2022年12月4日 恵みに満ちた神の言葉 吉岡喜人牧師

(要約)地上で生きることの苦しみに耐え、偶像に走ることなく、希望をもって救い主の到来を待つ時、それが待降節です。

(説教本文)イザヤ書55章1-11節
 教会のカレンダーは先週からアドベントに入っています。教会のカレンダーである教会歴は、神様と人間の歴史的な関わりを示すために、重要な出来事を1年に割り当てたものです。重要な出来事とは、救い主の降誕、受難と復活、昇天と聖霊降臨です。わたしたちは、神様が歴史の中でわたしたちを救おうとされて来られたことを覚え、今もこの時も私たちを救いに導こうとされていることを確信することができるのです。教会歴はこのように救いの希望と確信をわたしたちに与えてくれるのです。
 
 アドベントは英語ですが、ローマを中心とした西方教会の公用語であったラテン語で「向かって来る」、「到来する」という意味のアドベントゥスを語源としています。わたしたちキリスト者の間では、アドベントという一言で、「救い主・キリストが来られる」という意味であることを共有しています。すばらしいことですね。誰が訳したのかわかりませんが、アドベントを日本語では「待降節」と言います。わたしは、この「待降節」という呼び方が、アドベントの期間の意味をよく表していると思っています。アドベントの期間、わたしたちは、救い主が来られることをひたすらお待ちしているのです。
 
 神に背くという罪を犯してエデンの園を追い出されたわたしたち人間は、大変な苦労をして地上で生きなければならなくなりました。エデンの園では食べ物のことを心配する必要はありませんでしたが、地上の生活は常に食べ物のことで苦労をしなければなりません。食べ物のことで人間同士が争うようになり、食べ物を奪い合い、食べ物を生み出す土地を奪い合います。ロシアによるウクライナを侵略もそうですが、今この時も世界のあちらこちらで争いが起きています。
 
 神はエデンの園から人間を追い出しましたが、それは、人間を争わせるためではなく、悔い改めを求めるためでした。わたしたち人間が神に対して犯した罪を自覚し、悔い改めて神に立ち帰ることを神は待っておられるのです。神は人間を救うために、いろいろなことをしてくださいました。そのことを神の救済の歴史、救済史と呼びますが、救済史を記した書物が聖書、特に旧約聖書であると言いうことができるでしょう。旧約聖書は、人間の代表としてイスラエルの民を選び、神がどのようにイスラエルの民と関わって来られたかを書き記しているのです。神が人間と関わって来られたということは、いかにして人間を滅びから救いだそうとされてきたかということです。
 
 旧約聖書が語るイスラエルの歴史の中には、救いにかかわる出来事がいくつもあります。その中で大きな出来事といえば、ノアの洪水、エジプト脱出、そしてバビロン捕囚でしょう。バビロン捕囚はイスラエルが民族として、あるいは国として存在できるか否かの大きな出来事でした。
 
 今日はイザヤ書から御言葉を聞いていますが、イザヤの預言は、バビロン捕囚前から捕囚後にまで及んでいます。捕囚前の預言では、イスラエルの民に悔い改めを呼びかけ、バビロンに捕囚となってからは民に神の慰めの言葉を伝え、バビロン捕囚は必ず終わるときが来る、そのときに望みをもって待つようにと民に呼びかけ、励ましました。バビロン捕囚の前から終わりまで神の言葉を伝え続けたイザヤとは1人の預言者ではありません。イザヤから始まり、その弟子たちが後を継いで神の言葉を語り続けたのです。大まかにイザヤ書は3部構成になっていて、今日わたしたちに与えられたイザヤ書55章は、第2部の終わりの章です。バビロン捕囚が長くなり、世代も交代し、人々の中にはバビロン捕囚からの解放をあきらめる人も出ていました。そのような人々に預言者は、バビロン捕囚から解放される日は必ず来る。神を信頼し、あきらめずに救いを待つようにという神の言葉を伝えたのです。
 
 しかし、人間は弱く、苦難の中に立ち続けることはなかなかできません。
 
 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」この時代、水は貴重品でした。井戸は有力者の私有物であり、お金を払わなくては水を汲むことができませんでした。イエス様がサマリアのシカルというところで井戸から水を飲ませてもらった話がヨハネによる福音書に書かれていますが、井戸から水を飲むことは簡単なことではなかったのです。しかし神は無償で渇きを癒してくださるのです。
 
 喉の渇き、腹の空腹はつらいものです。世の中が不景気になると窃盗などの犯罪が増えますが、飢え、渇きは人格を変える力としてわたしたちに襲い掛かります。「衣食足りて礼節を知る」という東洋の格言もそのことを言い表しています。飢え渇いた人は、救いを求めますが、ともすると偶像に救いを求めてしまうことがあり、今日の2節では偶像に走ることにならないようにと、呼び掛けています。偶像は、木や石で神の形として彫刻したものだけではありません。今日では例えばお金も偶像になりますし、オウム真理教や統一協会も偶像といってよいでしょう。
 飢え渇きに苦しむ者の心にはサタンも襲い掛かります。イエス様も、サタンに襲われたことがありますね。荒野で断食をして空腹になったイエス様に、サタンは石をパンにするよう神に願ってはどうかとイエス様を誘惑しました。神を試みるという罪を犯させようとしたのです。その時イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と言ってサタンを退けられたのです。このときイエス様が口にした言葉は、申命記8章3節に書かれている言葉ですが、出エジプトにおいて神が荒れ野でイスラエルの民を飢えさせ、しかしマナを与えたのは、人は神の言葉で生きることを知らせるためだったのです。苦しいとき、飢えたとき、渇いたとき、神を信じ、神の言葉に従いなさい。神は必ず助けてくださる、と神は語られるのです。
 
 さて、バビロンの捕囚となっていたイスラエルの人々は、捕囚から解放される日、救いの日を待っていました。1年、2年、5年、10年。しかしいくら待ってもその日は来ません。そのうち、人々はバビロンでの生活に慣れてきました。バビロンでは、自由は奪われていたものの、食べることができ、住む家も与えられ、結婚し、子どもを育てと普通の生活をしていました。財産を蓄える人すらいました。異国での暮らし安さを求めて、バビロンの偶像の神々を拝む者も少なからずいました。衣食は足りていましたが、魂は危機にありました。ヤハウェの神を離れても、生きることができるではないか、いやバビロンの神々の方がよほど自分たちの生活に役立つと偶像に頼る人が増えて行ったのです。
 
 そのような人々に対して、イザヤを通して神の声が響き渡りました。「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くいますうちに。神に逆らう者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(6-7節)
 バビロン捕囚からの解放の日は近い。神は近くにいます。今こそ神を見出すとき。偶像の神々に頼ることなく、まことの神に立ち帰りなさい。神は過ちを赦してくださる、と主なる神は言われるのです。さらに、神は、神の民に対するご自身の思いを伝えられます。
 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」(8-9節)
 そうなのです。神はわたしたちと同じ高さにはおられないのです。わたしたちより、はるかに高いところにおられるのです。わたしたちを愛され、救おうとされておられるのです。わたしたちはともすると神を自分たちと同じ高さにしてしまいます。そう思いたくなるのです。そこで、神への不信仰が芽生えるのです。いけません。神は、わたしたちよりもはるかに高いところにおられるのです。
 
 神の声を聞き、神の思いを知った人々は、救いを待ちました。神が約束されたのです。救いは必ず来る。その日は必ず来ると信じて待ちました。やがて静かに神の約束の日が到来しました。ひっそりと、救い主はベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったのです。
 
 待降節、それは、イスラエルの人々が長い間、神の約束の実現、救いの実現を信じて待っていたことを思い、わたしたちも心から信じて救いを待つ時です。
 
 神は今、わたしたちに試みを与えておられます。コロナウイルス感染という試みです。この試みにわたしたちは苦しんでいます。もう3年も続いているのに、いまだ先が見えません。終わりの時はいつ来るのでしょうか。あまりの長さに、耐えきれなくなっている人が沢山います。神はなぜこのようなことをなすがままにされるのでしょうか。なぜわたしたちをここまで苦しめるのでしょうか。
 わたしもこのことに悩み、考え、祈り続けています。答えはなかなか与えられませんが、ひとつ思い当たることがあります。それは、わたしたちにとってコロナウイルスに苦しめられている3年はとても長い期間ですが、イスラエルの民が苦しんだ長さに比べれば、ほんのひと時なのです。神の試みは、わたしたちの信仰を高めるためであり、わたしたちに鍛錬を与えておられるのです。
「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-6)
 また、
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます。」(コリント一10:13)
耐えられないような試練は与えないと言われ、さらに苦しさから逃れようとして偶像に走ることがないようにともいわれるのです。偶像は人を救うことなく、かえって苦しめることになるのです。

 コロナウイルスだけでなく、いろいろなことに悩み、苦しんでいるわたしたちです。しかし、神を信じ、試練の時を耐え、偶像に走ることなく、来るべき救いの日を希望をもって待つこと。これこそが神がわたしたちに求めておられることであり、それができる力を神は与えてくださっているのです。

 待降節のこととき、わたしたちは、イザヤを通して、またパウロを通して与えられた言葉によって生かされ、苦しみに耐え、神に従う者として、救いの実現を、救い主の到来をこころから希望をもって待ちましょう。主の日は近いのです。