2022年10月16日 天国の大群衆 森永憲治牧師

(要約)神様に心から従う生活は、時には一見、他人から嫌われているように見えて、または失敗の選択のようにみえて、実は天において大きな報いのある人生なのです。

(説教本文)マタイによる福音書5章1-12節

以前マルコ福音書で説教をしたときに、その特徴の一つは驚きと申し上げました。それは奇跡などイエス様のなさることがあまりにこの世の常識から離れすぎていて、それを目にした人は皆驚くしかなかったのです。こうした意味で、ではマタイの特長は何かというと、その一つは逆転だと思います。それは一見すると、今で言う旧約聖書の教えとは全く逆のことをイエス様はおっしゃいました。

今日のこの山上の垂訓は、強者が幸せになるのではなく、貧しい者、悲しむ者が幸い。
ルカの山上の垂訓では「貧しい人々」となっています(ルカ6章20節)。本日のマタイでは「心の貧しい人々」と「心の」が加わっていて少し違っていますが、普通に考えれば貧しい者や悲しいことは幸せではありません。旧約聖書を見て見ましょう。詩編1章1~6節、

01:01いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
01:02主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
01:03その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
01:04神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
01:05神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
01:06神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

このように旧約聖書の教えは、神様に従うものは、繁栄するというのが教えなのです。

それではイエス様は旧約聖書を否定し、律法を廃止するために来たのでしょうか?
それに対してイエス様は、5章17節でこうおっしゃいました、

05:17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

つまり聖書は、旧約聖書で書かれていることは決してそれを廃止するというものではなく、それはイエス様によって成就されるもの、または、旧約聖書は間違い無く神様の言葉であっても、まだ人間にとっては未完成であって、イエス様を通して始めて完璧なものとなる、そういう言い方をしてもいいかもしれません。

貧しいことがいい訳ありません。悲しいことがいいことな訳はありません。こうした見方は旧約聖書の言う「神に従うものは繁栄する」とは真逆の意味のようにも取れます。しかしそうではなく、貧しくても、悲しくても、あなたが神様を信じれば、それらのことも幸せだというのです、そして言い換えれば、それが旧約聖書がいう本当の繁栄の意味なのでしょう。

ヨブはその一つの分かりやすい例です。神様に従ってきたヨブは大変豊かな生活を送っていましたが、サタンによってすべてを失いました。まさに貧しくなり、悲しの中に打ちひしがれました。そして神様に不平を言い出しました。そこで最後、神様がヨブに直接話を書けたとき、ヨブはすべてを理解し、神様に完全に従いました。すると神様はヨブに以前以上の祝福を与えました。ここに神様に従う者は大きな物質的な恵みを受けるという教えが読み取れます。しかし、ヨブにとっては最後に頂いた莫大な物質的祝福は、もし再度神様によって取られたとしてもすでにどうでもいいものだったのです。ヨブが神様を心から受入れ讃美したのは、絶望の状態の時の、神様と共にいることを実感した時だったからです。その絶望の中に神様をみいだしたことこそが真の豊かさなのです。まさにマタイ福音書5章の「05:03心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 05:04悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」なのです。ヨブの話もイエス様の言葉のよっていっそう理解できるのです。

このように、マタイの内容は、一見すると旧約聖書の語る繁栄とは正反対のことを言っているように見えて、逆転するようなことを言っているように見えて、実は旧約聖書のいうことをハッキリさせる、成就する、そういうものと言えるでしょう。

ここで、今日のマタイ福音書の山上の垂訓と、旧約聖書を比べてみましょう。

5章3節「心の貧しい」は「心が打ち砕かれる」とも取れますが、イザヤ57.15

57:15高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。

次に、貧しいや悲しむ者を見てみましょう、マタイ福音書では「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」とあります。ここでイザヤ61章1~2節を見ると、

61:01主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。61:02主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め61:03シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。61:04彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

もう一つ詩編37編11節

37:11貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう。

次に6節「飢え渇く」は「05:06義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」とありますが、イザヤ書55章1~2節では、

55:01渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
55:02なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

次に、5章8節「心の清い」である「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と、詩編24編4節を比較してみましょう。

24:03どのような人が、主の山に上り聖所に立つことができるのか。24:04それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく欺くものによって誓うことをしない人。

このように、イエス様のおっしゃることは、実は旧約聖書に沿っていることが分かります。5章1~2節でこの山上の垂訓は、イエス様が腰を下ろし、口を開いた、とありますが、これは当時のユダヤ教指導者が正式な形で教えを説くスタイルということもご理解下さい。

11節にはこうあります、

05:11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 05:12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

ここにクリスチャンが覚悟しなければならないことが書かれています。そうです、神様に従うということは、必ずしも人から尊敬されたり褒められたりするものではなく、むしろ迫害を受けるというのです、それが本物の信仰者の態度でしょう。イエス様は徹頭徹尾律法学者など当時の宗教指導者を非難しましたが、それは彼らの言動が、決して神様を伝えるものではなく、人々から尊敬されたい、社会的地位が上でありたい、そういう思いからものだったからです。私達の現実の生活の中でもちろんやみくもに人様の批判をするべきではありません。それこそ5章5節「柔和な人々は幸いである、その人達は地を受け継ぐ」です、しかし、妥協してはいけないところは例え人から非難されたとしても、神様に従う、その覚悟は必要でしょう。その信仰生活こそ、神様に祝福されるのです。

逆転の生活。それは、神様に心から従う生活は、時には一見人様から嫌われているように見えて、または失敗の選択のようにみえて、実は天において大きな報いのある人生なのです。改めてこの山上の垂訓を読み、人生の指針にしたいと思います。