2022年5月29日 キリストの昇天 吉岡喜人牧師

(要約)十字架の前、主イエスは自分がいなくなった後に弟子たちを守ってくださいと執り成してくださいました。主イエスを救い主として信じる者は皆弟子ですから、わたしたちのためにも執り成しの祈りをしてくださっています、

(説教本文)ヨハネによる福音書17章1~13節
先週の木曜日5月26日はイエス・キリストが天に上げられたことを記念する日、昇天日でした。復活されたイエス・キリストは40日の間弟子たちと共に過ごされました。十字架の死によってすべてを失ったと思っていた弟子たちは、復活された主イエスと共に福音を宣べ伝えることができることを喜びました。しかし、40日目に主イエスは弟子たちを呼び集め、自分はこれから天に昇ると話されたのです。その時の様子を使徒言行録は次のように書き記しています。
「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばにたって、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』(使徒1:6-11)
復活された主イエスと共に働くことを喜んだ弟子たちは、主イエスとの突然の別れに驚き、悲しんだでしょう。しかしすぐに立ち直り、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とルカによる福音書に書かれています。「主イエスは、またおいでになる」という天使の言葉が彼らを力づけたのです。

主イエスは生前、自分は十字架にかかって死ぬが、3日後に復活すると何度も弟子たちに話していました。弟子たちはなかなかそのことが理解できずにいました。主イエスの十字架が現実となったとき、彼らは驚き、恐れ、逃げてしまったのです。また、主イエスが復活されたときにも、すぐには信じられませんでした。さらに、復活した後に天に上げられることなど全く聞かされてもいないと思っていました。
しかし、主イエスは、十字架のことも、復活のことも、そして天に上ることも、何度も弟子たちに話されていたのです。
「しばらくすると世はわたしを見なくなる」(14:19、16:16)「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」(16:5)「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(16:28)そして、今日の聖書個所、十字架を直前にした主イエスの祈りの言葉の中にも天に昇ることが語られているのです。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。」この主イエスの祈りも弟子たちは聞いていました。しかし、何度聞いても弟子たちの耳には真実として入ってこなかったのです。
ずっと後になって、主イエスが神様に、自分はあなたのところに戻りますが、自分がいなくなった後もわたしの弟子たちを守ってくださいとお願いしてくださっていたことがわかった時、弟子たちは感動し、喜んだのです。

ところで主イエスが昇天したとき、天使が弟子たちに「主イエスは今あなたがたが見ているのと同じ有様でまたおいでになる」と告げました。弟子たちはすぐにでもその時が来ると思っていました。しかしその時はなかなか来ません。それから何世紀もの時が過ぎました。今もまだその時は来ていません。ということは、わたしたちは主の昇天から再臨の間に生きているということで、その点では弟子たちと同じということです。わたしたちも今日の聖書に書かれた主イエスの祈りの言葉を、主イエスの弟子として聞きましょう。

さて、今日の聖書、ヨハネによる福音書17章は「イエスはこれらのことを話してから、」と書き始められています。これらのこととは、どのようなことでしょうか。
過越祭を祝うために主イエスは弟子たちとエルサレムに来られました。それから十字架までの1週間ほどの間に、主イエスは多くの言葉と行いを残されました。
 過越祭の食事の席に着くとき、主イエスは弟子たちの足を洗い、驚く弟子たちに互いに足を洗い合いなさいと言われました。
 天国に入るためには、主イエスを通らなくてはならない、わたしは道であり、真理であり、命であると言われました。
 弁護者である聖霊を遣わしてくださるよう神にお願いしてくださいました。
 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である、と話してくださいました。
 わたしは既に世に勝っていると宣言されました。
 これらのことを話した後に主イエスは今日の聖書個所の祈りを父なる神に祈られたのです。

 この祈りの中で主イエスは何度も「栄光」という言葉を口にしています。1節「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」4節5節「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が作られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」10節「わたしは彼らによって栄光を受けました。」栄光という言葉を用いて、主イエスは何を語ろうとされたのでしょうか。

 旧約聖書にも「栄光」はよく出てきます。
エジプトを出たイスラエルの民を追いかけたファラオの軍勢を破ったことで主は栄光を現された、と書かれています。(出14:17)また、食料がないことで民がモーセとアロンに不平を述べたとき、主の栄光が雲の中に現れ(出16:10)マナやうずらが与えられ、命が守られたとも書かれています。
イスラエルの三代目の王ソロモンは壮大な神殿を建てました。その聖所に契約の箱を安置したとき、主の栄光が主の神殿に満ちたのです。

 新約聖書では、まず頭に浮かぶのが、主イエスの降誕の時、羊飼いたちに天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたことでしょう。天使たちは歌いました。「いと高き所には栄光神にあれ」。
 ヨハネによる福音書1章14節では「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」と書かれています。
このように、旧約聖書、新約聖書を通して、栄光は本当は見ることのできない神の姿を表す言葉として、また神の業である救いを表す言葉として用いられているのです。

そこで改めて今日の聖書個所を読みますと、1節「あなたの子があなたの栄光を現すようになるため、子に栄光を与えてください。」と言っているように、父である神と子であるイエス・キリストが一つとしてわたしたちに救いをもたらす、わたしたちに永遠の命を与えてくださることを栄光と言っていることがわかります。父なる神と子なるイエス・キリストがもたらす救いとは、十字架のことです。4節「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて」とはまさに十字架のことであって、そのことによって主イエスは「地上であなたの栄光を現しました」すなわち、父なる神よ、あなたの救いの業を私が地上で十字架によって実現しました、と言っておられるのです。

6節~10節に主イエスの弟子たちへの執り成しの祈りが書かれています。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を表しました。・・・・・・わたしは彼らによって栄光を受けました。」
 主イエスは神に祈ります。弟子たちは、わたしがあなたのもとから遣わされてきたことを信じました。わたしが神の子であることを信じました。わたしを救い主として、わたしの言葉を守りました。わたしがあなたから栄光を受けるのは、彼らがわたしを救い主として信じてくれたからです。10節の「わたしは彼らによって栄光を受けました」という主イエスの言葉は、主イエスと弟子たちの深い信頼関係に基づいた言葉なのです。
ですから父よと、主イエスは弟子たちのために主に願います。これまでわたしは彼らを守ってきました。しかし、もうすぐわたしはあなたのもとに行きます。自分があなたのもとに行った後も、彼らは地上に残ります。ですから父よ、わたしがあなたのもとに行った後は、どうかあなたが彼らを守ってくださいと弟子たちのために執り成しの祈りをしてくださったのです。

主イエスのこの祈りに天の父は応えてくださいました。主イエスが天に上ってから10日目、復活から50日目に、主イエスの弟子たちを守り導くために、神は聖霊を地上に送り出してくださったのです。

主イエスは、弟子たちによって栄光を受けたと言ってくださいました。主イエスの弟子たちとは、主イエスを救い主と信じる者のことです。わたしたちも主イエスの弟子たちです。ですから、主イエスはいまここにいるわたしたちによって、わたしたちの主イエスに対する信仰によって栄光を受けるといってくださるのです。申し訳ないほどにありがたい言葉ではないでしょうか。

主イエスは今、父である神の右に座っておられ、わたしたちのために聖霊を送るようにと頼んでくださっています。主イエスの執り成しに感謝し、神の栄光がこの世に現れて聖霊がわたしたちに降されますよう、主なる神に祈りましょう。