2022年8月7日 キリストの体 吉岡喜人牧師

(要約)神様は一人一人の人間を同じにお造りにならず、違いをつけました。違いがあることによって社会は豊かになり、安心して生きることができる平和な社会になります。

(説教本文)コリントの信徒への手紙一 12章14~26節
1945年8月6日、広島の上空に飛来したアメリカ軍の爆撃機から原子爆弾が投下されました。爆弾が地上から600メートルほどに近づいた時、原子爆弾から発せられた強烈な光と熱によって建物はことごとく破壊され、人々の命を奪いました。一瞬にして蒸発してしまった人もいます。生き残った人たちも多量の放射線を浴び、全身にひどいやけどを負い、苦しみながら死んで行き、また苦しみの人生を送ることになりました。そして、同様のことが8月9日に長崎でも起こりました。

原子爆弾のあまりの威力に世界中の人々が驚き、どんなことがあっても原子爆弾を使ってはいけないと思いました。しかし、現実には少しでも相手の国より強い兵器を持とうとして、広島・長崎に落としたものよりはるかに強力な核兵器を作る競争が始まりました。たった1発の原子爆弾が広島と長崎を破壊しましたが、今、世界には1万発以上の核兵器があります。そのうち1発でも使用すれば、必ず相手も報復で核兵器を使います。互いに核兵器で攻撃しあえば、地球全体が破壊しつくされ、人類は滅びます。核兵器を所有している国は、使ってはいけない、使ったら大変なことになると分かっていても、手放すことができないという矛盾の中にいるのです。ロシアのプーチン大統領は核軍縮会議で「核戦争には勝者も敗者もない」と言いました。その通りなのです。しかし、そのことを言ったプーチン大統領がウクライナに戦争をしかけ、手を出せば核兵器を使うかも知れないと世界を脅しているのです。このように地上で繰り広げられる非人道的な行いを神様は悲しみの目でご覧になっていることでしょう。

平和の実現は大変な道のりです。しかし、一歩でも前に進まなければ、平和は決して実現しません。平和は向こうから来てはくれません。平和はわたしたちが実現するものです。だからイエス様は、「平和を実現する人々は幸いである。」と言われたのです。

平和とは人が安心して生きることができることです。戦争は平和を奪う大きな行いの一つですが、ほかにも平和を乱すことがあります。今日、私たちに示された聖書個所の舞台であるコリントの教会でも平和が乱されていました。それは戦争に比べて小さな事かもしれませんが、コリントの教会の人々の心に大きな影を落としていたのです。

コリントは地中海の中央部、すなわちローマ帝国の中央部に位置しており、このような地理的条件から、ローマ帝国内の貿易の中継地であり、商業が発達した裕福な町でした。裕福な町の教会である故の問題を、コリントの教会は抱えていたのです。教会には商人など裕福な人々も、貧しい人々もいました。知恵に富んだ人、知識の豊富な人もいれば、無学の人も大勢いました。キリストの教会は、どのような人であっても分け隔てなく交わるところであったはずですが、コリントの教会では、異なる階級の人々が交わろうとせず、同じ階級同士でグループを作り、互いに対立していたのです。
一つの例として、11章17節以下を読んで見ましょう。
(コリントの信徒への手紙一 11章17~22節)
この時代、礼拝は夜に行われていました。食べものを持ち寄り、礼拝の前に皆で夕食を食べました。本来は、各自が持ってきたものをテーブルの上に出し、多く持ってきた者も、少し持ってきた者も、全く持ってこなかった者も、分け隔てなく、皆で分け合って食べることになっていました。しかし、コリントの教会ではキリストの教会の伝統が崩れ、裕福な者たちは自分たちが持ってきたものを自分たちだけでたらふく食べ、ぶどう酒を飲み、礼拝が始まる頃には酔っている者すらいる。一方貧しい者たちは、空腹のまま礼拝に出席するという有様だったのです。
また、知識、預言、異言などの賜物を持っている者は、そのことを自慢していました。一方、自分には何の賜物も与えられていないからといって何もしようとしない者もいました。また、パウロは主イエスの直接の弟子ではないのに偉そうなことを言う、と言って批判する人たちもおり、パウロを擁護する人たちもいました。このように、コリントの教会にはいくつものグループが出来て、互いにいがみ合っており、分裂状態だったのです。一つの教会ではなくなっていたのです。いがみ合いがあれば喜びはない、これではいけない、何とかしなくては、だれもがそのことをわかっていても、どうすることもできない状況にあったのです。

このようなコリントの教会の信徒に向かって、パウロは手紙を通じて語りました。教会は、イエス・キリストを救い主として信じる者の集まりです。キリストによって一つに結ばれています。いわばキリストを頭とする体であり、教会の一人一人はその体の部分ということができるでしょう。体は手、足、耳、鼻、目など多くの部分から成り立っており、それぞれの部分には大切な役割があります。形も大きさも違うけれど、体全体にとってどれも必要な部分です。もし、体全体が目だったらどうしますか。においを嗅ぐことができません。音を聞くこともできません。歩くことも、物をつかむことも、食べることもできません。
教会にはいろいろな人がいます。いろいろな賜物が与えられています。パウロは、12章でこれを霊的な賜物と呼んでいますが、わたしたちに与えられているのは神から与えられた霊的な賜物です。一人一人に異なる賜物が与えられています。不要なものは一つもありません。神から与えられる賜物には差がありません。多い、少ない、大きい、小さいなどがあっても、神様の目には同じです。一人一人に異なる賜物が与えられているのです。それは、神様のご計画なのです。

人間は神様がご自身の姿に似せてお造りになった最高の作品です。神様が人をお造りになったとき、一人一人に違いを持たせてくださいました。なぜかというと、違いがあることで人間の社会が豊かになるからです。人間以外はどうかというと、例えば顕微鏡で見なければ見えないようなアメーバー、バクテリアなどは、どれも同じに作られています。魚はどうでしょうか。まず同じと言ってよいのではないでしょうか。イワシやアジを一匹ずつ見分けることはできないでしょう。鳥もあまり違いがありませんね。でも猫、犬などは同じ種類でも結構違いがあります。いわゆる高等動物になると個々の違いが大きくなるようです。人間には個々の違い、すなわち個性があるからこそ、豊かな社会が形成されるのです。教会というキリストを信じる者の集まりも、一つの社会です。そこに違いをもったいろいろな人がいることで、教会は豊かになるのです。

個々の人間の違いを認めない社会は、とても息苦しい社会になります。軍隊がその典型でしょうか。戦うことを目的として、同じ能力をもつように訓練を受けて、兵士として作りあげられていきます。軍隊では個性は不要です。むしろ邪魔なものとされます。訓練を受けても同じ能力にならなければ、兵士として不合格、切り捨てられます。
ところがスポーツでは違いが重要です。わたしの好きなラグビーでは、15人の選手すべてが別々の役割を持っていて、その役割に適した能力や体格を持っています。力でぶつかり合うフォワードには体重の重いがっしりした人、ボールを回して走り回るバックスには足の速い人、スクラムハーフというポジションには小柄な人が適しています。ラグビーというと、大きな人ばかりと思うかもしれませんが、小柄な人も必要なのです。それぞれ役割も能力も違う選手たちが、ボールを前に運んで点を取るという同じ目的のために、一つの集団として動くのです。個々の違いを生かし、一つの目的に向かうとき、そのチームは勝利へと向かうことができるのです。

昨年、開かれた東京パラリンピックで、わたしは車いすラグビーにくぎ付けになりました。日本チームには体の大きな男性選手に交じって、小柄でスリムな女性選手が入っているのです。彼女の役割は、相手チームの大柄な選手の前に素早く車いすを移動して進路を塞ぐこと、すなわちタックルをすることです。ヨーロッパのチームの体の大きな選手に臆することなく自分の車いすをぶつけて動きを止める彼女の活躍は素晴らしいものでした。車いすラグビーのルールを作った人たちは、いろいろな人が楽しめるスポーツにしたいと考えたそうです。車いすラグビーは実に豊かなスポーツだと感じました。

パウロはさらに言います。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
人間社会が豊かであるということは、経済的な豊かさではなく、わたしたちの心が豊かであるということです。どんなに経済的に豊かでも、人々の心が豊かでない社会は息苦しい社会です。コリントの教会も息苦しい教会だったのでしょう。経済的に豊かになるには、強い人がいることが好都合かもしれませんが、本当の豊かさ、人の心が豊かになるには、強い人だけではだめなのです。弱い人が必要なのです。経済的豊かさを追い求めていた古い時代、障がいをもった人たちは、社会の邪魔者とされていました。しかし、そうではないのです。障がいを持った人たちと共に生きることで、社会は豊かになれる、わたしたちの心が豊かになるのです。社会的に弱い人たちがいるからこそ、豊かな社会になるのです。近年、やっとそのことが社会に認識されるようになってきました。しかし、まだ古い考えのままの人がいて、障害を持った方々を社会の邪魔者として命を奪うという津久井やまゆり園事件を引き起こしました。「弱く見える部分がかえって必要なのです。」というパウロの言葉は、当時としては驚きをもって聞かれたでしょう。しかし、2000年かかってもまだ社会に定着していないことを神に赦しを乞わなければなりません。

「平和を実現する者は幸いである。」平和な社会は、すべての人が安心して生きることができる社会、息のしやすい社会であり、豊かな社会です。わたしたちもキリストの体の部分としてキリストにつながっている者として、豊かな社会、平和な社会を実現するために働く喜びをもっともっと味わいましょう。