2022年11月6日 イサクの誕生 吉岡喜人牧師

(要約)神様はいろいろな機会に人を選びます。神様に選ばれることは自分たちにとって不都合なことが多いのです。神様の思いは私たちをはるかに超えた思いであり、いつかわかるときが来るのです。

(説教本文)創世記18章1-15節

南三鷹教会は今から70年前の1952年㋆8日に設立されました。例年はこの日に合わせて、㋆初めに創立記念感謝礼拝として主日礼拝を行うのですが、今年度は新型コロナウイルス感染と改築工事が重なり、例年のように行うことができませんでした。㋆中旬からこの新会堂を使い始めましたが、コロナ感染のために礼拝は分散出席でした。コロナが収まり、皆が一堂に集まって礼拝できるようになったら創立記念感謝礼拝を行おうということでしたが、コロナ感染が収まらず、延期に次ぐ延期となって、とうとう今日になってしまいました。今日の主日礼拝は、神様が南三鷹教会をこの地に建てられたことを特に覚え、南三鷹教会を建ててくださった神様に感謝して、感謝の時を過ごしたいと思います。

70年前、神様は一人の牧師を選び、三鷹の南の地に教会を建てよとお命じになりました。選ばれたのは久山峯四郎牧師でした。教会のないところに教会を建ててキリストを伝えることを開拓伝道と呼びますが、なかなかできることではありません。なぜなら本当に教会を設立できるかどうか、設立した教会を維持できるかわからないからです。わからないことするには、勇気が必要ですが、勇気だけでできることではありません。

もし、商売としてお店を開くとしたら、いろいろなことを調べるでしょう。どのくらいの人が住んでいるのか、その中で顧客になりそうな層は何人くらいいるか、投資する資金を回収する見込みはあるか、何年で投資が回収できるかなどなどをしっかり検討して、うまくいく見込みがついてから実行に移すのではないでしょうか。もしうまくいく見込みのないのであれば、店は出さないでしょう。その点、開拓伝道は全く視点が異なるのです。どうなるかわからないまま行うのです。開拓伝道は、神様が行う事業だからです。神様はその実行者として、わたしたちの誰かをお選びになるのです。誰が選ばれるのか、どこの場所を選ばれるのか、それは神様の意思であり、選ばれた人にその声が聞こえて来るのです。その声を聞いたら、素直に従うのが、神の民、信仰者が行うことです。

三鷹の南の方に教会を建てなさいという神様の声を聞いた久山峯四郎牧師は、さっそく働き始めました。相田さんという方の協力により部屋を借りることができ、マックス・フィッシャーさんの協力を得て英語と聖書を学ぶバイブルクラスを始めました。バイブルクラスの話を聞いた人が集まり始め、借りている相田さんの部屋では狭くなり、教会堂を建てることになりました。久山峯四郎牧師はアメリカに本部がある福音教会の牧師でしたが、福音教会は伝道と教育を一体として地域に根差した宣教を行う方針でしたので、教会堂を建てると共に幼稚園をはじめることにしました。土地は教会と幼稚園のためならということで東京女子大学の所有地を譲っていただけることになり、米国に帰国することになったフィッシャーさんが使っていた自動車を売って建築資金を作ることができました。

次に神様は久山庫平先生をお選びになりました。久山庫平先生は、二代目の牧師・園長として長きにわたって神様が久山峯四郎牧師に命じて建てた教会と幼稚園を守り、育てました。

そして、神様は日本聖書神学校の笠原校長を通して三代目の牧師として私をお選びになったのです。

神様が選ぶのは、牧師だけではありません。神様は信徒一人一人をご自分の民としてお選びになるのです。

神様の選びには特別なルールがあります。わたしたちの都合によってではなく、神様の都合によって行われるというルールです。わたしたちは、いろいろな道をたどってイエスキリストの愛い出会い、救いの道に入ることができました。それができたのは、わたしたちが自分でその道を選んだように思うかも知れませんが、実は神様があなたをお選びになったのです。そのことはヨハネによる福音書15章16節で主イエスご自身が言っておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」また、「わたしがあなたがたを任命したのである。」

今日の聖書に登場するアブラハムとサラも神様から選ばれた人です。もともとアブラハムはアブラム、サラはサライという名前でした。そのころ、アブラムの一族はカルデアのウルというところに住んでいました。現在のイラクの首都バクダットの辺りと思われますが、ここは、チグリス川とユーフラテス川が合流するところで、世界四大文明の一つが花開いた場所であり、豊かな土地でした。安定した生活をしていたと思われますが、ある時一族はウルを出てカナンに向かいました。途中、ハランにしばらく滞在してから、カナンに向かいました。カナンはどのような土地なのか。アブラムもサライも既に高齢になっていましたが、神様の言葉に従って、知らない土地に向かって出発したのです。ハランを出発したとき、アブラムは75歳だったと聖書に書かれていますが、それが実際の年齢だったとすると今のわたしより年上です。その年齢で知らない土地に行き、新しい生活を始めるには、かなり覚悟がいりますし、できれば辞退したいところです。しかし、アブラムは神様の指示に素直に従いました。神様がアブラムをお選びになったからです。選んでくださった方に反抗することはアブラムにとって考えられないことでした。神様がなさることは、その時には不都合と思えることがよくあるのです。信仰が試されるときです。

神様はアブラムたちをカナンに導きました。そこにはすでに他の民族が住んでおり、土地を巡って争いがあり、アブラムもその争いに巻き込まれました。また土地を巡って、アブラム一族の中でも争いが起きました。さらに飢饉にも見舞われました。それでもアブラムは神に選ばれた者として、カナンを離れることはありませんでした。

神様はアブラムを愛し、アブラハムという名前をくださいました。アブは父、ラハムは多くという意味です。神様は、アブラハムを多くの国民の父にすると言われて、この名前をくださったのです。また、サライは諸国民の母となるとして、サラという名前をくださいました。しかし、サラはこどもを産んだことがなく、アブラハムもサラもすでに高齢でした。神様が下さった名前でしたが、アブラハムもサラも、もはや自分たちからこどもが生まれることはないと思い、神様の言葉を素直に受け止めることはできませんでした。旅人の姿をした神の使いがサラにこどもが生まれると言ったとき、アブラハムもサラはまさかと思い、サラは思わず笑ってしまいました。無理もないことです。まず考えられないことですから。

古い時代、どこの国でも民族でも、女性たちの存在価値の第一は、子どもをたくさん産むことでした。それゆえ、こどもが生まれないと、その女性は大変肩身の狭い思いをしなければなりませんでした。サラもその一人でした。本心は自分の子どもが欲しいと思いながら、神の人たちから自分にこどもが生まれると聞いた時、まさか、ご冗談を、という気持ちになり、思わず笑ってしまったのです。失笑というところでしょうか。笑ったことが神の人たちに知られたとき、サラはなんということをしてしまったのだろうと気づき、信仰者のこころに戻って、恐れました。しかし、笑った事実は消えることはありません。

翌年、サラにこどもが生まれました。サラは嬉しさに笑いました。そして、その子をイサク=笑いと名付けたのです。失笑から喜びの笑いへと神様はサラを導かれたのです。

今日は、イサクの誕生という旧約聖書の物語を通して、神様の選びとはどのようなことかを学びました。神様が私たちをなにかのためにお選びになるとき、それは私たちの思いと異なることが多いのです。しかし、神様の思いは、わたしたち人間の思いをはるかに超えた思いです。神様がわたしたちをお選びになった時にその思いはわかりませんが、神様の選びは、いつか答えが与えられるのです。それを信じることが、わたしたちを前に進める力になるのです。