と言われる神様は、苦難や悩みの叫びを聞き救い出してくださる方。今も世界の中で苦しむ人々が、「あなたと共にいる」という意志を示し、憐れみの愛を示してくださる神様に出会えることを祈り願います。

(説教本文)

出エジプトの物語は、聖書の中で何度も繰り返し、神によるイスラエルの民の奴隷状態からの救出の出来事として思い起こされます。歴史に介入してご自分の民を救った神は、ご自分の民を救うという約束に誠実な義なる方であり、時代時代の嘆き苦しみ、助けを求める民の叫び声を聞き、憐れんで、再び救出のために行動を起こしてくれるはずだという希望として語り継がれてきました。

 現代においても、アメリカの黒人解放運動を指導したマルティン・ルーサー・キング牧師が愛読し、説教したのも出エジプトの物語からだと言われています。身体的、経済的、社会的そして政治的に抑圧され困窮の中に置かれている人々の叫び声を聞いて、神は救出の行動を起こしてくれるという希望が、出エジプトの物語にはあります。わたしたちもまた紀元前13世紀に起こった出エジプトの出来事から現代まで歴史をつらぬく神の救いの物語の中に生きていると言えるでしょう。

 出エジプトという神の「救出作戦」の指導者・リーダーとして立てられたのがモーセです。イスラエル人でありながら王女の養子として王宮で育ったモーセが目の当たりにしたのは、同胞であるイスラエル人が強制労働に苦しんでいる姿でした。正義感も強い青年だったのでしょう、エジプト人の労働監督がイスラエル人にひどい仕打ちをしているのを見て我慢できず、エジプト人を殺して砂に埋めてしまったのです。しかし、そのことは王ファラオにも伝わり、捕らえられないようにモーセが逃げていったのが遠いミディアンの地でした。その逃れた先の誰も知り合いもいない土地で家族を持ち、羊を飼って何十年も暮らしていたモーセの前に神は現れたのです。

 

 荒れ野で羊の群れを追っていると、ホレブと呼ばれる神の山で柴に火がついて燃えているのに燃え尽きないでいるという不思議な光景に出会います。そこに神の声がします、ここから神とモーセの対話が始まります。一対一で人間に向き合う神の姿が描かれています。

「モーセよ、モーセよ」と神はモーセの名前を二度呼びます。

 モーセは、「はい、ここにおります」と最初は素直に答えます。

 神は「わたしはあなたの父の神である。アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」と自己紹介をしますが、神だと知ったモーセは「神を見た者は死ぬ」と言われていましたから顔を覆って見ないようにします。

 神は語り続けます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知っている。だから、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」と。すでに2章の終わり23-24節の句で「イスラエルの人々の助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」とあった言葉が繰り返されるのです。ファラオが死に、時が熟しました。そして解放のために神が行動を起こされる時が来ました。今こそ、天から降っていき、エジプト人から救い出し、奴隷として捕らわれている地から広々とした、豊かな土地へと導き上るとおっしゃいます。

 いよいよ叫びが聞かれた、祈りが聞かれた、神がその御手を下される!かつて同胞の苦しみを見て知っていたモーセにも、この神の言葉を聞いて喜びの思いが沸き起こったはずです。素晴らしい!どれだけこの時を待ったことか。青年は老人になってしまったけれど、その時が来たと。

 しかし、神はモーセに言います「さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」と。「ちょっと待ってください、私ですか?」とモーセは戸惑い反論します。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出 すのですか?」と。いくら自分が逃げたときのファラオが死んだからと言って、次のファラオも強大な権力をもっています。一方自分は血気盛んな若い時ならまだしも、もう80歳、引退するような年齢なんですよ。本当なんですか?まさか、というのが素直な気持ちだと思います。

 神はその御業をなさる時に、その仕事に参与する・一緒に働く人間をお選びになって遣わすのです。なぜ、神は人間を遣わそうとするのか?12節で「あなたが民をエジプトから導きだしたとき、あなたはこの山で神に仕える」と、救われた民が救い出してださった神様を礼拝し信じて従うためだと言うのです。礼拝という宗教の行ないを熱心にするから救われるのではなく、救われたから、救ってくださった神様を礼拝し、信じ続ける生き方に変えられるのです。

 神は言います。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」神がそのご自身の御業をなすために人々のところに遣わす人間。神の言葉を伝えるために、神によって遣わされる人に与えられるしるし、本当に神によって遣わされたということは「神が共にいる」必ず共にいてくださるということだと、神ご自身がおっしゃるのです。

 モーセは「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。」と答えて承諾するように見えますが、「イスラエルの人々に『お前は神に遣わされたというが、その神の名前は何か』と聞かれたら何と答えたら良いでしょう」と言い、4章では「自分はイスラエルの民のところに行っても信用されない」「私はもともと口下手でうまく説得できません」「主よ、どうぞ、ほかの人を見つけてお遣わしください」とまで言って抵抗します。しかし、神はそのモーセの一つ一つの反論に解決策を与えます。そんな弱いモーセを承知の上でお選びになり、「わたしが共にいる」というしるしを与えます。そして、ファラオの元へと遣わされるのです。ついには私たちが聖書を通じて知っているように、モーセはイスラエルの民の先頭にたって奴隷の状態、エジプトから導き出すのです。

 人間の力では何とかできるようなことではないことに、神は私のような弱い人間を神の協働者として選び派遣するのです。人間を救うという、人間には到底できないことを神と共に働くことによって可能にします。神の業を成し遂げるために私たちはこの世へと派遣されます。「わたしは必ずあなたと共にいる」というしるしを与えて。

 13節で「神に遣わされたと言えば、イスラエルの民は、『その名は一体何か』と問うにちがいありません、何と答えるべきでしょうか。」とモーセが聞いた質問に対し、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神は答えられたとあります。大変解釈の難しい箇所ですが、「ある、いる、なる」という意味の同じ動詞が二つとそれをつなぐ一つの言葉があるだけなのです。私は「わたしはあろうとして、あろうとするのだ」と訳をしたいと思います。12節で「共にいる」と約束する神は、このことで共にいようとする強い意志を表しているとも言えます。遣わす人だけでなく、遣わされる先の人々、苦しみの中で叫び声を上げている人々と共にいようとするのです。「苦しんでいるあなたと共にわたしはいる。私は必ずあなたと共にいる」とおっしゃるのです。それはこのエジプトの民にだけ向けられているのではありません。「これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名。」とあるように、アブラハム、イサク、ヤコブと「土地と子孫の繁栄、祝福と救い」(創15:18-21, 28:13)の約束をされた神は、永遠に、そしてすべての人々と「共にあろうとする、共に苦しみの場にいようとする」神だと宣言されます。今も私たちの世界には苦しみがあります。叫び声があがっています。声にならない声があります。その苦しみの場に神は共にいて、共に苦しんでくださいます。

 そのイスラエルだけでなくすべての国民を含めた救いの約束は、イエス・キリストの十字架と復活によって成就したことを私たちは福音として新約聖書を通じて告げ知らされています。私たちはイエス・キリストの十字架が、罪の死の支配の元に人間を置こうとする悪の力に勝利し、わたしたちは解放されたことを聞いて信じました。私たちはその勝利したイエスに連なるものとして、この世界で生きています。神が、私たちをその希望の福音を伝える者となるように呼んでくださいましたから、イエス・キリストの愛に、「共に苦しむ愛」に生かされ従う者としてこの世へと出て行きましょう。神が必ずあなたと共にいてくださいます。