2017年12月17日 救いの道を整える者
(要約) クリスマスはイエス・キリストの救いが実現することを祝う日です。救いの実現には、準備が必要です。わたしちは心の準備なしに救い主を迎えることができないのです。
(説教本文)
教会暦は、待降節・アドベント第三週に入りました。クリスマスまであと少しです。
「救いは近い」12月3日の主日礼拝において、わたしたちは預言者イザヤを通して語られた神の言葉を聞きました。「わたしの民よ、心してわたしに聞け。私の国よ、わたしに耳を傾けよ。教えは私のもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。私の正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みを置き、わたしの腕を待ち望む。」(イザヤ51章4節~5節) 人々はこの言葉の実現を待ち続けました。救いは今日来るか、明日には来るか、と待ち続けましたが、来ません。今年は来なかったが、来年には救いが実現するだろう。それでも「近い」と神が言われた救いは実現しませんでした。しかし、かれらはあきらめることなく、救いを待ち望み続けました。待降節・アドベントのとき、救いを待ち続けたユダヤの人々と同じ心をもって、今わたしたちも救いの日を待ち望みたいとおもいます。
先週、フィッシャー幼稚園ではクリスマスの礼拝を捧げました。14日の木曜日には子どもたちだけで、15日金曜日には家族の皆さん共にクリスマスの礼拝を捧げました。その少し前、先週11日月曜日には東京神学大学でメサイア音楽礼拝が捧げられ、さらにその前の週の9日土曜日には、武蔵野・三鷹・小金井の一部の地域の教派を超えた教会や集会、YMCA、YWCA、ルーテル学院大学などが参加している0422市民クリスマスがカトリック吉祥寺教会で行われました。これらを「一足早いクリスマス」と言いたいところですが、一足早いという言葉はクリスマスにはふさわしくないと思い、使わないことにしました。なぜなら、クリスマスは、イエスという方の「誕生日」をお祝いすることではないからです。
わたしたちは、毎年巡って来る自分の、あるいは家族友人などの誕生日を祝います。この誕生の祝いとは、地上で命を与えられている者が、一年の間の歩みに感謝することです。では、天に籍を移した人の誕生日はどうでしょうか。天に籍を移していても、近親者であればその日に特別な思いを持つのではないでしょうか。わたしの父は5月13日が誕生日でしたので、毎年その日になると、ああ、今日はおやじの誕生日だなと思います。見える形での誕生日の祝いをしなくても、そのような思いを持つことが誕生日を祝っているということではないでしょうか。
家族友人ではない人の誕生日が、祝われることも珍しくありません。例えば、今年は太宰治の生誕100年ということで、太宰の生まれ故郷の青森でも、太宰が住んでいた三鷹市でも、生誕100年記念行事が行われました。また今年は大音楽家バッハの生誕333年だったそうですね。世界中で記念行事が行われたようですが、知りませんでした。
天に召された方々の誕生を祝うということは、わたしたちが召された人々から受けたことへの感謝の気持ちから出るのではないでしょうか。わたしたちが何らかの大切なものを彼らからいただいた、そのことへの感謝が、生誕何何年として祝われるのではないでしょうか。
イエス・キリストの誕生を祝うということはそのような祝い方に近いと思います。祝う理由は、主イエス・キリストがわたしたちに非常に大切なものを与えてくださったから、わたしたちに救いを与えてくださったからです。わたしたちがそのことに喜びを覚え、感謝する、それがクリスマスです。わたしたちが祝うのは、主イエスの誕生日ではなく、わたしたち救いをもたらす方が神から遣わされてこの世に生まれたという事柄を祝うのです。12月25日は正確に言うとイエス様の誕生日ではありません。2000年も前に生まれた主イエスの誕生日は誰も知りませんし、他の文献などを調べてもわかることではありません。しかし、主イエスの誕生は祝われ続けてきました。それは主イエスが人としてこの世にお生まれになったことが確かだからです。そのことは、新約聖書を通して、多くの証人がいます。主イエスがお生まれにならなかったら、クリスマスは祝われないでしょう。マリアを母として生まれた人の子であるから、主イエスの誕生は祝われるのです。イエス・キリストがこの世に人としてお出で下さったことを記念する日として、後世のキリスト者が決めた日の一つが12月25日なのです。12月14日、あるいは1月6日を降誕日と定めている教会もあります。イエス様の誕生日が何月何日であってもよいのです。救い主が来てくださったことを心から喜び感謝して祝う日、その日がクリスマスなのです。
マルコによる福音書は、そのことを端的に語っている福音書です。実にシンプルに「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とだけ言っています。マタイによる福音書やルカによる福音書で述べられているような降誕物語は全くありません。しかし、「神の子イエス・キリストの福音」と書き出しているところに、この福音書が語ろうとしていることは何か、イエス・キリストという方はどのような方なのか、なんのために地上に降りてきてくださったのか、ということを短い言葉で言い表わしているのです。これからこの福音書が語るイエスという方は、神の子です。その方は、キリスト、救いをもたらす方です。それはわたしたちにとって大きな喜び、福音です、と福音書を読む人、聞く人に語り掛けています。
マルコによる福音書は簡潔にイエス・キリストを紹介した後に、まず洗礼者ヨハネのことから福音を語り始めています。それが福音の初めだからです。ヨハネのことを抜きにして、福音は語れないのです。
主イエスの誕生のいきさつについては、マタイによる福音書とルカによる福音書が述べていますが、ルカによる福音書では、さらに洗礼者ヨハネの不思議な誕生についても語られています。ヨハネの父親のザカリアは祭司でしたが、ある時天使が現れ、年老いた妻のエリサベトが子を産む、その子にはヨハネという名をつけなさいと告げました。天使の言葉を信じようとしなかったザカリアは声が出なくなりましたが、生まれた子に天使の言葉通りにヨハネと名付けると、声が出るようになり、神を賛美し、神がヨハネに与えた役割を語ったのです。ザカリアが預言したヨハネの役割とは、救い主の道を整えることでした。
マルコによる福音書には、主イエスの誕生のいきさつもまったく述べられていませんが、ヨハネ誕生のいきさつも述べられていません。マルコはただ、イザヤの預言が今ヨハネによって実現したと伝えるのです。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」
マルコは福音書を執筆するとき、道を整えるというイザヤの預言の実現こそ伝えるべき大切なことであるとのインスピレーションを与えられたのです。実は、他の福音書、ルカによる福音書も、マタイによる福音書も、ヨハネによる福音書も、このイザヤの預言を引用してヨハネを紹介しているのです。ということは、救い主の前に道を整える者が出るというこのイザヤの預言の実現が、わたしたちの救いにとっていかに重要なことであるかがわかるのではないでしょうか。
ユダヤの人々は何世代にもわたってなかなか実現しない救い主の出現を待ち望んでいました。なぜ救い主は来て下さらないのか。早く救い主に来ていただきたいものだ。救い主を待ち焦がれていた彼らの前に現れたのがヨハネでした。ヨハネは荒れ野に住み、ラクダの毛皮を着て、いなごと野蜜を食していました。また、堕落し腐敗した国の指導者たち、王侯貴族たちに対して、厳しい批判の言葉を語りました。そのようなヨハネの姿と言動に接した人々の中には、預言者エリヤが来たと思った人たちがいました。また別の人々は、救い主がついに来たと思い、喜んだのです。そのような人々に向かってヨハネは言いました。わたしは救い主ではない。救い主はわたしの後から来られる。わたしは救い主のために準備をする者、救い主が来られるために道を整える者であると述べ、自分は救い主の履物のひもを解くほどの価値もないと言うのです。当時、家に帰って来た主人や、客人の履物のひもをとき、足を洗うのは奴隷の役割でした。ヨハネは、自分はこれから来られる救い主を迎える奴隷以下の存在だと謙虚に語ったのです。ヨハネの言葉を聞いた人々は、では救い主はどのような方なのだろうと希望を大きくもったことでしょう。そして、救いが近いことを確信したのです。
このようにして、まずヨハネが救い主イエス・キリストが来られる準備をし、それから救い主イエスが・キリストが来られた。マルコだけでなく、4つの福音書はすべてそのことを述べている、それほど重要なことなのですが、疑問が残ります。なぜヨハネによる準備が必要だったのかということです。最後にそのことを皆様と一緒に考えてみたいと思います。救いは主イエス・キリストが来てくださることでは、不十分だったのでしょうか。それならば主イエス・キリストが不完全な方ということにはならないのでしょうか。皆様はどのようにお考えになりますか。
わたしはこのように思います。主イエスおひとりで救いを実現することができないのではない。主イエスが不完全だから、準備が必要なのではない。救いの準備が必要なのは、わたしたちが不完全だからです。わたしたちの信仰が不十分だからです。わたしたちの神に対す従順が、不十分だからです。聖書はそのような私たちを、罪人と呼んでいるのです。罪人であるゆえにわたしたちには正しいものが見えず、正しい声を聞くことができなくなっているのです。私たち罪人には、あらかじめ救い主を迎えるための心の準備、心を整えることが必要なのです。主の道を整えるというヨハネの役割は、まさにわたしたちのためにあるのです。
思えば、ユダヤでは多くの預言者が神の声を伝え続けてきました。彼らは、人々が歩んでいる道が誤った道、滅びの道であることを教え、正しい道、救いの道を歩むように伝えました。しかし、その声を正しく聞くことのできたのは、限られた人たちだけでした。ヨハネは、最後の預言者として神から遣わされ、人々のこころに救い主を迎え入れる準備をしたのです。
今は待降節、アドベントの中です。主イエス・キリストによる救いを待つときです。このとき、わたしたちは自分の罪を覚え、罪を悔い、心を改め、救い主イエス・キリストを迎える準備として、こころの道を整えなくてはなりません。そうしないと、救い主が来られる本当の意味、クリスマスの本当の意味を見失うことになってしまいます。荒れ野で叫ぶ声が今も私たちの心に響いてきます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」