2026年2月1日 種をまく人 小田哲郎牧師
(説教本文)マルコによる福音書4章1-9節 (説教録画はこちら)
「聞く耳のある者は聞きなさい」
イエスさまは、私たちに教えられます。ガリラヤ湖畔の群衆と共に。
この3節から9節の「種を蒔く人たとえ」と呼ばれるたとえ話は、そこに集まる農民や漁師たちにとってもよくわかるようにイエスさまが教えられた話です。農民たちだけでなく、漁師や大工であっても自分たちの食べる作物は自分たちの畑で育てていましたから、種まきの話はとても身近なものでした。目を閉じてイエスさまの話を聞いていると、その情景、絵が浮かんで来ます。
湖に浮かべた小舟に座ってイエスさまは語られます。
「ある人が種を蒔くために畑へと出て行った。」
その人は畑に種を蒔くときに大きく手を広げて広い面積に行き渡るようにばら撒くのでしょう。野菜の種を畝に一列に播くような筋撒きではなく。
日本では米、稲は苗代を作って苗に育ててから田植えをしますが、私がかつて農業関係の仕事をしていたタイの平野部では広大な田んぼに直播きといって籾米をばら撒くわけです。それのほうが人手もかからず効率的です。効率的だといっても、ばら撒いているわけですから、いくらかは畦に播いてしまったり、水のかぶらない農地の端に落ちたりするわけです。
イエスさまはこう語りました。ある種は道ばたに落ちてしまって、すぐに鳥が来て食べてしまった。ある種は岩の上に少し土がかぶっているような所に落ちたので、芽がすぐでても根が伸びていないので太陽に焼けて枯れてしまった。また別の種は草ボウボウの所におちて、雑草のほうが早く伸びたので育たなかった。しかし、他の種は良い土地に落ちて、芽が出て育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった、と語るのです。
聞いていた人たちはスゴイ!と思ったでしょう。稲は一粒の籾を播いて400粒くらいになりますから、100倍と聞いても驚きもないでしょうが、麦は現在でも一粒播いても15~20倍にしかなりません。昔は10倍程度だったでしょうから、それが30倍、60倍、100倍にもなるだなんてとんでもない高収量、大豊作なんです。それはスゴイ!奇跡だ!と思ったでしょう。
イエスさまはもちろん高収量が得られる新種の麦を開発したという話をしているのではありません。これはあくまでたとえ話です。では種をまく話をしながら、本当は何のことを言おうとしたのでしょうか?このマルコによる福音書の4章には5つの譬え話が集められています。この「種まきのたとえ」、「ともし火のたとえ」、「秤のたとえ」、「成長する種のたとえ」、「からし種のたとえ」の5つの譬えが集まっています。特に「成長する種のたとえ」と、「からし種のたとえ」ではイエスさまは「神の国は次のようなものである。」「神の国は何にたとえようか」と言って語り出していますから、たとえを用いて伝えたいのは「神の国」のことです。「時が満ち、神の国は近づいた」と宣言して宣教を始めたイエスさまですから、その「神の国」がどんなものであるかを人々に伝えるということが一番の中心だったことは間違いありません。
しかし、この後に4章13節から20節に「種を蒔く人」のたとえの説明と小見出しがついているので、そこを読むと、種は神の言葉で、種蒔く人は神の言葉を伝える人だとあります。そして。4種類の種が蒔かれた土地の違いが解説されているので、つい私たちは自分はどの土地だろうか?と思ってしますのですが、この部分は福音書を書いたマルコが付け足したもので、本来のイエスさまの言葉ではないだろうと言われています。マルコもマルコの教会の人たちも農民ではなく街に住む人たちだったかもしれません。だから、こういう見方をしたのかもしれません。
たしかにそこに書いてあるように、種は神さまの言葉、福音です。しかし、イエスさまが小舟の上から語りかけるのを聞いていた人たちは、その土地の違いに注目するよりも、信じられないほどの豊かな収穫に心を奪われたに違いありません。それは種をまけば、少しは道にはみ出したり、悪い土地に落ちたり、雑草の中に落ちる種もあるでしょうが、大半はちゃんと畑に蒔かれるのは常識です。確かにイエスさまの伝えようとしている神の国、神さまの支配を受け入れなかったり、反対したり、潰そうとする勢力もあるでしょうが、私たちの想像を超えて、普通ではあり得ない爆発的な豊かさを最後には見せてくれるのだ、そのように希望をもったでしょう。収穫の喜びを知っているからこそ、神の国の収穫の時を豊かな黄金色に輝く畑が広がる風景として想像できたはずです。そして、実際このガリラヤの小さな群れに伝えられたイエスさまのことば、福音は今では25億人が信じるまでになっているのです。イエスさまのことばを聞いた群衆が5千人だとすると50万倍になっているのです。
イザヤ書55章に神さまが語られる「わたしの口から出る言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/私が与えた使命を必ず果たす。」の言葉どおりに神の国は今も前進しているのです。
中国では共産党政権下であるにもかかわらずキリスト教が急速にひろがっていて1億3千万人のクリスチャンがいるという報告もあります。中国の総人口の10%にものぼります。それに比べると日本の1%にも満たないという数字はどうでしょう?ザビエルの宣教から470年以上、禁教が解けて明治の宣教開始から数えて160年を超えてもキリスト教が広がらない現実に、「日本は宣教の不毛地」とさえ呼ばれています。日本はこのたとえ話に出てくる道ばたでしょうか、石のゴロゴロした地でしょうか、それとも茨の地なのでしょうか?
宗教学者の買いた「キリスト教入門の系譜」という本が最近でたので読んだのですが、日本では明治以来クリスチャン人口が一向に増えない。現在は日本のキリスト教は衰退期に入っているとも言われる。しかし、キリスト教系の学校は全国に点在し、結婚式の約半数がチャペルで挙げられる。日本のクリスチャンは超少数派だけれども、キリスト教の本は多く出版されている。キリスト教入門とでもいうものは数多く、内村鑑三はじめ賀川豊彦や遠藤周作、三浦綾子、最近では渡辺和子の「置かれた場所で咲きなさい」などベストセラーも少なくない。戦後GHQの最高司令官マッカーサーは自由と民主主義を根付かせるためには日本をキリスト教化させることが必要と考え日本語聖書を戦後3年間で172万冊アメリカから送った。その後も年間数十万冊の聖書が一般書店で売れ、「聖書の読み方」というような入門書も数々出版され売れた。今でも国際情勢を理解するにはキリスト教、聖書の知識がなければわからないと言った知的興味からキリスト教入門書が消費されている。文化的広がりという言う意味では、キリスト教はかなり影響は大きいと言います。著者はコアなクリスチャンである礼拝出席者を中心に教会のメンバーであるいわゆるクリスチャンの外に教会とは無関係に信仰を持つ層と、さらにその外側にキリスト教に関心のあるシンパ層があると分析します。わたしも、かねてから礼拝出席者はもちろんですが、キリスト教のシンパを周囲に増やすことが大事だと思ってきました。著者はキリスト教入門の本はこの教会の外側にいる人たちに読まれてきたのだと言います。種は蒔き続けられているわけです。この本ではそのキリスト教入門書を①正統派の信仰・伝道系②渡辺和子のような人生論系③池上彰の国際ニュースがわかるといった知識・教養系そして④エンタメ系と分類しています。④にはYouTubeやSNSで発信しているものも取り上げられ、上馬キリスト教会の「おふざけ担当」と「真面目担当」の発信する面白真面目なキリスト教に関するX(旧ツイッター)のつぶやきが10万人にフォローされているそうです。書籍も出版されて、これによって礼拝出席者が倍増したというのですから驚きです。
私たちもそれとは違った形で種を蒔きます。私たちは、子どもたちに聖書のメッセージを伝えることを「福音の種まき」と言ったりしますが、こどもの教会で聖書のお話をし、フィッシャー幼稚園でイエスさまをつたえ神さまの愛を体験をとおして伝えていきます。幼稚園では毎月の聖句を暗唱するのですが、こどもの場合はさんびかを通して神さまのことばが心の中に定着することもあります。先週の教会協議会でも子どもの育ち、子育て支援を通しての地域への宣教ということを予定時間をはるかに超過して話し合いましたが、本当にそのことが必要なのです。幼稚園の経営がうまくいくかどうかの話ではなく、福音の種まきを神さまと一緒になってしていかなければいけないのです。その種がどんな地に落ちたかにかかわりなく、まき続けるのです。日本では子どもの自殺が昨年は500人を超えて過去最多になり、2024年の児童相談所への児童虐待の相談は22万人を超えて過去2番目の多さだとニュースは報じています。子どもたちに、愛を伝えなければなりません。聖書の語る中心メッセージ「あなたはそのままで愛されている」ということをどんな形でも届けなければいけません。それが私たちのミッションだと思うのです。
ところで、なぜイエスさまはたとえで話されるのでしょうか?たとえで話されることが必ずしもわかりやすくて理解できるわけではありません。イエスさまは弟子たちには神の国の秘密を打ち明けられますが、外の人にはすべてたとえで示されると、今日読んだ箇所のすぐ後で言います。
湖畔に座って話を聞く群衆、村の人々が見ているイエスの座っている小舟がうかぶガリラヤ湖、ティベリアス湖とも呼ばれるこの湖の向こう側にはヘロデ・アンティパスが新しくガリラヤ地方の都として建設したギリシア風の建物、競技場、宮殿、があるティベリアスの街があります。このローマ皇帝の名前を冠した都の贅をつくした宮殿には洗礼者ヨハネの首をはねさせたヘロデ・アンティパスが住んでいます。富と権力と暴力の象徴とも言えるこの街に住む人たちには「種まきのたとえ」はわからないでしょう。彼らにはわからないようにイエスさまは譬えで語るのです。イエスさまが到来を告げる神の国、神の支配は、彼らの信じる「富と力、他者を抑圧することで自分を高める」とは反対なのです。「愛と自由と平等」なのです。これをはっきりと伝えることは、権力者を政権を転覆させることなので危険なのです。
わたしたちも、子どもたちにとって生きづらくなっているこの世界の中で「愛と自由」を与えてくださる神さまを、神さまの愛を伝えなければいけません。「宗教」を持ち出すと危険視されるこの世のなかで、わたしたちはどのように福音の種を蒔けばよいでしょうか?苦しんでいる子どもたちに神さまの愛を伝えればよいでしょうか?
イエスさまの種まきの話を聞いて自分の信仰はどの土地なのだろうかと考える群衆はいなかったでしょう。どんな地にでも種を蒔いてくださる神さまがいる。そして収穫の時には、驚くくらい素晴らしい実りがあることをビジョン・幻として見たのです。私たちのその神さまに信頼し、種である神さまの言葉は虚しくは戻らない、必ず使命を果たす、そのことを信じて、種を蒔き続ける、愛を与え続けるのです。イエスさまと共に種まきをつづけましょう。