2022年10月30日 契約のしるし 森永憲治牧師

(要約)アブラハムなど旧約の登場人物は行動の人たちでした。イエス様もパウロも、信仰によって救われると説きましたが、それは行動の必要がないということではありません。神様を信じる故の行動が伴った信仰が求められています。

(説教本文)創世記9章8~17節 ルカ11章33~41節

先日タレントのうつみ宮土理さんの記事がネットでも出まして、80歳にして美容に健康にと精力溢れるとても素敵な記事でした。「スキンケアとUVクリームをしっかり塗って、6時半から近くの公園でやっているラジオ体操に参加します。ボーイフレンド(?)のクマちゃんと待ち合わせをして、会場に行くと仲間がいるの。最近、日本語ができないオーストラリア人の新入りがいて、これがね、イケメンなのよ。だからますます行くのが楽しみで。   7時まで体操したら、近くのコンビニで100円コーヒーを飲みながら仲間とお喋り。みんなきれいにメークしていて素敵なの。オシャレしてラジオ体操に来るなんて可愛いわよね。」そうですよね、女性は年はいくつになってもきれいでありたいでしょうし、それがいいにきまってます。80歳でお化粧ばっちり決めてラジオ体操に出かける、本当に素敵ですね。

うつみ宮土理さんは私達と同じ日本基督教団の会員ですが、この記事は、「毎朝5時に起きた瞬間に『今日も楽しいことが待っているわ』と思い込んでから起きるの。それが運を呼び込む秘訣。」で始まっていまして、これはこの世を幸せに生きる本物の秘訣の一つではないかと、僕は心からそうだなって思いました。

何故かと申しますと、「今日も楽しいことが待っている」ということがこの世の真実だと思うからです。それは、この世は神様が造ったのであり、神様は愛なのです。それならば、この世で起こることは一見不幸なことばかりであっても、実は神様の御手の中であるものならば、この世はすばらしいもの、ならば、毎日辛いことだらけであったとしても、実は私達には毎日神様はすばらしいことを用意して下さっている、それが真実ではないでしょうか。

さて、本日は宗教改革記念礼拝です。この日は私達プロテスタント教会の誕生日でもありますので、その意義を確認したいと思います。

まず、宗教改革によって生まれたプロテスタントの三大原理「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」についてですが、私が皆さまにも個人的によく話をするのは、「信仰のみ、行いではない」を文字通りにとるべきではないということです。信仰のみといいますが、クリスチャンは行い、行動が大事です。それは聖書が最初から最後まで語っていることです。ルターの「信仰のみ、行いではない」の原理はパウロの手紙が多くその根拠となっています。確かにパウロは言いました、
ローマの信徒への手紙4章1~3節、
04:01では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。 04:02もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 04:03聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。

これだけ見ると行いはどうでもいいのか、となります。しかし聖書のアブラハムのところをみれば分かる通り、アブラハムは神様を信じたからこそ、75歳という高齢にもかかわらずそれまで住み慣れた故郷を離れて旅立つという「行い」を実行したのです。アブラハムはこの時の名前はアブラムでした。
創世記12章1~4節、
12:01主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 12:02わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。 12:03あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」 12:04アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

それでは行動について、イエス様は何と教えているでしょうか?皆さんよくご存じのルカ福音書のサマリア人の話を改めて見てみましょう。イエス様は表面的でしかない宗教指導者ではなく、親切な行いを実行する異教徒のサマリア人を肯定する話です。
ルカ福音書10章25~37節、
10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 10:31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

またイエス様は行動の大切さを次のように説明されました。口先だけ神様の望み通りを装って実際には行いが伴っていない宗教指導者ではなく、ザアカイなど徴税人や罪多き女性たちの、例え表面的にはその行いには問題があっても、その心から悔い改めて神様の望み通りに生きる、これが大事だと。
マタイ福音書21章28~31節、
21:28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 21:29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 21:30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 21:31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。

さて、パウロはどうでしょうか?信仰を強調するパウロも、やはり行いを重視します。パウロの伝道旅行のいよいよ最後となるところ、ローマに護送される直前、ユダヤを統治していたアグリッパ王への弁明のシーン、
使徒言行録26章19~21節、
26:19「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、 26:20ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。 26:21そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。

さて、本日の聖書箇所は、イエス様が当時の宗教指導者を非難する箇所です。それは旧約聖書新約聖書一貫しての聖書の強調点の一つである偽善を徹底的否定です。偽善とは、人の前で神に従うふりをして、その実体は自己利益を求める行為、簡単に言えば神様の名前を利用して自分を売るとでも言えると思います。先ほどのサマリア人の話もそうでしたが、彼らが表面的な宗教上の規則を守るか守らないかばかりに固執し、その社会的立場を使って人を支配し裁いていたことを具体的に指摘し、非難する箇所です。
ルカ福音書11章37~44節、
11:37イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。 11:38ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。 11:39主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。 11:40愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。 11:41ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。 11:42それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。 11:43あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。 11:44あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

このイエス様の徹底批判は、マタイ福音書でも取り上げられています。そこでは墓が「白く塗った墓」と表現され、それは宗教指導者の偽善を例えています。
マタイ福音書23章27~28節、
23:27律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 23:28このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

パウロもイエス様のおっしゃった「白く塗った墓」同様の表現「白く塗った壁よ」を用いて宗教指導者を非難します。パウロの伝道旅行の最後にエルザレムで捕らわれた直後の、
使徒言行録22章30~23章3節、
22:30翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。 23:01そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」 23:02すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。 23:03パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」

イエス様もパウロも白く塗った墓、白く塗った壁という表現でその彼らの偽善を否定し、神を信仰するというのであれば表面ではなく内面からであり、内面つまり心や魂こそ神様の前で清くそして白くあれと言うのです。

イエス様もパウロも、信仰によって救われると説き、それは必ず神様を信じる故の行動が伴った信仰さしています。神様は律法をモーセに与えられました。しかしアブラハムはモーセより遙か以前の人であって、つまりアブラハムの時代は律法はありません。律法よりも遙か前の信仰の父アブラハムの信仰とそれを義とした神様を引き合いに出して、パウロは律法至上主義の宗教指導者を論破しました。宗教指導者たちは律法を守らなければ神様から認められないと強く主張しますが、その律法がまだ存在していない、つまり律法など守りたくてもその時は存在しないから守れないアブラハムをその信仰によって神様は義とされた、つまり、宗教指導者たちの律法至上主義は矛盾していて、パウロはそこを明確に論じました。

ローマの信徒への手紙4章9~13節、
04:09では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。 04:10どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。 04:11アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。 04:12更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。 04:13神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。

パウロはいわば信仰の原点に立ち帰ったのです。同じように宗教改革とは、当時のカトリック教会に依拠せずに信仰の原点である聖書に立ち帰るものなのです。パウロの時代の律法も、宗教改革時代の教会の免罪符購入も、それをすれば天国に行けると信じられていた、今ではそんなこと誰も信じないし、そうしたマニュアル化した宗教規則を機械的に遵守するだけの行いでは救われない、それが「救いは信仰のみ、行いではない」ということだと思います。宗教改革とは教会の改善進歩という面もあるでしょうが、信仰の原点聖書に返ることであり、その精神は今のプロテスタント教会は伝統として引き継ぐべきでしょう。

そして大事なことは、聖書の時代の宗教指導者の偽善「白い壁・白い墓」に対するイエス様やパウロ批判は、現在の教会にも向けられるということです。本日の聖書箇所のイエス様の厳しい批判は、現在の堕落した教会の様子です。イエス様の批判の基準は、私達もチェックリストとして気を付けるべきと思います。残念ながら現在も教会の不正、牧師や信徒の問題行動、表面上信仰深く見えて実は「白い壁、白い墓」、そうした不正の話は絶えません。今の私達も本日の箇所のルカの記事とその平行記事のマタイにあるイエス様の批判された内容は常に今の自分達にも向けられていないかと常に注意するべきです。ある意味こうした問題は、教会も罪人の集まりですので起こってしまうのも仕方ないところがありますが、そうした時に自浄作用を働かせ、その時は神様の前に悔い改めて聖書の原点に立ち戻る、また、教会の中に起こる不正とは妥協せず戦う、これらはプロテスタント教会が伝統として大事にしていくべきものではないでしょうか。

さて、本日与えられました聖書箇所の旧約聖書の箇所は、有名なノアの箱舟物語で、その最後の場面です。

このノアの洪水の意義ですが、いろいろな解釈があるでしょうが、私はこれはイエス様の洗礼の先駆的意義を持つと思います。洗礼がその水を通して一度死んで新しく神様と共に生きるというのと同じように、洪水という水を通してこの世を一度死滅させ、新しく再生するという意味だと思います。ノアの洪水を通し、それまで腐敗していたこの世界を終了させ、新しい世界となったのです。箱舟物語の冒頭部分を見てみましょう、
創世記6章5~9節、
06:05主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、 06:06地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。 06:07主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」 06:08しかし、ノアは主の好意を得た。 06:09これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。

ここに「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」とあります。神様はそのような人を人を選んだのです。このノアの人柄と信仰者としての生き方は、本日の聖書箇所ルカ11章33~36節のイエス様の教えと共通しています。そして不正を働く人ばかりの中でノアが選ばれたことは、イエス様のこの教えの直後に宗教指導者たちを痛烈に批判したことと共通しているでしょう。私達も神様の前でノアのように無垢であり、全身明るくして少しも暗いところがないようにしたいです。
ルカ福音書11章33~36節、
11:33「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。 11:34あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。 11:35だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。 11:36あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

本日の聖書箇所であるノアの物語の最後の部分は語ります、神様は全人類とすべての生き物を祝福されました。
創世記9章8~17節、
09:08神はノアと彼の息子たちに言われた。 09:09「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。 09:10あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。 09:11わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」 09:12更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。 09:13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 09:14わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 09:15わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 09:16雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」 09:17神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

そうです、この世はすべて神様から祝福を受けているのです。それを心から信じましょう。本日は宗教改革記念です。私達は常に聖書の教えの原点に戻ることです。神様を心から信じ、その信仰に従って行動を伴った信仰生活を送りましょう。そしてこの世はすばらしいと信じましょう。なぜなら、神様が支配されているこの世は神様から祝福されたものだというメッセージが聖書の原点です。確かにあなたの今の目の前の現実は辛いかもしれません、しかし、聖書が語る真実は、この世は神様の祝福と愛に満たされているのです。無垢で全身明るい神様と共に生きるノアの目に映るすべては神様に祝福されていて、それがこの世界の本当の姿なのです。信仰の無い人にとっては辛い世界であっても、神様を信じる者の目には虹がかかっているのです。私達もいつも心を清く白くしたいと思います。

宗教改革、それは、聖書の原点に立ち帰ること。私達も毎日この神様の祝福と愛に立ち帰り、それを信じて生活しましょう、朝、目が覚めたら、「今日も楽しいことが待っているわ」です。