2022年10月2日 最後のいけにえ 吉岡喜人牧師

(要約)人間は罪の汚れを清めなければ神の前にでることはできません。ユダヤ教では牛、羊、山羊などの血によって清めの儀式が行われました。しかし、イエス・キリストは自らいけにえとなり、その血ですべての人を清めてくださいました。

(説教本文)ヘブライ人への手紙9章23節~28節
 小学校のころ、わたしたち人間が他の動物と大きく異なることは何か、ということを授業で教わった覚えがあります。たしか、火、道具、言葉、だったと思います。たしかに人間以外の動物は火をおこしたり使うことはできません。むしろ火を恐れます。道具はどうでしょうか。人間に近いといわれるチンパンジーは、木の枝を蟻の巣に差し込んで蟻を捕らえて食べます。また実験によって、チンパンジーは人間が作った簡単な道具を使ってほしいものを手に入れることができることがわかっています。しかし、複雑な道具を作り、それを使うことはさすがにできません。言葉はどうでしょうか。ほとんどの動物は言葉を使うことができます。様々な鳴き声で餌がある場所を教えたり、危険を知らせて群れを守ります。求愛のためにも声を出します。しかし、生きるために直接必要な言葉以上は話せないようです。その点、人間は生きるために直接必要なことだけでなく、楽しいことや悲しいことなど、心の思いを言葉にして共有することが出来きます。さらに言葉を残すための文字となると、人間以外の動物には使うことができません。他にも絵画や彫刻、音楽など、心に響くことを楽しむことは人間以外の動物はしません。鳥はきれいな声で歌うではないかと思うかも知れませんが、鳥のさえずりは自分と群れを守るための情報伝達の道具です。こうしてみると、火は別格として、人間は直接命の存続にかかわらないところ、心とか情緒と呼ばれるところが他の動物と違う人間の特徴と言えるのではないでしょうか。
 
 心は人間だけに与えられている霊の働きによるものです。人間が霊的な存在であるということは、キリスト教に限らず、全ての宗教の前提になっています。宗教という明確な形でなくても、自分が自覚していなくても、全ての人間は霊によって神との交わりをもっていることを知っているのです。しかしわたしたちキリスト者は明確にどのようにして霊的存在になっているかを知っています。創世記に書かれているように神はわたしたち人間だけに霊を与えてくださったのです。それは、神がわたしたち人間をご自身に近い特別な存在としてお造りくださったからです。神様から霊を与えられていることにより、わたしたちは神様を知ることができ、神様と話すことができる、神様と交わりをもてる存在になっているのです。これこそ、わたしたち人間が他の動物を決定的にことなる特別なことではないでしょうか。

 地上に住むことになった人間は、生きるためのぎりぎりの生活をしていました。生きて行くためにはまず食べるものが必要ですが、食べ物を得るためには多くの労苦が必要であり、十分な食べ物を得られないこともしばしばあり、生きることに不安がありました。自然災害も人間の命を脅かしました。このように人間が地上で生きて行くには多くの困難があります。このことを詩編90編では、人生は労苦と災いに過ぎないと嘆いています。労苦や災いにあった時、人間は神に問いました。なぜ労苦しなければならないのですか。なぜ災いに遭うのですか。そして、労苦や災いの原因が、実は自分たち人間にあることを知ることになったのです。神に背いた罪によって汚れているゆえに人間には労苦と災いがついて回ることに気づいたのです。

 そのことに気づいた人間は神を恐れ、神を礼拝することによって神を宥めて、赦しを求めるようになりましたす。神を礼拝することは、霊的な存在である人間としてとても自然な行為です。礼拝をどのようにするのか。宗教はそれぞれ独特な礼拝の形を生み出しました。イスラエルの民はモーセを通して神から律法を与えられ、イスラエルの民は律法に従って神を礼拝するようになったのです。

 では、律法はどのようにする礼拝しなさいと言っているのでしょうか。旧約聖書の最初の五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記が律法の書です。近代的な法律のように条文として書かれているものもあれば、物語の中に出て来る命令もあり、またいくつかの書に同様のことが書かれているものもあります。その理由を話すと長くなるので今日は省略しますが、今日の聖書ヘブライ人への手紙9章23節から28節に書かれていることは、レビ記16章に書かれた律法の規定、贖罪の礼拝を巡ってのことです。

 贖罪は「罪を贖う」と書きますが、聖書には「贖う」という言葉がよくつかわれています。もともとは「(奴隷を)買い戻す」という意味です。当時の奴隷は、戦争による戦利品として、または経済的な理由で売られた人でした。奴隷は主人の家に仕えなくてはならず、自由はありませんでした。しかし、自分で稼ぐなり、家族や親族がお金を出し合うなどして買い戻すことができました。奴隷を買い戻して自由を取り戻すように、罪に囚われている人を解放する、という意味で、聖書では「贖う」が用いられているのです。罪の奴隷になっている人を神に買い戻していただいて自由にしていただくための礼拝が、贖いの儀式、贖罪の礼拝です。

 贖罪の礼拝は罪を犯したときなど個人が適宜行う礼拝もありますが、最も大切とされていたの、贖罪日の礼拝でした。イスラエルの人々が犯した罪を贖っていただくために、年に1度、祭司が民を代表して行う礼拝です。レビ記16章に贖罪日における礼拝の方法が詳しく記されています。

 礼拝はまず清めの儀式から始められました。礼拝は、神という聖なる方に罪に汚れた人間が向き合う時ですから、罪を自覚して清めることは大切なことですし、自然なことです。ユダヤ教に限らず、多くの宗教で清めが行われます。日本の神道では神主さんがお祓いを行いますが、穢れを払って清めるのです。また神社の境内の入り口には手水場があって、水で手を洗って清めてから境内に入ってお参り、すなわち礼拝をします。カトリック教会でも御堂の入り口に聖水が置かれており、信徒は聖水をつけた指で十字を切ってから御堂に入ります。イスラム教では1日5回の祈りの前に口、目、鼻、耳を水で濡らして清めます。そのほか、塩や火や煙によって清めることも多くの宗教で行われています。

 律法の贖罪日の清めの儀式は次のように規定されています。祭司が礼拝所の一番奥にある至聖所に入ります。至聖所は最も神聖な場所です。まず祭司自身を清めるために雄牛1頭と雄羊1匹を屠り、その血を指で聖所に振りまきます。次にイスラエルの民のために雄山羊2匹と雄羊1匹を屠り、その血を至聖所に振りかけます。このようにして清めてから贖いの礼拝を行うのです。

 23節に「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、」と書かれています。これは直前の9章に書かれていることを受けてのことですが、天にあるものの写しとは地上の礼拝所のことです。わたしたちが本当に礼拝する場所は天上の神の国にあります。しかし、地上にいる間は、人間の手で作った礼拝所で礼拝するしかありません。地上の礼拝所は天の国・神の国の写しで、本当の聖所ではないのですが、天上の礼拝所を思いつつ、地上の礼拝所で礼拝するのです。地上の礼拝では、大祭司が犠牲の動物の血によって清めます。しかし、いくら大祭司でも天の国・神の国の礼拝で清めをすることはできません。人間である大祭司も罪で汚れているからです。できるのはただおひとり、イエス・キリストしかいないのです。イエス・キリストは、罪による汚れがありませんから、ご自分のための清めが必要ありません。そして、動物の血によってではなく御自身の血によってわたしたちの罪を清め、動物のいけにえではなく御自身をいけにえとして神に献げられたのです。

 わたしたち人間は罪で汚れているため、清められなければなりません。しかし、大祭司による血の清めを受けても、また汚れます。ですから、大祭司は何度も繰り返し清めの儀式を行い、神に贖いを祈らなければならなかったのです。では、地上の大祭司による清めの儀式、贖いの祈りは無意味だったのでしょうか。そうではありません。必要でした。ただ、それはイエス・キリストの血による清めのときまでのことでした。今や、イエス・キリストの血による清めとイエス・キリストのいけにえによる贖いが実現しました。もはや地上の礼拝所における清めもいけにえも必要なくなりました。地上の聖所での礼拝では、毎年、繰り返し行う必要がありましたが、イエス・キリストによる清めは永遠に有効なのです。イエス・キリストは最後のいけにえとなって、わたしたちの贖いを永遠に確かなものにしてくださったのです。

 今日はこれから聖餐に与ります。聖餐ではいけにえとなったキリストの体を想起してパンを食べます。また、汚れの清めとなったキリストの血を想起して杯を飲みます。しかし、聖餐のパンを食べ、聖餐の杯を飲むこと自体が清めではありません。聖餐は、イエス・キリストが神への献げ物、いけにえとなってくださったこと、またイエス・キリストの血によって私たちが清められていることを想起し、記念することです。そのことを思いつつ、聖餐に与りましょう。