2022年11月27日 恵みの約束 大村豊先生

(要約)11月27日からクリスマスを待つ時、待降節(アドベント)に入ります。この世には苦しみや悲しみが沢山あり、生きる力を奪います。救いを求める私たちに、神様は救い主としてイエス様を遣わしてくださったのです。

(説教本文) エレミヤ書33章14-16節
 本日、11月27日の主日から、いよいよアドヴェントに入ります。教会暦では待降節第1主日であり、降誕前第4主日でもあります。「もういくつ寝るとお正月」ではないですが、「もう4主日を迎えるとクリスマス」です。アドヴェントを現代風に言うと「主イエス・キリスト降誕日へのカウントダウン」とでもなるでしょうか。
 
  本日の礼拝では、讃美歌96番「エサイの根より」、21-237番「聞け、荒れ野から」、21-231番「久しく待ちにし」の3つのアドヴェントの賛美歌が選ばれています。「アドヴェント」という言葉は、ラテン語で「到来」という意味があります。キリスト教では、「救い主の到来」を待つ時期としてクリスマスの前の4週間を「アドヴェント」と呼んでいます。本日、説教の後に賛美する21-231番「久しく待ちにし」も、救い主の「到来」を待ち望む人々の歌として長く歌い継がれてきました。西暦800年代、9世紀につくられたラテン語聖歌を元にしているので、グレゴリオ聖歌を思わせる重厚で静謐な曲調なのでしょう。説教後、みなさんと一緒に「救い主の到来」を心待ちにしながら、賛美できることを楽しみにしています。
 
  古代のイスラエルは、エジプトやアッシリア、バビロニアなどの周囲の大国によって次々と征服され、苦難の歴史をたどってきました。その中で「救い主メシア」の到来を待望する信仰が生まれました。旧約聖書では、この待望のメシアはさまざまな名前で呼ばれています。「神の知恵」「エッサイの株」「ダビデの鍵」「曙の光」「諸国民の王」「インマヌエル」などがあり、本日の聖書箇所エレミヤ書33章15節では「正義の若枝」と呼ばれています。人々の待ち望んだメシアが今こそ現れた、イエスこそメシア・キリストなのだと告げているのが新約聖書です。ですから、キリスト教会にとっては、アドヴェントの時期は旧約聖書を読む時期となっています。旧約聖書に預言され、待望されたメシアを、わたしたちも待ち望むのです。日本基督教団の主日聖書日課でも、アドヴェントの主日聖書箇所は必ず旧約聖書から選ばれています。
 
  本日の聖書箇所は、旧約聖書エレミヤ書33章14-16節の御言葉です。エレミヤ書は、イザヤ書、エゼキエル書と共に旧約聖書の三大預言書と呼ばれており、1章は預言者エレミヤの召命から始まっています。預言者として召されたエレミヤに、神さまの言葉が臨みます。
 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」
 「見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」
  神さまはエレミヤを預言者として立て、そして、ユダヤの王国が完全に崩壊した後、復興することを示唆しています。エレミヤは若き日に召され、以後40年近く神さまから託された峻厳な言葉を告げたために、愛する故郷を追われ、同胞に疎まれ、幾度も命を脅かされ、失意と痛みを負ってイスラエルの民と滅びを共にしていきます。
 
  紀元前900年代にダビデ、ソロモンを王として繁栄したイスラエル王国は、ソロモンの死後、紀元前926年に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北王国は紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされます。南ユダ王国も紀元前597年に、アッシリア帝国にかわって支配者となった新バビロニア帝国の侵攻により首都エルサレムが陥落します。この危機については、エレミヤの召命の際にも、神さまから「何が見えるか」と問われたエレミヤが「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています」と答えたことで、北方から国を亡ぼす脅威が迫っていることが記述されています。紀元前587年にはエルサレムが徹底的に破壊され壊滅し、ユダ王国はバビロニアの属州となり、ユダの多くの市民がバビロニアへ連行されました。これがバビロン捕囚です。
 
  エレミヤは預言者として立てられたものの、バビロニア帝国によって祖国を滅亡させられ、バビロニアへ連行されて捕囚生活を強いられます。生きる勇気は萎え、未来を見失い、もう二度と帰ってこない古き良き時代、その過去の思い出と結びついた故郷と共同体を思って泣く民の間で、エレミヤ書は編纂されたと言われています。この書物は、「捕囚」の民に「抜き、壊し」、そして「建て、植える」という二つの神さまの壮大なみ業を告げたのです。「抜き、壊す」み業とは、捕囚の憂き目を直視することを拒み、失った過去にすがりついて、かつてうまくいっていた生き方を手放すことのできない民に向かって、古き世界の決定的な終わりを悟らせ、これまでの生き方への訣別を迫るものです。そして「建て、植える」み業によって、まさに今や始まろうとしている神さまの現実、未来から到来する徹底的に新しい世界の始まりへと民を整え導くのです。
 
  日本においても、人類史上最も悲惨で無惨で大規模な、人間の手によりあまりにも多くの市民が殺傷され苦しめられた、徹底的に破壊され壊滅させられた歴史があります。それは太平洋戦争末期の原子爆弾の投下です。その悲惨さを伝える文学作品や名作漫画は多数あります。井伏鱒二『黒い雨』や中沢啓治『はだしのゲン』などがその代表作でしょうか。わたしがみなさんにぜひお薦めしたいのは、広島への原爆投下から10年後の市民生活を描いた漫画、こうの史代『夕凪の街 桜の国』です。実写映画化もされ、作者の戦時下呉・広島を描いた漫画『この世界の片隅に』もアニメ映画化されましたので、ご存知の方も多いと思います。こうの史代の作風はとてもかわいいタッチで全体的にほのぼのと描かれているのですが、『夕凪の街 桜の国』では、穏やかな口調なのに、すさまじく鋭い表現に心をえぐられた経験をしました。原爆投下から10年経ち、主人公の平野皆実は原爆症を発症します。目まい、吐血、日に日に身体が衰えていく中、原爆投下時の記憶がよみがえり、さまざまな声が聞こえてきます。「何人見殺しにしたかわからない。塀の下の級友に今助けを呼んでくると言ってそれきり戻れなかった。死体を平気でまたいで歩くようになっていた」。原爆によって、家族を含めあまりにも多くの人を殺され傷つけられた被害者なのに、皆実は自分が生き残ったことに罪を感じ、苦しみます。「しあわせだと思うたび、美しいと思うたび、愛しかった都市のすべてを、人のすべてを思い出し、すべて失った日に引きずり戻される。おまえの住む世界はここではないと、誰かの声がする」。そして、皆実の死の間際の言葉が心をえぐります。「嬉しい?十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て、『やった!またひとり殺せた』とちゃんと思うてくれとる?」「ひどいなあ、てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ったのに」。
 
  崩壊を必死に生き延びた人たちは、身体だけでなく、心と魂にも深い後遺症を負ってきました。これは、バビロニア帝国に滅ぼされたユダ王国の民も、原子爆弾を投下された広島の人々も同じです。隣人を見捨てて生きながらえたことへの罪責がのしかかり、破壊者の意図と力と言説に圧し潰される苦しみが加わりました。振り払っても、耳を塞いでも、生きる価値を否定する言葉と行為に引き戻され、存在を根底から蝕まれ続けてきたのです。
 
  聖書新共同訳のエレミヤ書33章の見出しは、「エルサレムの復興」となっています。完膚なきまでに破壊され尽くしたエルサレムが復興すると、神さまは語りかけてくださいます。33章の冒頭から、エレミヤを通して神さまの言葉が告げられています。はじめに、「都は死体に溢れるであろう。わたしが怒りと憤りをもって彼らを打ち殺し、そのあらゆる悪行のゆえに、この都から顔を背けたからだ」と、ユダ王国の民の悪行・不信仰が滅亡へと繋がったことを告げられます。けれども、続いて滅亡から復興への言葉が、未来への希望が告げられていくのです。「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復をもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」。
 
  そして、エレミヤ書33章14-16節、本日の聖書箇所において「救い主の到来」「恵みの約束」が語られるのです。
 
 「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる」
  「イスラエルの家」は北イスラエル王国、「ユダの家」は南ユダ王国、どちらもすでに滅亡した二つの王国と民の、復興と回復が告げられます。エレミヤだけでなく、旧約聖書の預言者たちは、メシアの到来、あるいは終末の到来を預言して、繰り返し「その日」あるいは「そのとき」を語ってきました。エレミヤは、「恵みの約束を果たす日」の到来に加えて、エレミヤ書23章ではユダの民を導き、「彼らを牧する牧者」の到来も預言しています。「わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった」それまでの牧者たちとは違うと語るその牧者は、ヨハネ福音書10章で主イエスが語られた「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、良い羊飼いは「自分の羊を知っており、羊も」その羊飼いを「知っている」との言葉を先取りしているように思えます。
 
 「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」
  ここにユダの回復の希望、新しい時代の到来が告げられています。「正義の若枝を生え出でさせる」、神さまが起こすその牧者、正義の若枝によって、新しい時代がもたらされるのです。その牧者のもとで、「群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることない」、そのような時代の到来が告げられます。
 
 「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」
  かつての都エルサレムは、完全に崩壊しました。しかし神さまは、預言者エレミヤを通して、考えうるあらゆる苦しみを経験したユダの人々に、復興と回復を約束してくださいます。復興したエルサレムは、神さまの栄光をたたえて「主は我らの救い」と呼ばれるのです。「安らかに人の住まう都」、これがどれほど大切で必要なものかを、現代を生きるわたしたちも思わずにはいられません。今もロシアの軍事侵攻を受け続けるウクライナの人々の生活を案じ、ミャンマー軍事政権下で弾圧される人々の生活を憂います。神さまは必ず、平和な世界をお与えくださいます。救い主イエス・キリストを信じるわたしたちに、平和をつくり出す力をお与えくださいます。
 
  旧約聖書のメシア預言が成就し、主イエスがこの世に与えられました。この預言が成就したことを新約聖書も証ししています。そして、本日の説教の後に賛美する「久しく待ちにし」の歌詞を思います。「とらわれの民を 解き放ちたまえ」、「暗き雲はらい 喜びをたまえ」、「インマヌエル 来たりて救いたもう」、心の底より祈らずにはいられません。救い主、御子イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスまで、あと4主日です。主イエスをこの世にお与えくださった神さまに感謝し、主イエス・キリストの福音に信頼し、「救い主の到来」を祝うクリスマスを心待ちにしながら、「恵みの約束」がかなえらえるこのアドヴェントの4週間、み言葉と共に過ごして参ります。