2023年1月1日 主イエスに対するように 吉岡喜人牧師

(要約)人間関係の難しさは、旧約聖書の中にもたくさん書かれています。人に接するとき、主イエスに対するように行うこと、また主イエスならどうされるだろうかと考え、主イエスがするように行うことをパウロは教えてくれました。

(説教本文)コロサイの信徒への手紙3章12節~25節

 新しい年を迎えました。今年は1月1日が日曜日になりました。1月1日が日曜日になることはそれほど珍しいことではなく、数年ごとに巡ってきます。1年365日は52週と1日なので、1月1日の曜日は毎年1つずつ後ろに下がります。閏年では2日下がります。来年の1月1日は曜日が1つ下がって月曜になります。前回1月1日が日曜日になったのは6年前の2017でした。次は12年後の2034年です。
 
 1年を礼拝、しかも主日礼拝をもって始められることは、とても喜ばしいことですね。教会によっては1月1日が日曜日でない場合でも、1月1日に新年礼拝を行っているところがけっこうあります。わたしが南三鷹教会に赴任する前にいた東京教区の西南支区では、教区の新年礼拝を毎年午後2時から行っています。かなりの人数が礼拝に参加しますので、教区の中でも大きな教会を会場としていますが、今年も渋谷にある山手教会で行うことになっています。
 
 1月1日はまた主イエスの命名の日とも呼ばれます。ギリシャ正教などの正教会では、主の割礼祭とも呼ばれます。これはルカによる福音書2章21節に「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。」と書かれているからです。この日、主イエスは律法に従って割礼を受け、天使から告げられたとおり、イエスと名付けられたのです。
 
 そして1月6日は東方の学者たちがベツレヘムの主イエスを訪ね、黄金、乳香、没薬をささげた日とされ、救い主ら現れたことが世界の人々に知らされた日として公現祭、あるいは神の栄光が輝いたとして栄光祭などと呼ばれる日です。教会ではこの日までをクリスマスの期間としています。
 
 さて、多くの教会では、聖句を選んで掲げています。日本では筆書きにして礼拝堂や掲示板などに掲げる教会が多いと感じますが、カレンダーやカードにして信徒や関係者に配る教会もあります。南三鷹教会では、隔年で旧約と新約から選び、ロビーに掲げ、週報や携帯版当番表などに書いて、選ばれた聖句がいつでも目に入るようにしています。今年の聖句は、教会員の皆様から推薦していただいた候補の聖句から、コロサイの信徒への手紙3章23節に書かれたみ言葉が選ばれました。
 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」
 このみ言葉を携えて1年を歩み、信仰を成長させていただきましょう。
 
 この手紙の宛先となっているコロサイというところは現在のトルコの内陸部であるフリギアというところにあった町です。パウロはイエス・キリストを伝道することを何度も妨害され、捕えられて牢獄に入れられましたが、手紙の最後4章18節に「わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。」と書かれているように、この手紙も牢獄から書き送った手紙です。牢獄の中という異常な事態で書いた手紙ですが、手紙の内容はとても穏やかです。パウロの手紙には教会で起こっている問題へのパウロの思いや意見、道を逸れた信仰への叱責と警告の手紙などもありますが、この手紙はそうではありません。手紙の冒頭1章3節以下を読んでみますと
 「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。」
 コロサイの教会の信徒たちの信仰と愛が豊かに成長していることを喜び、導いてくださっている神に感謝しているのです。
 
 では何を目的としてパウロはコロサイの信徒たちに手紙を書いたのでしょうか。1章21節以下にこう書かれています。
 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」
 神に背くような生活をしていたコロサイの人々が主イエスの福音を受け入れ、神の前に正しい者として歩んでいることを喜び、揺るがない信仰を持ち続けるようにと励ましの手紙をパウロは書いたのです。
 
 信仰というものは成長するものです。聖書や教会を通して主イエスに出会い、福音を受け入れて洗礼を受けることは、信仰のスタートです。そこから成長するのです。信仰を成長させ、揺るがないものとするには、日々の行いの中での実践が必要です。聖書を読み、礼拝に参与し、祈り、生活の中で信仰を実践することが私たちの信仰を成長させるのです。より高い次元を目指して歩むのです。そのことを3章1節でこう言っています。
 「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」
 
 わたしたちが目指すのはキリストです。キリストに向かって歩み、信仰を成長させるのです。そのような生き方をする者がキリスト者です。3章5節から、情欲、悪い欲望、貪欲をすてなさい(5節)、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい(12節)など具体的なことが書かれています。18節以下には家族に対する実践的な教えが書かれています。
 
 これら具体的な教えには、時代や社会によってはそのまま適用できないことも含まれていますが、これらの教えを貫いている普遍的なことが、今年の聖句としてわたしたちの教会が掲げることになった3章23節ではないでしょうか。
 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」
 
 人間は社会を作って生きています。独りだけでは生きることができません。創世記に神が男女をお造りになったのは、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2章18節)ということでした。しかし、人間関係と言うことがらは、なかなか難しいものです。献げ物のことでカインはアベルに憎しみを抱き、殺してしいました。この事件をはじめ、旧約聖書には人間関係の難しさが嫌というほど書かれています。わたしたちも人間関係のことで悩み苦しむことが沢山あります。
 では、どうすればよいのでしょうか。パウロは言います。人間関係の相手をイエス様と思いなさい。言葉をかけるにしても、何か行いをするにしても、相手を人と思うのではなく、イエス様にしているのだと思い、心を込めて行うのです。
 
 わたしたちは弱く罪深い存在ですから、相手によっては心を込めた言葉や行いで臨むことができないことがあります。特に、自分に対して悪意を抱き、悪を行う相手には、やさしい心で臨むことが難しいでしょう。しかし、その相手をイエス様と思い、言葉をかけ、行いをしてごらんなさい。きっと心が寛容になります。主の祈りの中で、「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。」と祈っているではありませんか。難しいことと思うかも知れませんが、自分の相手が主イエスだと思って行動することで信仰が成長し、できるようになる日が必ず来るでしょう。
 
 少し前の3章17節に、同じことを少し言い換えた言葉があります。
 「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」
 自分がイエス様なったように行動しよう、ということです。人に対して何か話すとき、何かするとき、イエス様だったらどのように話すだろうか、イエス様だったらどのように行うだろうかと考え、行動に移すのです。
 高校の教師に沢正雄というキリスト者の先生がいました。生徒からも、教師仲間からも大変に尊敬されていました。後年、沢先生が召された後に記念会を開きましたが、その時、当時のわたしたちのクラスの担任が、自分がどうしようかと迷うとき、行動が行き詰った時など、沢先生だったらどうするだろうかと考えて行動してきた、とおっしゃていました。
 わたしたちは、人に何か言うとき、行いをするとき、イエス様だったらどのように言われるだろうか、どのように行われるだろうかと考え、イエス様がされてように行動するようにとパウロは教えてくれているのです。
 
 イエス様に対して行動するように、また、イエス様がなさるように行動する。今年の教会聖句によって、日常的にこのように行動して、信仰な成長、霊的な成長をさせていただきましょう。
 
 礼拝直後に年頭祈祷会を行います。教会聖句を携えて歩む一年になりますように、祈りを合わせましょう。