2022年9月25日 奉仕する共同体 大村 豊先生

(要約)わたしちは神へのささげものとして献金をします。しかし、献金を巡ってトラブルも起きがちです。献金の意味を正しく理解し、真心をもって献金するとき、献金が恵みとなるのです。

(説教本文)コリントの信徒への手紙二9章6-15節

本日の聖書箇所を含むコリントの信徒への手紙二9章の、新共同訳聖書の見出しは「エルサレムの信徒のための献金」となっています。キリスト教会に限らず、宗教においての献金、お布施、お供え、賽銭は、信仰する神さまへ賛美・感謝・祈りをもってお捧げすると共に、教会・寺社仏閣・宗教団体の維持運営のための大切な基金となります。

 今年の7月以降、日本では「宗教団体への献金」が大きな社会問題になりました。7月8日に起きた安倍元総理銃撃事件の容疑者が、動機について世界平和統一家庭連合(旧統一協会)の名前を挙げ、「母親が団体にのめり込んで破産した。安倍氏が、この団体を国内で広めたと思って恨んでいた」などと供述したと報道されています。旧統一協会を含むカルト宗教問題については、日本基督教団でもホームページで注意を喚起しており、カトリックや聖公会、ルーテル、バプテストなどの教派と共に「カルト問題キリスト教連絡会」を組織して取り組んでいます。安倍氏銃撃事件の容疑者は、母親が宗教団体に少なくとも約1億円を献金して破産し、家庭が崩壊したとした上で、当初は団体の最高幹部を襲撃しようとしたものの接触が難しかったことから、団体と関わりがあると思った安倍氏を狙ったという趣旨の供述をしたと、報道されています。家庭が崩壊するほどの多額の献金、そしてそれが人を殺す決意をさせるほどの恨みへとつながった可能性。キリスト教会の牧師のみならず、日本のすべての宗教者にとって、献金とは何か、正しい宗教のあり方とは何なのかを、改めて深く考えるきっかけになった事件だと思います。

 キリスト教の「献金」の定義を、カトリックの山岡三治神父は『岩波キリスト教辞典』でこのように記しています。「教会の使命への自覚的参加と神に自己の生活を捧げる信仰の表明として奉納する金銭。聖職者の生計維持、伝道、慈善、教会運営などの目的に用いられ、信者の責務としての定期献金と目的に応じての任意献金がある。旧約時代に行われていた神への服従と罪の償(つぐな)いのしるしとしての奉納。使徒時代の持ち物の共有の習慣。初代教会のミサ用のパンとぶどう酒の奉納や貧しい人への金品分配の習慣にならって行われ、11世紀頃からは次第に奉納物は品物から金銭へと変化していった」。文字で定義するとこのようになります。そして、「献金」という言葉、ギリシア語は「ドーレア」で「贈物」「賜物」という意味があり、神さまにお捧げするというところに語源があります。英語では「collection」「offering」「contribution」「donation」と多くの言葉があり、「collection」は集める、「offering」は呼びかけるという動詞に由来していることがわかります。クリスチャン、イエス・キリストを信じる者として教会の営みに責任を持って加わり、信仰の証しとして献金をお捧げする。家族との暮らしを守り、社会での生活を確立して、教会の営みを支えていく。ここに「奉仕する共同体」の正しい姿があるのではないでしょうか。

 本日の聖書箇所は、コリントの信徒への手紙9章6節、「つまり、こういうことです」という言葉から始まります。9章の主題が「エルサレムの信徒のための献金」であり、1節から5節では、エルサレム・ユダヤの地を遠く離れ異邦人伝道に尽力する使徒パウロが、コリントのあるアカイア州、テサロニケのあるマケドニア州、それぞれの信徒たちの献金への熱意ある姿を誇り、さらなる励ましを語っています。エルサレム教会に対する献金に関して、コリント教会の信徒たちが熱意をもって取り組んでいることを、パウロは知っていました、それはすでに献金の準備ができているほどであって、パウロはこれをマケドニア州の人たちに誇ったというのです。9章では、マケドニア州の諸教会が激しい試練の中で、人に惜しまず施す豊かさに生きることを、コリント教会の人たちに知らせ、彼らを励ましています。ここでは逆に、コリント教会の人たちの熱意を、マケドニア州の人たちに誇ったのです。それがまたマケドニア州の人たちを奮い立たせる力につながりました。

 「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。この言葉にパウロが提唱する「献金」の本質があると思います。パウロはコリント教会の信徒たちに対して、エルサレムで苦しむユダヤ人キリスト者たちへの献金の用意を願うのですが、彼らが惜しむ心からではなく、喜んで差し出したものとして、献金を用意してもらいたいと願います。そのような思いをもって献金することが、伝道、信徒教育の中で勧めや指導が行われ、献金を信仰の行為として行うことの大切さが教えられているのです。

 現代においても、教会での献金の指導は難しいと言われています。受洗し新しく教会員となった人が、主日礼拝の席上献金、月定献金、イースターやクリスマスなどの特別献金、それぞれどれほどの金額を捧げればよいのか、最初はわからないことが多いでしょう。学生と社会人でも金額的な違いはあると思います。それでも、求道者への教会案内、受洗準備講座、受洗後の信徒教育や礼拝後の交わりなど、教会の牧師、役員、信徒のひとりひとりが責任をもって関わっていくこと、これが重要になります。

 本日の聖書箇所でパウロは、献金することだけでなく、その仕方についても、惜しまず豊かに献金するようにと指導していることを、忘れないようにしたいです。もちろんここでパウロは、とにかくたくさんお金が集まればよいと考えているのではありません。パウロは教会の信仰の指導をしているのです。教会が信仰によって生きるとはどういうことかを、献金を通して教えています。この時パウロが求めていることは、信徒たちが不承不承ではなく、強制されてでもなく、喜んで捧げるということです。このように語るのは、信徒たちが不承不承だったり、強制される思いで献金することがあることを、パウロが知っているからです。

 「献金」という行為を言いあらわす言葉として、みなさんはいつも何と言っておられるでしょうか。「献金をする」が一般的だと思いますが、教会に初めて来た人やたまに出席する人の中には、「献金を払う」、「献金を取られる」という人もいるでしょう。「不承不承」や「強制されて」というのは、「献金を取られる」と思っている人たちであって、それは信仰のない人たちと同じと思われても仕方がありません。献金をどのような思いでするかというのは、信仰に大きく関わることです。だからこそパウロは、ここで丁寧に献金についての姿勢を語っているのです。パウロが献金を「不承不承」に「強制されて」するのではなく、惜しまず、喜んで差し出してもらいたいと語るのは、それが信仰者としてふさわしい姿勢であると同時に、それができることが信仰者に与えられた恵みであり、特権だからです。信仰を持たない人が、「献金を取られる」としか言いようのないところで、信仰者は喜んでお捧げすることができるのです。神さまから与えられた恵みを携えて神さまの前に立ち、賛美と感謝と祈りをもってお捧げする喜びを知っているからです。

 「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。ここでの「すべてのものに十分」や「あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせる」とは決して大げさな言葉ではなく、パウロは神さまにはそれがお出来になるという確信があるのです。収穫は多いときも少ないときもあり、生活に余裕があるときも厳しいときもあります。しかしその中で、わたしたちは神さまから与えられた恵みを省みることで、パウロの言葉が真実であることを改めて確信するに至るのです。

 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」。この言葉は、旧約聖書の詩編112編9節「貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く」の引用です。「彼」とは神さまの戒めを深く愛する人のこと、「貧しい人」とはその日の食事のために働く人のことであり、貯蓄ができない貧しい人のことです。つまり、神さまの戒めを守り、貧しい人々にたくさん与える人は、神さまに豊かな捧げ物をするのと同じことであるから、その人の正しさ、その人の義が永遠に生きている神さまのもとに残り、神さまが永遠に覚えてくださるということです。

 「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します」。これをパウロは、「奉仕の働き」だと語ります。共にイエス・キリストを救い主であると信じる、苦しみの中にあるエルサレムのキリスト者たちへの「献金」を、パウロは「聖なる者たちへの奉仕」だと言います。奉仕は、キリスト者として生きる者にとっての本質的なものです。エフェソの信徒への手紙4章11・12節では、「ある人は使徒、ある人は預言者、ある人は福音宣教者、ある人は牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げて」ゆくと、パウロは語っています。これは、救われてキリスト者となった者にとって、奉仕が本質的なものであることを示しています。キリスト者とは、自分を中心として生きる生き方から救われて、キリストの僕になったのです。キリストの僕は、キリストに仕えて生きるのであって、救われてなお、自分を中心とした生き方に留まり、いかなる意味においてもキリストに仕えることをしない者は、キリスト者とは言えません。だからキリストに対する奉仕者として整えられた者たちが、キリストの体である教会を造り上げていくのです。ここでは、キリストに対する奉仕が、具体的にエルサレム教会の困窮している信徒たちを助けるための献金という形を取っています。そして、「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます」という言葉へ続くのです。

 「奉仕する共同体」、それはまさに教会であり、キリストの体をあらわします。コリントの信徒への手紙一12章で、パウロは教会をこのように定義しています。「わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。キリストの体である教会を支えつくり上げていくために、献金はもっとも重要な業のひとつです。奉仕の働きとしての献金は、多くの恵みを捧げる者にもたらし、同時にそれはそれ以上のものをもたらします。実際に、その献金によって困窮の中にいる人たちが助けられ、それ以上にそれは、献金を用意した共同体の信仰の熱意へとつながります。「奉仕する共同体」としての熱意を忘れることなく、神の教会に仕える誇りをもって、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていくキリスト者、教会でありたいと思います。