2022年9月4日 福音はすべての人に 吉岡喜人牧師

(要約) キリストの福音を伝道することは、昔も今も困難なことです。使徒言行録は福音伝道の歴史ですが、同時に迫害の歴史です。迫害にも負けない強い信仰によって福音伝道を推進しましょう。キリストは共に歩んでくださっています。

(説教本文)使徒言行録13章44節~52節

 今日、わたしたちに与えられた聖書に書かれた御言葉、使徒言行録の13章には、同じアンティオキアという名前を持つ2つの都市がでてきます。聖書の巻末にある聖書地図の「7 パウロの宣教旅行 Ⅰ」を見ていただくと、すぐにわかります。一つは、地図の少し右手に書かれているアンティオキア、もう一つは、地図の左手上の方にあるアンティオキアです。

 最初のアンティオキアはローマ帝国のシリア州にあるアンティオキアです。この町はとても大きな町で、ローマ帝国の首都ローマ、エジプトのアレクサンドリアに次ぐローマ帝国で3番目に大きな町でした。この町は、ギリシア系のセレウコス王朝が建設した町でした。セレウコス王朝にはアンティオコスという名前の王が何人かいますので、その王の名前を町の名前にしたようです。

シリア州のアンティオキアは民族、人種、宗教などの異なるいろいろな人が住んでいる多様性豊かな町でした。13章1節には、「ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」といった人々がいたと書かれています。ニゲルは黒い人という意味ですからアフリカ系の人でしょう。そしてユダヤ人も多くいました。多様性が豊ということは、人々が互いに寛容であることに繋がります。マナエンはヘロデと一緒に育ったというのですからキリスト者を苦しめた側にいた人です。このような人までアンティオキアの教会にいたというのですから、まことにアンティオキアの教会は愛に満ちた寛容な教会だったのです。

 使徒言行録7章にステファノ殺害事件が書かれています。教会の世話をするために選ばれたステファノをユダヤ人たちが石を投げて殺し、この事件をきっかけに大迫害が起こり、多くの人がアンティオキアに逃れてきました。エルサレムから遠く離れていることも逃れの町として期待したことも理由の一つでしょうが、多様性があって寛容な町であることから、安心して住むことができる町として期待してのこともあったのではないかと思います。人々が迫害を逃れてアンティオキアに行った事情を使徒言行録は次のように記しています。

(使徒11:19)「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げた。主がこの人々を助けたられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」

 迫害を逃れてアンティオキアに避難した信徒は、福音伝道の対象を同胞であるユダヤ人に行っていました。しかしアンティオキアに逃れてきたユダヤ人の中にはキプロスやキレネなど外国で生活をしていた人々がいて、彼らはギリシア語に堪能でした。その人たちによって、ユダヤ人だけでなく、異邦人たちにも主イエス・キリストの福音が語られ、福音を聞いた人々は主イエスを救い主として信じたのです。このようにしてアンティオキアの教会は信徒が増え、大きな教会になったのです。

 使徒言行録はキリスト教宣教の歴史書ですが、キリスト教迫害の歴史の書でもあります。もし迫害がなかったらキリスト教はエルサレムでユダヤ教の一教派にとどまり、世界に広がることはなかったかもしれません。迫害があったからこそ世界に広がったと言ってもよいと思います。神様のなさることはいつも不思議です。その時はよくないことだと思っていたことが、実は救いに繋がっていたことが後でわかることがあります。このような経験をお持ちの方は、少なくはないでしょう。「災い転じて福となす」ということわざがありますが、災いを福に変えるのは自分の力でも偶然でもなく、神様の隠された計画なのです。

 アンティオキアで信徒が増えているということがエルサレム教会に伝えられ、エルサレム教会に大きな喜びがもたらされました。そこでエルサレム教会は、アンティオキア教会を応援するために、霊と信仰に満ちたバルナバをアンティオキアに派遣しました。バルナバの働きは目覚ましく、アンティオキア教会ではさらに多くの人が主イエスの信仰へと導かれたのです。

 しばらくするとバルナバは自分と一緒に働く人の必要を感じ、エルサレムで会ったことのあるサウロを仲間にしたいと思いました。しかし、サウロは故郷のタルソスに帰り、消息が不明でした。バルナバは自らタルソスに行き、パウロを探し出して、アンティオキアに連れてきたのです。聖書には書かれていませんが、アンティオキアに逃れてきた人々の中には、かつて迫害の先頭に立っていたサウロを知っていた人々もいたのではないでしょうか。しかし、彼らはサウロを受け入れました。しかも福音の指導者、信仰の指導者として迎え入れました。ここにもアンティオキアの人々の心の広さがうかがえるのではないでしょうか。 

 キリスト教は、はじめはユダヤ教の一教派でした。ユダヤ教では、律法に基づく信仰の証として、割礼を求めます。しかし、アンティオキアの教会では、割礼を求めませんでした。割礼があろうがなかろうが、主イエス・キリストの十字架によって罪が赦されて救われるのですから当然と言えば当然なのですが、ユダヤ教の人々にとっては驚きでした。しかし、大切なことは割礼ではなくキリストに対する信仰だということが人々に知られ、キリストの信仰をもつ人々はユダヤ教徒とは違うのだという認識が生まれると、キリストを信じる人々は「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。ユダヤ教からキリスト教へと脱皮が行われたのです。

 キリスト者と呼ばれることが、エルサレムの教会からではなく、アンティオキア教会から始まったことに、主のなさることの不思議さと大胆さを感じます。

 次にアンティオキア教会で起こったことは、アンティオキアの外に向かって新しい教会を産みだす母体となったことです。アンティオキア教会は聖霊に導かれてバルナバとサウロを宣教師としてキリスト教宣教に送り出すことになりました。バルナバとサウロは、助手としてヨハネを連れてアンティオキアを発ち、セレウキアから船に乗り、キプロス島に上陸しました。キプロス島を横断しながらキリストを宣べ伝え、再び船でパンフリア州(現在のトルコ)のベルゲに渡りました。そこで何があったのでしょうか、助手として連れてきたヨハネがエルサレムに帰ってしまったのです。「帰ってしまった」という言葉のニュアンスからは、何らかのトラブルがあったようです。ただでさえ困難なキリスト福音の宣教が、宣教当事者の内部からも困難を生じてしまったのです。

 さて、13章9節に「パウロと呼ばれていたサウロは・・・」と書かれているように、これまでサウロと呼ばれていましたが、ここからパウロと呼ばれるようになります。さらに、これまではバルナバとパウロと書かれていましたが、13章13節からは「パウロとその一行」あるいは「パウロとバルナバ」という具合にパウロが前面に出てきています。これには深い意味が隠されています。ここがキリスト福音宣教の大きな転換点になっているのです。サウロとパウロは似ていると思うかも知れませんが、重要なことはユダヤ名かギリシア名かの違いです。もっぱらユダヤ人に向いていたキリストの福音伝道が世界に向き始めたということなのです。これまでバルナバをリーダーとして行われていた宣教が、ギリシア語を自由に話すパウロを中心とした宣教へと移った、福音伝道がユダヤから世界へと向きを変えたのです。

 さて、パウロとバルナバはピシディア州のアンティオキアに向かいました。こちらのアンティオキアも、シリアのアンティオキアと同じようにギリシア系のセレウコス王朝が創立した町です。この町は交通の要所にあり、軍事的にも重要な町でした。こちらのアンティオキアにも多様な人々が暮らしており、ユダヤ人もたくさん住んでいました。

 安息日になるとパウロとバルナバは礼拝のためにユダヤ人の集会所シナゴーグの席についていました。すると会堂長から奨励をしてほしいと頼まれたのです。そこでパウロは出エジプトから始めて主イエスの十字架と復活に至る神の救いの歴史を語りました。イスラエルの先祖に与えられた救いの約束は、イエス・キリストによって完成している。だからイエス・キリストを信じ、救いに与りなさいと語ったのです。礼拝にはユダヤ人だけでなく、ユダヤ教に改宗した人々もいました。パウロの説教を聞いた人々はみな大いに心を打たれ、次の安息日にも話を聞きたいと願ったのです。パウロとバルナバは人々を励まし、神の恵みに感謝して生活するように勧めました。

 次の安息日になりました。人々はパウロとバルナバから福音を聞こうと集会所に集まってきました。そこにユダヤ教の指導者たちが来てパウロとバルナバを口汚くののしって話を妨害したのです。人々の気持ちが自分たちよりもパウロやバルナバに向いていることをねたんでのことでした。しかしパウロとバルナバは妨害に怯むことなく、大胆に福音を語りました。妨害するユダヤ人に対しては、福音はまずあなたがたに向けられていたのに、あなたがたはそれを拒否した。永遠の命を得る機会を自分で失ってしまったのだ、福音はむしろ異邦人に向けられるだろうと告げたのです。これを聞いた異邦人たちは喜びました。しかし、福音を拒否するユダヤ人たちはさらに態度を硬化させてパウロとバルナバを迫害したので、二人はアンティオキアを離れなくてはならなくなったのです。

 二つのアンティオキアでの出来事は、その後の福音伝道、キリスト教の歴史の中で繰り返されました。主イエス・キリストの福音を受け入れるところもあれば、拒否し、福音宣教に従事する者を迫害することは今でもあります。パウロとバルナバが敷いた道は、まっすぐではなく、右に左にと曲がくねっていますが、確実に前に進んでいます。時には三歩進んで二歩下がることがあっても、一歩ずつ進んでいます。わたしたちは、その歴史の道を歩んでいます。多くの問題があります。人間的な間違いも起こします。それでも神様は私たちを前に前にと導いてくださいます。主イエス・キリストが共に歩んで下さいます。道は険しく、まっすぐでなくとも、主イエス・キリストと共に神の国を目指して歩み続けましょう。