2017年12月31日 まことの王
(要約)詩編72編では、理想的な王の姿が描かれています。このような王であってほしいという民の願いが込められています。しかし、現実の王たちは、理想とはかけ離れた人たちでした。まことの王は、主イエス・キリストだけなのです。
(説教本文)
詩編72編1節~7節
12月25日の降誕日を皆様どのように過ごされたでしょうか。今年は12月24日に主日礼拝と愛餐会があり、さらに24日の夕方にはクリスマス・イブ礼拝がありました。日曜学校の奉仕をされている方々は、前日の23日の日曜学校クリスマス会を含め、短期間にクリスマス関係の諸行事が密度濃くあり、25日には解放感を味わっていたというのが正直なところでしょうか。
次の日26日の朝、農業公園を通りかかると、農協の職員が何人もかかって、作業台のついたクレーン車まで使って大きなクリスマスツリーから飾りつけを外していました。クリスマスが終わった!さあ、急いで正月の準備に切り替えよう。正月の祝いをことのほか大切にしている日本ではよくある風景ですね。
他の国ではどうかなと調べてみると、欧米のキリスト教国といわれる国々では、正月をそれほど祝いませんので、クリスマス・シーズンの中という感じのようです。正月を大切にする東アジアの諸国では、多くの地域が旧正月で祝うので、急いで正月の用意ということにはならないようです。クリスマスから正月への急な切り替えはどうやら日本独特のようです。
クリスマスは、主イエスの降誕日と定められた12月25日を中心とした時節、シーズンです。ですから25日で終わりではありません。むしろ12月25日から始まります。一応の区切りは1月6日です。今日の週報にも書きましたが、この日は、ユダヤからはるかに遠くの東の国の学者たちが、黄金、乳香、没薬を携えて主イエスを訪問したとされる日で、公現日あるいは栄光祭、英語ではエピファニーと呼ばれる日です。ユダヤのベツレヘムという小さな町の家畜小屋で生まれた救い主は、ユダヤ人だけの救い主ではなく、全世界の人々のための救い主なのだ、遠い東の国の学者たちは、そのことを象徴的に表す人々でした。
星に導かれた学者たちはユダヤの国まで来ましたが、ユダヤのどこに救い主がお生まれになったのかがわかりません。そこで彼らはユダヤの王ヘロデの王宮を訪ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」祭司長や律法学者たちは、ミカ書に書かれた預言にその答えを見つけました。「ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さいものではない、お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(マタイ2:6) ユダヤを救う方、救い主=メシアは、ユダヤの指導者、民を治める王であると期待されていたのです。
今日の詩編72編を読むと、ユダヤ人がどのような王を期待していたのかがよくわかります。
1節「神よ、あなたによる裁きを王に、あなたによる恵の御業を王の子にお授けください。」 裁くとは、人と人との関りで問題が生じたとき、白黒をつけることです。盗んだのか否か、殺したのか否か、所有権を主張する二人のどちらに所有権があるのか、人間社会に起こる様々な争いは、当事者間で解決できることが望ましいのですが、なかなかできません。そこで公平な立場にある第三者が決着をつける、それが裁きです。近代社会では裁判官がその役割をしますが、イスラエルでは、元来預言者の役割でした。しかし、民の求めによって王が国を治めるようになってからは、裁きは王の大切な仕事の一つになりました。裁きは、よほど慎重にしなければなりません。訴えを聞き、よく調べ、判断をしなければなりません。しかし、人間ですから必ず正しい裁きができるとは限りません。誤った裁きをする可能性はあるのです。ですが、間違えられた方はたまったものではありません。
日本でこのところよく耳にするのが、裁判のやり直し、再審です。殺人事件の犯人として裁判にかけられて死刑の判決を受けた人が、再審を求めて認められ、再審の結果無罪になるケースがあります。判決の理由となった事実認定に大きな誤りがあったり、新しい証拠が見つかったりすることで、判決が変わることがあるのです。刑事事件では、調べにあたった検察官や警察官が強制して自白させたり、嘘の証拠によって犯人を仕立て上げるということも起こっています。裁判官が検察側の主張に偏ってしまったというケースもあります。そのようなことで犯人とされ、刑務所に送られた人々、あるいは死刑を執行されてしまった人がいます。その方々の無念を思うと心が痛みます。アメリカの陪審員制度、日本の裁判員制度はそのような判断ミスを防ぐための制度ですが、誤審を減らすことができても、完全に誤審を防ぐことはできません。なぜなら、不完全な人間がすることだからです。いくら優秀で経験がある裁判官でも、誤審の可能性はありえるのです。
本当の裁き主は神である。なぜなら神は完全であり、すべてをご存じだから。古代イスラエルで裁判を預言者が行っていたのは、預言者は神の判断を仰ぐことができると考えられたからです。ところが、預言者でも神の言葉を聞くことができない者がいました。サムエルの息子たちがそうでした。サムエル記には次のように書かれています。「サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤといい、この二人はベエル・シェバで裁きを行った。しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂をとって裁きを曲げた。」(サムエル記上8:1~3)とんでもない裁判官です。そこで、イスラエルの民はサムエルに、正しい裁きを行う王を与えてほしいと願いました。神はサムエルを通して、王を求めるのはわかるが、王は王でお前たちを苦しめることになるよと忠告しました。しかしイスラエルの民はどうしても王が欲しい、正しい裁きのために王が欲しいと要求し、イスラエルは王が指導することになったのです。
王が裁きをするようになったイスラエルでは、人々が求めたように正しい裁きが行われたのでしょうか。知恵に富んでいたといわれるソロモンについては、日本の大岡裁きのような話が聖書に書かれています。しかし、どの王も弱く罪の多い人間でした。何度も過ちを繰り返しました。ソロモンの後、王位争いによってイスラエルは南北に分裂してしまうのです。結局正しい裁きを行えた王は一人もいませんでした。
詩編72編が描く王の姿は、理想的な王です。正しい裁きなど王としての能力を神から恵まれた王。その王は地位の低い民の訴えにも耳を傾け、貧しい人々のためにも正しい裁きを行う。弱い者、貧しい者、子どもたちを守り、彼らを苦しめる者や虐げる者から救う王。このような王を求め、そのような王は神と民から愛され、世界を治め、その王国は実り豊かになり、永遠に王として国を治めると祝福の言葉を送っているのです。そのような王はだれか、主イエス・キリストです。詩編72編が描く王に対する賛美の歌が、こどもさんびか5番にあります。
2節 こどもを招く王はどなた、こどもを守るイエス様よ
ホサナと歌え、ホサナと歌え、こどもの好きなイエス様を
これまでの人間の歴史の中で、国の指導者は、ほとんどが独裁者でした。イスラエルのサウル、ダビデ、ソロモン、その後の王たち、主イエスの時代のヘロデ、近隣諸国のアッシリア、エジプト、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、・・・王はすべて独裁者でした。ローマは国ができたころは共和制でしたが、国が大きく強くなると結局皇帝という独裁者が帝国を支配することになりました。独裁者の関心は、強力な軍隊をもって富をかき集めることです。そのため、民は大きな苦しみを味わわされつづけてきました。人々は多くの犠牲を出して独裁支配から脱し、民主主義が生まれました。民主主義を求めた人々は、民主主義によって正しい裁きが行われることを期待したのです。しかし、どうでしょう。今日、世界のほとんどが民主主義なのに、正しい裁きが行われているでしょうか。政治も広い意味で裁きです。個人の独裁は問題であるが、集団で判断する政党が独裁することが正しい政治をするとして、共産主義では一党独裁を理想的な政治形態としました。では共産主義の国の現実はどうでしょうか。一党独裁による政治をしているご近所の国々は、一部のものだけが富を独占するという共産主義とは全く反対のことが起こっており、結局独裁の悪い面が出てきてしまっているのではないでしょうか。自由国家を標榜するアメリカでも、4年間の任期の間なら何をしても構わないと、独裁に近い状況です。日本でも、国会の議席数という強い力をもった政党が、正しくないことを正しいと言い張り、やりたい放題で独裁的に動き回っています。
このように話をしていると、全く暗くなってしまいますね。では、詩編72編が描く理想的な王の姿は、まったく絵に描いた餅、空想にすぎないのでしょうか。現実味のない絵空事なのでしょうか。そうだとしたら、なぜこの詩が詩編として選ばれたのでしょうか。詩の選定に神の意志は働いていないのでしょうか。
注解書によると、詩編72編は、新しい王の即位式の時に読みあげられたと思われる、と解説されていました。新しく王として選ばれたものが、油を注がれて王に即位する時、このような王になりなさいという思いを込めて王に向かって祭司長が読み聞かせたのでしょう。これは、神の思いです。神はこのような王になるためにあなたを選んだのですと、神の言葉によって勧告したのでしょう。それは、わたしたちがいろいろな場面で行う宣誓や誓約と似ています。アメリカの大統領の就任式では、聖書に手を置いて、宣誓します。わたしも牧師になるにあたって、神と皆様に対して宣誓をしました。しかし、宣誓したとおりにはなかなかできないのがわたしたちです。わたしも神と皆様にお約束したことができているか否か不安だらけです。では、宣誓には意味がないのか。あります。宣誓したことを思い出し、自分を確かめる機会があるからです。次週、洗礼式が行われますが、その中で行われる宣誓は、すでに洗礼を受けた人にとって、自分を再確認する機会になります。牧師も、他の牧師の就任式に出席することによって、自分の宣誓を再確認するのです。
今日与えられた聖句は、王になる人への勧告であって、わたしたちとは別世界のことのように思えます。しかし、王を「私」と読み替えるなら、全くわたしたちへの勧告、わたしたちがすべき宣誓の文章になります。そしてわたしたちは、自分が不完全であることを覚え、神に頼らざるを得ない自分を確認するのです。主イエス・キリストによらずして、わたしたちは何もできないのです。主イエス・キリストこそ完全な王なのです。
72編は最後に神賛美で終わっています。「主なる神をたたえよ、イスラエルの神、ただひとり驚くべき御業を行う方を。栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ。栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。