2026年1月26日 神の権威をもって 小田哲郎牧師
(説教本文)マルコによる福音書1章21-28節
説教題に権威という言葉をつかいましたが、「権威」という言葉に躊躇してしまう自分がいます。辞書には「権威」について2つの意味があると書かれて今s授。
1 他の者を服従させる威力。「行政の—が失墜する」「親の—を示す」
2 ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー。「—ある賞を受賞する」「心臓外科の—」
「権威主義」という言葉もあります。世界では中国やロシアやミャンマーなど権威主義の国がまた台頭しているに思えます。民主主義国家の代名詞であるアメリカもしかりです。権威主義は国家だけでなく、教会にもあります。歴史を見ればローマ教皇の権威は絶大で、権威主義的であったことも確かです。今日のテーマは「権威主義」ではなく権威についてです。イエスの権威ある教えについてです。聖書が語る権威とはどのようなものか見ていきましょう。
イエスさまに招かれた漁師たちを伴って、イエスさま一行はカファルナウムの町にやってきました。カファルナウムにはシモン・ペトロとアンデレの家もありましたし、税務署やローマ兵が駐在する警察署もありました。そこにはシナゴーグと呼ばれる会堂がありました。今カファルナウムのあった場所を訪れると、イエスさまたちの時代よりも後に200年頃に建てられた会堂の遺跡が残っています。会堂は礼拝場所であり、学校であり、コミュニティセンターでした。安息日には集まって祈りと十戒と信仰告白を唱和し、詩編が交読され、律法や預言書の巻物(私たちの使っている旧約聖書が書毎に巻物になって置かれていました)が読み上げられて誰かが奨励や説教をするのでした。普段の日には子どもたちを教え、村の人々の交わりの場所にもなるのです。私たちキリスト教の教会のそしてイスラム教のモスクの原型がこのシナゴーグにあります。。
その日は安息日でしたので、会堂で礼拝が行われます。律法か預言書の巻物が読み上げられた後、イエスさまが説教されたのでしょう。会堂の礼拝では成人男性であれば誰でも説教することができました。律法学者がいれば律法学者が説教をするのが常でした。律法学者は普段でも子どもたちに十戒や律法の書を教えたり、生活上で律法をどう解釈するか(例えば労働が禁じられている安息日に家畜が井戸に落ちたら助けても良いのか悪いのか等)の判断をしていましたから、自ずと聖書の律法にはこう書かれているからあなたたちはこれを守らなければならない、こうしなければ永遠の命は得られない、病気や障がいがあるのは何か悪いことをしたことへの神さまの罰だ、穢れているから近づいてはいけない。というような事を言ったのではないでしょうか。あれしてはいけない、これしてはダメだ、因果応報、と上から目線で語ったかもしれません。そして最後にファリサイ派である私はすべて律法を守っている、とマウントをとったかもしれません。彼らは律法の専門家、自分たちは律法の権威だと思っていましたから。
しかし、今日はイエスさまが説教されました。ここではじめてイエスさまの教える姿がマルコによる福音書に出てきます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言された時も、もっと長く説教をされたかもしれません。しかし、そこには人々の反応は描かれていません。イエスさまの説教の内容がどんなだったかは書かれていませんが、それを聞いた人々は「その教えに非常に驚いた」というのです。別の翻訳聖書では「その教えに仰天するのであった」とあります。びっくり仰天するほどのすごい説教だったのです。教えだったのです。何を話したのでしょうね?マタイによる福音書はイエスさまが山上の説教を語り終えた時に同じ言葉を書いて群衆の反応を描きます。マタイによる福音書7章28-29節にこうあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」マルコの言葉と同じです。人々が仰天したのは、イエスさまが権威ある者として教えたからだとどちらの福音書も説明します。
それは教えの内容も山上の説教の「心の貧しい人々は幸いである、天国はその人々のものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」と言った、これまで会堂で律法学者が語ったものとは全く景色が違う、悲しみ苦しむ人たち抑圧された人たちに「福音」と呼べるものだったのでしょう。しかしそれだけでなく、イエスさまこの世界の全権をもっている、権威ある者、創造主である神さまの言葉そのものであるかのように、神の言葉そのものとして、語られたのです。律法学者が聖書の権威だと言っているのは、権威ある言葉をよく知っているからです。律法学者そのものに神の権威があるわけではないのです。イエスさまには神さまの権威がそなわっています。だからこそ悪霊でさえその言葉に従うのです。
イエスさまは汚れた霊、悪霊を「この人から出て行け」と言って追い出します。この後にも34節に「多くの悪霊を追い出し」とあり、39節にも「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教師、悪霊を追い出された。」と、病気の癒しと悪霊祓いをされるのですが、ここで注目するのは癒しの奇跡ではありません。イエスさまが奇跡を起こす、すごい力、超能力を持っていたということでもありません。福音書では病気や障がいが治った後に、イエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」と言うのを聞くと、信仰が強ければ病気を癒やされる、病気が治らないのは信仰が弱いからだと勘違いしてしまうことがありますが、そう言いたいのでもありません。福音書記者のマルコはイエスさが創造主であり全権を持っている神さまとおなじ「権威」があることを伝えます。
マタイによる福音書には、このカファルナウムに駐在している異邦人であるローマ軍の百卒隊長がイエスに近づいてきて懇願して自分の部下が病気で寝込んでひどく苦しんでいるので癒やして欲しいと願います。ただ、この隊長は「家に行って癒やしてあげよう」というイエスを制してこう言います。「ただ一言おっしゃってください。そうすればわたしの部下は癒やされます。わたしも権威の下にある者ですが、私の下には兵隊がいて「行け」と言えば行くし「来い」と言えば来ます。部下に「これをしろ」といえばその通りにします」と言いました。軍隊というのは権威というのが明確にわかる組織です。ですからイエスさまの権威を認めた百卒隊長はこのように言ったのです。イエスさまは、この百卒隊長の言葉を聞いて、「これほどの信仰を見たことがない」とほめました。そして実際に、部下はイエスさまが近くに行って何かをするのではなく、言葉によって癒やされました。
聖書は驚くようなことを言っていますね。最初にイエスさまを「神の聖者、神の子」だとはっきりと告白するのは汚れた霊、悪霊なんです。そして、だれよりも信仰深いとほめられるのは、律法学者でも会堂につどうメシアを待望しているユダヤ人ではなく、異邦人であるローマの兵隊なのです。私たちは、どうでしょう?そこまで神さまの権威を、イエスさまの権威を信じているでしょうか?神さまの権威というのは、神さまの意志は必ず実現されるということです。その神さまの意志、わたしたちを必ず救うという意志を私たちにわかる言葉で、見える業と行いで示してくださったのがイエスさまです。わたしたちは信じているでしょうか?
悪霊とは、神に反抗する力です。神さまの意志が私たちを必ず救うというものであるのに、苦しみがあると、「それはお前の責任だ、自己責任だから仕方がないぞ。神さまに頼ろうなんて甘い考えではいけない」と耳元でささやきます。何か失敗したりできないと「お前は役立たずだ、生産性が低い、社会に貢献できないお荷物でしかない」と私たちの生きる力をそごうとします。無力感の中へと抑圧します。そして「愛なんて役に立たない。お前を助けるのはお金と、地位と力なんだから、他の連中よりもより多く持って、奪い取ってでも獲得して、他の人を低くしてでも自分がより高い所に立つんだよ」と今度は隣人を抑えつける側にまわらせて、イエスさまの「わたしはあなたを愛している。みんなと共に生きよう」という声をかき消そうとします。
この会堂で叫んだ男には複数の悪霊が取り憑いていました。男は単数形ですが、汚れた霊、悪霊は複数形でかかれています。そんないくつもの、数多くの声が私たち人間の心に働きかけ、抑圧し、神さまから離れて生きようとさせます。しかし、イエスさまは権威ある言葉をもって「黙れ、この人から出て行け」と叱ると出て行くのです。それがイエスさまの権威です。権威ある言葉です。
人々は悪霊を言葉で追い出したイエスさまを見て、驚きます。仰天したとは別の言葉です。その翻訳では「肝をつぶし」と訳しています。ただ律法学者とは違う教えと話しっぷりに仰天だけでなく、実際に言葉によって悪霊を追い出したことを見て、肝をつぶして論じあったのです。「悪霊すら追い出す権威と力をもった教えだ」と。
イエスさまのことば、教え、聖書に示された神さまのことばは、神さまの意志は、私たちの心、人間生を抑圧する声から解放し、「神さまはあなたを愛している。あなたは私の目に高価で尊い」という声を聞けるようにしてくれます。神さまに向き合あう力をとりもどすことができます。
しかし、私たちを救うのは私たちの信仰の強さや行い、努力して得るような信心深さではありません。神さまの権威でありイエスさまを通して示してくださった、神さまにはその愛の意志を実現するためにはできないことは何もないということをただ信じる、神さまへの信頼です。それが、イエスさまの驚くような新しい教えです。
ついつい私たちはアレをしなければ救われない、これをしなければ神さまに怒られるというような律法学者の古い教えにとらわれてしまいがちです。また、教会は弟子に与えられた権能を勘違いして、権力を振るってしまうハラスメントを起こす危険を常に持っています。私たちは神の言葉、聖書の言葉を振りかざして、人を黙らせるようなことはせず、愛をもって、命を与えてくれる神の言葉で、悪霊から解放され、自由になったものとして愛に生きたいと願います。