2022年7月17日 パン種に注意 吉岡喜人牧師

(要約)救いは律法を行うことか、イエス・キリストを救い主として信じることか。キリスト教徒でありながら、割礼(律法)が必要だとして混乱していたガラテヤの諸教会にパウロが手紙を送りました。

(説教本文)ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節

長い道のりを経て、この新しい会堂で礼拝する日が来たことに、大きな喜びと感謝を覚えます。改築はわたしが赴任してくる前から検討されていたことですので、20年ほどになります。
建物はまだ完成したわけではなく、仮使用という状態です。エレベータが使えないなど未完成です。牧師住宅部分も電気が通っていません。引越しも完了していないので、ご覧の様な状況です。それでもまずは礼拝ができることを喜び、感謝しましょう。
未完成の会堂での礼拝というと思い出すのは、東日本大震災直後の気仙沼第一聖書バプテスト教会の礼拝です。津波で建物が全て流され、基礎のコンクリートだけが残った教会の建物の跡に、がれきの中で見つけた丸太を十字架に組んで、まだ3月の寒い中で立ったままの礼拝でした。神はこの礼拝を大変に喜んでくださったと確信します。どんな場所であっても、たとえ建物がなく、がれきの中であっても、こころから神を賛美し、真剣にみ言葉を聞くことを神はお喜びになるのです。

 さて今日はガラテヤの信徒への手紙5章の前半からみ言葉を聞きますが、テーマは律法とキリスト信仰です。

 ガラテヤは現在のトルコの中央部の地域です。パウロは第二次宣教旅行で訪れ、この地方一帯に教会を設立しました。このときの様子は使徒言行録16章に詳しく書かれていますが、アジア州での宣教を聖霊に禁じられ、予定を変えて行ったのがガラテヤ地方でした。使徒言行録はガラテヤでの宣教についてこれ以上のことを語っていませんが、このガラテヤの信徒への手紙のあて先が「ガラテヤ地方の諸教会へ」となっていることからすると、多くの教会が設立されたのです。アジア州での宣教が行き詰っていたからこそ、ガラテヤ地方への宣教ができた、これこそ主なる神の不思議な導きであり、わたしたちも励まされるのです。

今日の聖書個所5章7節に「あなたがたは、よく走っていました。」と書かれていることから、ガラテヤの諸教会は健やかに霊的な成長をしていたようです。しかしながら、ガラテヤの諸教会に律法を巡って重要な問題が起こっていたのです。その問題に向き合うために、パウロはこの手紙を書いたのです。手紙の冒頭、パウロはこのように言っています。
「キリストの恵みに招いてくださった方から、あなたがたがこんなに早くも離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(1:6)
ガラテヤの信徒たちを惑わしていること、それは律法でした。ガラテヤの人々は、パウロの宣教によりイエス・キリストの福音を信じる者となりました。しかし、彼らは先祖代々のユダヤ教徒です。幼いころからユダヤ教の教えと慣習の中で生きてきた人たちです。イエス・キリストの十字架と復活による福音信仰を受け入れてからも、しみついた律法の生活から離れられないのです。汚れた食べ物のこと、割礼のことなどですが、これらは、信仰のことというより、生活習慣なのです。このことはガラテヤの信徒たちだけではなく、ユダヤ人キリスト者全体に言えることでした。主イエスの弟子の筆頭だったペトロも同様で、律法を巡ってペトロとパウロは激しくやりあったこともあります。
日本のキリスト教は少数派ですから、家庭内や地域社会で同様なことが起こります。生活習慣となった宗教的慣習からなかなか抜けられないことを理解できるのではないでしょうか。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが、“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなた方は、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」(3:1~3)

律法に従う生き方の典型が、割礼でした。男性性器の皮を一部切り取る割礼は、律法に従って生きるユダヤ教徒であることの証でした。使徒言行録の中でも割礼を巡る多くの問題の事例が書き記されています。キリスト教は、ユダヤ教を母体としています。初期のキリスト教の信徒の多くは、元々ユダヤ教徒ですから、割礼を受けていました。しかし、教会には、ユダヤ教徒でない人もいます。その人たちに対して、キリスト者といえども割礼を受けなければ救われないと、割礼を強要していたのです。そうかなと思って割礼を受けた人もいたでしょう。おかしいなと思いながらも、教会の主だった人たちがそういうなら受けざるを得ないとして割礼を受けて人もいたでしょう。しかし、それは違うのではないか、救いに与るにはキリストを救い主として信じることであって、割礼を受ける必要はないのではないかと思う人がいて、割礼を強要するユダヤ人信徒たちとの間に論争が起こっていたのです。この論争は、教会を分裂させ、あるいはユダヤ人以外の信徒を教会から追い出すようなことになっていたのです。
そのことがパウロの耳に届きました。そこでパウロは自分の経験を交えて、ユダヤ人キリスト者に律法とキリスト信仰のことを手紙認めたのです。

まずパウロは自分自身の経験を語りました。ご存じのように、パウロは律法に従って生きることを信条とするファリサイ派に属していました。イエス・キリストの福音が律法を否定する邪教であるとしてキリスト教を弾圧する側にいました。ステファノを石打ちによって殺し、多くのキリスト者をとらえて官憲に引き渡しました。それが神に従う者の務めと信じていたから、神に喜ばれることと信じていたから、一生懸命にキリスト者を弾圧したのです。しかし、キリスト者を追ってダマスコに向かう途中、イエス・キリストに出会い、180度向きを変えてキリスト者になり、さらに福音を伝道する者になったのです。この自分の体験を語ることによって、救いは律法ではなく、イエス・キリストの福音にあることを力強く語ったのです。ガラテヤの人々はパウロが主イエスに出会って変えられたことをすでに知っていたはずです。しかし、そのことを繰り返し語り、自分もあなたがたと同じユダヤ教徒だったが、キリストに出会って、真理の道を歩むようになった、どうか律法に戻るのではなく、福音信仰、イエス・キリストによる救い、真理に生きるものとなって欲しいと、この手紙を通して語っているのです。

「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そう言う人は、律法全体を行う義務があるのです。」(5:2~3)
割礼を受ける、すなわち律法に従って生きるなら、律法全体を行わなければ意味がない、割礼を受けたからと言って、律法に従って生きることにはならないのです。しかし、人が律法全体を守ることはできるのでしょうか。できないと断言できます。律法は出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に書かれていますが、その全てを人間が行うことは不可能です。では、なぜできもしない律法を神は人間に示したのでしょうか。
律法が示すものは、完全なる人間の姿です。神は、律法を示すことで、人間としてあるべき姿を示されたのです。人間が、律法を鏡として自分の姿を写し、自分が不完全な者、罪の存在であることを知ること、それが律法をお与えになった目的なのです。ですから、主イエスもパウロも、律法を否定していません。否定していないどころか、主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消えうせることはない。」(マタイ5:17)と言っておられるのです。
律法を完全に行えない人間は救われないのであれば、わたしたちは破滅して地獄に落ちるしかないのでしょうか。パウロは言います。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5:6) わたしたちは主イエスの十字架による罪の贖いによって救われるのです。

わたしたちはもともとユダヤ教徒ではありませんから、律法かキリストかという問題は身近でないと思うかもしれません。律法に生きるとは、律法に書かれたことを行う、行いによって救われるという考えです。わたしたちもとかく行いを自分にも他人にも求める傾向があるのではないでしょうか。もちろん善い行いをすることを主イエスも否定していません。しかし、善い行いをいくら積み上げても、人間は完全に善い人間になれないことを知るべきです。大切なことは、私たちのために十字架で死んでくださった主イエス・キリストの贖い、救いを信じることです。福音を信じることが、わたしたちを救いに導く、わたしたちに命を与える、生きる力を与えるのです。

もう一つだけお話をして今日の説教を終えたいと思います。今日の聖書の後半です。教会から悪い考えを取り除きなさい、そうしないと教会全体が滅びに向かってしまいますということです。パウロの頭にあることは、割礼です。割礼を主張することを止めさせなさい。止めないなら、教会から追放しなさい、というのです。なぜなら、放置しておいたら、教会全体に悪い思いが広がり、教会全体が滅びに向かってしまうからです。教会から信徒を追放するのですか?と驚くかもしれません。確かに難しいことです。もちろんむやみにやるべきことではなく、十分に話し合い、説得することが第一でしょう。しかし、限度を超えた場合、信仰をもって追放しなければ、主の体の教会を損ねることになるのです。教会規則には「戒規」という規定があります。教会員の資格を一時停止する措置です。厳しい措置ですが、その人が正しい信仰に立ち戻るよう祈りをもって行いなさい、群れを守りなさいと、パウロは命じているのです。真理を求め、救いを求めるものを守る、それが教会の役割なのです。