2023年1月29日 新しい神殿 吉岡喜人牧師

(要約)終末とは、この世の終わりの日ではなく、神の国の始まりのことです。いつ来るかは誰にもわかりませんが、必ず来ます。神を信頼して、神の国が来ることに希望をもち、今の時を耐えましょう。

(説教本文)ルカによる福音書21章1-9節

一年の内でも最も寒さの厳しい季節となりました。先週の水曜日の朝、自転車で教会に向かう途中、野川に氷が張っているのを見ました。翌日にはさらに氷の範囲が広がり、川幅全体に氷が張っていました。寒いはずだと思いましたが、それでも東京の寒さは穏やかな方です。昨日、青森に住んでいる友人から電話があり、大雪のため教会の礼拝に出ることが危険なので、明日はオンラインで礼拝に出るつもりだと言っていました。ウクライナではロシアのミサイル攻撃により発電所などが破壊され、暖房することができない家が沢山あり、寒さによって健康が損なわれ、さらに死の恐怖におびえて人々が暮らしていると聞きます。ミサイルと寒さの中で恐怖の日々を過ごしている人たちに平和な日が来るようにと心から祈ります。戦争と寒さの恐怖に耐えることができますように、人々をお支えください。
 
 さて、教会歴は2月の第3週まで降誕節の中ですが、今日与えられた聖書は、主イエスの生涯の最後の時、十字架に向かってエルサレムに来られた時のことに飛びます。降誕節にもう十字架のこと、と思われるかもしれませんが、主イエスがこの世においでになった目的は、十字架によってわたしたちの罪を負ってわたしたちを救うこと、わたしたちを罪の奴隷から贖い出して、天の国へと導くためです。今日は天国について、また救いが実現する終わりの日、終末について、主イエスのみ言葉に耳を傾けましょう。御言葉がわたしたちの魂の霊なる糧となり、わたしたちの信仰をより豊かにしていただきますように。
 
 主イエスは弟子たちとともにエルサレムに入りました。主イエスはエルサレム訪問の目的を知っていましたが、弟子たちは理解していませんでした。主イエスはロバの子に乗ってエルサレム入り、人々は賛美の声で主イエスを歓迎しました。礼拝のためにエルサレム神殿に来られた主イエスは、神殿の中で商売をしている人々を神殿から追い出し、救いのこと、神の国、天国のことなどについ祭司長や律法学者たちと議論をしました。たとえ攻撃的な祭司長や律法学者たちであっても、一人でも多くの人に福音を語り、救いに導こうとされたのです。
 
 エルサレムの神殿には、毎日多くの人が礼拝をするために来ます。人々は祈りを捧げ、献金を捧げます。この日、一人の金持ちが金貨を献金箱に入れました。次に一人の貧しい身なりの女性が来ました。この女性は夫に先立たれやもめでした。女性が独りで暮らすのは大変困難な時代です。その日の食事もままならない暮らしをしているに違いありません。彼女は、レプトン銅貨を2枚献金箱に入れました。レプトン銅貨1枚は10円ほどの価値です。金額にすればわずかな献金です。しかし、その日のパンを買うことができる金額でした。人々の目は金貨を献金した人に留まりましたが、主イエスはこのやもめに目を留め、人々に尋ねました。だれが一番多く献金したと思うか。金貨を入れた金持ちか。銅貨を入れたやもめか。あのやもめは、乏しい中から持っている生活費を全部入れ、だれよりもたくさん献金した。
 
 主イエスが、やもめの献金の話をしたのは、天国はこのやもめのように、全身全霊をもって神を賛美する者、この世で価値あるものに頼るのではなく、神に頼る者、神の国はそのような者のために開かれていることを伝えたかったからです。主イエスはほかの場面でも天国について、「天に富を積みなさい。」(マタイ19:21)「後にいる者が先に、先にいる者が後になる。」(マタイ20:16)「最も小さな者が、天国では最も大きな者である。」(ルカ9:48)などと言っておられます。
 
 「インスタ映え」という若者用語があります。スマホで写真を撮って、それをインスタグラムというところに投稿して、自己アピールすることが若者たちの当たり前になっています。インスタグラムで見映え(見栄え)の良い写真が「インスタ映え」というわけです。 わたしたち人間はどうしても見栄えの良いものに目を留めがちです。主イエスが献金のことを話していると、近くにいた人々の声が主イエスの耳に入りました。エルサレム神殿に使われている見事な石と神殿に置かれている見事な奉納物に感心している声です。エルサレム神殿はソロモンによって壮大な神殿が建てられましたが、バビロニアによって破壊されました。バビロン捕囚が終わると、すぐに神殿の再建をしました。再建された神殿はソロモンの神殿に比べれば小さなものでしたが、それでも多くの石を積み上げたそれなりに大きな建物でした。神殿の正面は金で覆われ、またぶどうの木の形を金で作った置物があり、太陽の光を反射してまぶしいほどだったと言われています。今ならインスタ映えするスポットです。
 
 この箇所を読んでいて、大阪城のことが頭に浮かんできました。大阪城の城壁にも巨大な石が使われていますが、この石も人々の関心を引くのでしょう、石の前には説明の看板が立てられています。だれが、どこから、どうやって運んで来たのか。その偉業は見る人々を驚嘆させるに十分です。もちろん、エジプトのピラミッドも同じです。ピラミッドの下に立った時の感動をいまでも思い出します。わたしもこの世的な偉業に目を引かれる一人の人間でした。
 
 石積みや金の奉納物などに感心している人々に、主イエスは話しかけました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩れずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
 主イエスの言葉を聞いた人々は、「えっ」と思ったことでしょう。自分たちの先祖の偉大な業を見て感心し、先祖たちをほめたたえていたのに、冷や水を浴びせられた思いだったでしょう。彼らは主イエスに尋ねました。少しむっとしていたのではないでしょうか。「では、そのことは、いつ起こるのですか。そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
 主イエスは、終末の日のことを話す機会を作るために、神殿が崩れるという衝撃的な話をしたのです。人々の関心が主イエスの方に向きました。そこで、主イエスは話を始められたのです。
 
 まずいつ終末の日が来るのかということです。この世の終わりの日、終末が来ることは、多くの預言者によって語られていましたから、話を聞いていた人々も終末については知識があったでしょう。終末は、旧約聖書で主の日と呼ばれていす。「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。」(ヨエル1:15)「見よ、主の日が来る、残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。」(イザヤ13:9)「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。」(アモス5:18)などなど預言されていますが、いつ、についての預言はありません。
 
 その日、主の日、終末の日が来ることは確かですが、いつになるかは、人の知るところではなく、神様がお決めになることです。ところが、偽預言者などが大勢現れ、主の日が近づいた、などと言って人々を不安に陥れるだろう。しかしそれは、人々を不安に陥れた上で、自分が救い主であると言って自分の方に人々を引き付け、利益を上げようとする者、終末を利用しようとする者であるから、そのような者に惑わされてはいけないと、主イエスは言われるのです。
 主イエスが言われたように、聖書の時代から今日まで、偽預言者が多く現れ、人々を不安に陥れ、自分たちの方に人々を引き付け、利益をあげました。ノストラダムス、オウム真理教などを例に挙げることができるでしょう。
 
 さらに主イエスは言われるのです。主の日、終末の日が来る徴として、戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、天体の異常な動きなどの恐ろしいことが起こる。さらに、あなたがたは迫害を受ける。キリストを信じるが故に、親、兄弟、親戚、友人に裏切られ、憎まれ、殺される者も出る。
 
 なんと恐ろしいことでしょう。主の日、終末は、神の国が実現する日です。それがこんなに恐ろしい事があってからでないと来ないとは。神の国が実現することを希望をもって待つにしても、その前にこのような恐ろしいことが起こるのだとすれば、単純に喜べません。どのように理解すればよいのでしょうか。
 
 解決の一つのヒントは、聖書の「時」に関する記述を、人間の時間感覚で理解しようとする誤りに陥りやすいということです。わたしたち、とくに現代人は、正確に刻む時刻によって行動しています。正確に刻む時刻をギリシャ語ではクロノスと言います。英語で時計を表すクロックの語源です。この時間感覚ですと、主の日、終末は、西暦何年何月何日といったカレンダー上のある日に来ると理解します。しかし、神の時間感覚は、まったく異なります。旧約聖書の創世記には、とても考えらないほど長生きした人たちが出てきます。アダムは930年、その子セトは912年、セトの子エノシュは905年など、クロノス的には考えられないほど長生きです。ノアは500歳で3人の子をもうけ、950歳で死にました。これらはクロノス的な年齢ではなく、神の祝福に生きたという年齢の表現です。出来事を表す時をギリシャ語ではカイロスと言います。人間は時間をクロノス的にとらえますが、神の時間はカイロス的なのです。コヘレトの言葉に「何事にも時があり、・・生まれる時、死ぬ時・」といろいろな時が示されていますが、これらがカイロス的な時です。カイロス的な時間感覚で理解すると、主の日・終末の日は西暦何年何月何日ということではないことを理解できるのではないでしょうか。
 
 カイロスとしての主の日、終末は、神の人間に対する愛の業、救いの業の時です。主イエスによる救いの業です。主イエスがこの世に来られた時に、主の日・終末が始まっており、主イエスの十字架と復活を経て、今、完成に向かっている。しかし、まだ完成に至っていない、過程・プロセスの中にいるのです。主イエスが再び来てくださる時、完成させてくださるのです。
 
 この救いの過程・プロセスは現実の世界です。現実の世界では、戦争、暴動、地震、飢饉、疫病など、聖書に書かれていることが起こります。今も、新型コロナウイルスによる疫病が世界を覆っています。戦争、迫害も起こっています。これらの恐ろしいことは、主の日・終末が来るための条件ではなく、現実の出来事です。しかし、主の日・終末が来る時には、このような悲しい出来事がもう起こらなくなるのです。今はまだそのときではないのです。
 
 しかし、わたしたちは、希望を失うことはありません。恐れることもありません。21章18節にこうあります。「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と主が言われるのです。いま、わたしたちは、神の国の完成に向かうプロセスの中にいます。神の国が完成することが主の日が来る、終末になることです。神の国が完成する日は必ず来ます。そのことを信じましょう。あのやもめのように全身全霊で神を賛美し、神を信じ、神を信頼しましょう。信仰のあるところに救いが来るのです。