2022年1月15日 最初の弟子たち 吉岡喜人牧師

(要約)主イエスご自身が貧しく生まれ育ったように、主イエスはあえて無学で荒削りな漁師たちを最初の弟子に招きました。神の国の実現にふさわしいことだからです。

(説教本文)ルカによる福音書5章1-11節

今日は降誕節第4主日、教会歴はまだ降誕節の中です。フィッシャー幼稚園は12月16日にクリスマス礼拝をすることになっていましたが、コロナの集団発生のために延期し、ほぼ一か月後、一昨日の1月13日金曜日に行いました。異例のことではありましが、サンタクロースも来てくださり、楽しい嬉しいクリスマスになりました。

救い主の降誕は、全人類にとって大きな喜びです。その喜びの実現のために、救い主は大きな苦しみの中で生まれ、育ちました。身に覚えのない妊娠に対するヨセフとマリアの驚きと不安、身重のマリアがベツレヘムまで行く危険な旅、泊まる場所がなかったため家畜小屋での出産、ヘロデによる幼児虐殺からの辛うじての逃避と、危険と悲惨の連続でした。主イエスは救い主としてお生まれになりましたが、あくまで人間としてお生まれになり、貧しい暮らしの中で主イエスは成長されました。わたしたちと同じように悩み、苦しみ、悲しみの中で若い日を過ごされました。だからこそ、主イエスは真の救い主なのです。それは主イエスをこの世に遣わされた神のご計画です。

成人した主イエスを神の国実現のための伝道者とされるとき、神は仕上げの訓練をされました。荒野において40日に渡ってサタンに誘惑させたのです。肉体的にも精神的にも過酷な試練に耐え、この世的な誘惑を断ち切って、主イエスは救い主として人々の前に出てこられたのです。神が人々を愛し、すべての人を神の国に招いていることを伝え、また救いを確信してこの世のでこぼこ道を歩き続けられるように励まし、苦しみ、悩み、悲しんでいる人々に寄り添うために、主イエスは行動を始められたのです。

主イエスの教えに人々は驚き、また喜びました。それまで律法学者や祭司たちから聞かされていた教えと違い、神が自分たちを愛してくださるという教えでした。主イエスは病の人に寄り添い癒し、共に悩み苦しんでくださいました。主イエスの話を聞きたい、癒していただこう、悩みを聞いていただこうと多くの人々が主イエスのところに押しかけてくるようになりました。

人は一人ではたいしたことはできません。主イエスはある意味で超能力者でしたから、かなりのことはできたかも知れませんが、それでもできることは限られます。もし、主イエスが一人だけで行動されていたら、主イエスの死とともにすべては終わりになっていたでしょう。神の国実現のためには、一緒に働く仲間、同労者が必要でした。

主イエスの初期の行動範囲は、故郷であるガリラヤ地方でした。ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の周囲には多くの町や村があり、主イエスは何度も足を運び、人々に神の国を語りました。主イエスはシモンの家族と関係が深かったようです。カファルナウムに行くたびに、シモンの家に泊まっていたようです。親戚だったのかも知れません。

この日、主イエスはゲネサレト湖畔にいました。主イエスの話を聞こうと多くの人が押し寄せてきました。あまりにも人が多いので主イエスは舟の上から話をしようと思い、シモンに頼んで舟に乗せてもらいました。シモンは、夜の漁から戻ってきて、片づけをしていたでしょうし、疲れてもいたでしょう。しかし、求めに応じて主イエスを舟に乗せ、岸から少し漕ぎだしました。主イエスは舟の上から人々に向かって話をしました。人々は熱心に主イエスの話を聞きました。シモンも主イエスの話を熱心に聞いていたでしょう。
 話が終わると、主イエスはシモンに話しかけました。「沖に漕ぎだして網を降ろし、漁をしなさい。」シモンはすぐに答えました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」シモンは漁師の家に生まれ、子どものころから漁をしています。漁師を雇っている親方です。ゲネサレト湖の魚のことは誰よりもよく知っていると自負していました。その自分が夜通し漁をしても、魚がとれなかったのです。漁には当然そういう日があるものです。それなのに、漁の素人である主イエスがもう一度漁をしてみなさいというのです。みなさんだったらどうしますか。素直に主イエスの言葉に応じますか。わたしはたぶん応じなかったと思います。

しかしシモンは主イエスの言葉に従いました。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」シモンは心の中で言いました。魚がとれるはずがない。でもイエス様の言うとおりにしておこう。早くおしまいにして、家に帰って寝よう。シモンは漁師たちに命じて舟を出させました。沖に着くと、漁師たちは網を降ろしました。網を引き揚げ始めると、なんとたくさんの魚が網に入っていて、網を持ち上げられません。シモンはあわてて近くにいた仲間の漁師に応援の舟を出してもらいました。網はいっぱいの魚で破れそうです。やっとのことで網を舟の上に引き上げると、重さで二艘の舟は沈みそうになったほどでした。

この有様を見ていたシモンは、イエス様の言葉を信じないで、魚がとれるはずがないと思った自分に恥じ入り、恐れました。主イエスの足もとにひれ伏し「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです」と言って懺悔したのです。この有様を見ていたゼベダイのヤコブとヨハネも驚き、恐れました。彼らも主イエスの言葉を信じようとせず、魚がとれるはずがないと思っていたからです。

自分たちの罪の深さに怯える漁師たちに、主イエスは言葉を掛けました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そう言って彼らを伝道者としてお召しになったのです。彼らはすぐに漁師の仕事を止めて、主イエスに従ったのでした。

南三鷹教会が設立母体となっているフィッシャー幼稚園の名前もこの物語からとられていることは皆様ご存じのことと思います。この最初の弟子を招いた物語は、マタイによる福音書、マルコによる福音書にも書かれていますが、マタイ版とマルコ版では、主イエスが「人間をとる漁師にしよう」と言われたとだけ、とても簡素に書かれています。主イエスの言葉に従って網を降ろしたことは、ルカだけが書いています。

わたしたちキリスト者は、全員が主イエスの弟子です。主イエスに招かれて主イエスの弟子になりました。その状況は人によって様々です。キリスト者の家庭、いわゆるクリスチャンホームに育って自然とキリスト者になったという人もいるでしょう。キリスト教系の学校いわゆるミッションスクールで主イエスに出会ってキリスト者になった人もいるでしょう。主イエスの招きに抵抗したうえで、ついにキリスト者になったという人もいるでしょう。人生の中でつらい出来事、悲しい出来事を通して主イエスと出会った人もいるでしょう。
突然主イエスから招かれたという人もいると思います。今日の聖書個所ではシモンが中心人物ですが、漁師だったシモンにとってみれば、弟子になるようにと言われたのは突然という思いがしたのではないかと思います。シモンは主イエスのことをよく知っていました。主イエスの話を熱心に聞く人でもありました。しかし、漁師の親方として、主イエスのよき理解者、援助者であっても、自分が弟子に招かれるとは夢にも思っていなかったと思います。主イエスの招きを突然のことと思ったでしょう。しかし、主イエスの招きは突然ではありませんでした。主イエスは、十分な準備を整えて、シモンをはじめ、漁師たちを弟子としてお招きになったのです。シモンたちはそのことに気付かなかったのです。同様にわたしたちも、突然主イエスに出会い、招かれたように思っても、実は準備がされていたのです。胸に手を当てて考えてみると、主イエスに招かれる準備がされていたことに気付くのではないでしょうか。神様はわたしたちが求める前からわたしたちを探し出し、わたしたちに手を差しのべ、声をかけてくださっていたのです。

さて、弟子に招かれたシモンたち漁師は、すぐに漁師の仕事を止めて主イエスに従ったと書かれています。彼らに躊躇はなかったのでしょうか。当時の人々のほとんどは字の読み書きができません。読み書きができたのは、律法を学んだ祭司や律法学者たちです。主イエスは貧しい家に育ちましたが、律法を学びましたので、読み書きができました。読み書きができず、律法のことも詳しく知らない自分たちが主イエスの弟子になれるのだろうかという疑問はなかったのかなと思います。しかし聖書は彼らが躊躇なく主イエスに従ったと記しています。シモンは主イエスに網を降ろしてみなさいと言われたとき、主イエスの言葉を信じませんでした。しかし、網を破りそうになるほどの魚がとれた時、主イエスを疑った自分の罪の深さを覚え、主イエスに懺悔しました。主イエスの弟子になれるか疑うことは、同じ罪を犯すことになることをシモンは理解したのではないでしょうか。主イエスは、あえて読み書きのできないシモンたちを最初の弟子に招いたのです。それは象徴的な意味もあったでしょう。主イエスの弟子になるのは学問などこの世的な能力ではなく、信仰だということ。しかも、主イエスがそうであったように、彼らも普通の社会の人々、世の中の苦しみ、悲しみ、悩みを持っていた人たちだったでしょう。だからこそ、神の国の伝道者にふさわしいのです。後に、徴税人だったレビなども弟子に招かれていますが、徴税人は税の取り立てにおいて不正を働いて私腹を肥やすことが普通に行われており、人々から嫌われ、罪人とされていた人々です。主イエスの弟子となって罪を悔い改めた徴税人は、不正な取り立てをされた人々のためにより多くの働きをしたことでしょう。また悔い改めた罪人が赦される神の愛を人々に伝えるよい機会にもなったでしょう。全ては神の国の実現のために役立っているのです。

イエス様はわたしたちを弟子として招き、今も招いておられます。わたしたちが、自分が弱く小さなものであり、罪深い者であることを自覚することは大切なことです。しかし、そのことで心を低くしたり、行動を後ろ向きにすべきではありません。弟子になることへの謙遜と遠慮は、神の国はふさわしくありません。主イエスは、ありのままの私たち、弱く、小さく、罪深いわたしたちをあえて弟子としてお招きくださっているのですから、ありのままの姿で、主イエスに従う者となるのです。