2018年1月14日 神の子の洗礼

(要約) ユダヤの人々に罪の赦しの洗礼を呼びかけていた洗礼者ヨハネの元に、多くの人が集まりました。その中に、主イエスもいました。悔い改めるべき罪がなく、洗礼を受ける理由がない主イエスは、なぜ洗礼を受けられたのでしょうか。

(説教本文) マルコによる福音書1章9節~11節
先週の主日に、宮寺紘子さんが洗礼を受けて、キリスト者となられました。洗礼式はいつも大きな感動を覚えますが、先週の洗礼式でも司式者という光栄を与えらえたわたしは大きな感動に包まれながら洗礼式を行いました。はじめの言葉、聖書朗読、祈り、洗礼志願者の誓約を経て、いよいよ水による洗礼です。「父と、子と、聖霊の名によって宮寺紘子に洗礼を授ける。」神様の愛を感じ、感謝に涙がでました。文字通りのクライマックスでした。ある牧師は、洗礼式の都度、体が震え、ゾクゾクすると言っていたそうですが、まさにそのような感覚でした。洗礼式に立ち会い、洗礼の証人となってくださった皆様も感動を覚え、また自分が洗礼を受けたときのことを思い出されたことでしょう。
昨年4月中旬に熊本に住んでいる従兄弟から電子メールが届きました。彼から電子メールが来ることなどほとんどなかったので、どうしたのだろうか、何かあったのだろうかと恐る恐るメールを開けて読んだところ、小学生の姪が洗礼を受けた、小学生でも洗礼を受けることがあることに驚いた、初めて洗礼式に立ち会ったが大変に感動したと書かれていました。メールをくれた従兄弟も幼児洗礼を受けていたものの、長く教会から離れた生活を送っていましたが、母親の葬儀がきっかけで教会に再び導かれ、前の年に信仰告白をしたばかりでした。ですから姪が洗礼を受けたことへの感動は余計に大きかったのでしょう。肉の家族が、霊の家族にもなったことへの大きな喜びがあったのです。小学生が洗礼を受けてもいいの?と疑問に思う人がいるかもしれませんが、全く問題ありません。洗礼は信仰が確立したひとが受ける者ではなく、信仰の入り口に立つ者が受けるものだからです。神を信じ、主イエスに従って歩もうと思うことだけで、洗礼を受けるには十分なのです。

洗礼は神様の導きによるものですが、きっかけは人によって様々です。わたしは、幼児洗礼を受けていましたが、なかなかキリスト者になろうとせず、かといって教会から離れるのでもなく、のらりくらりとキリスト者もどきをしていました。25歳ごろ、友人たちはとっくに就職しているのに、わたしは自分の歩む道が決められず、どのように生きるべきかを思い悩む日々でした。そのような思いから、キリストに従って歩もうと、それが一番正しいことだと確信したのです。親の信仰によって幼いころから教会につながっていたことを感謝しました。讃美歌312番「いつくしみ深き友なるイエスは」の第1節では「こころの嘆きを包まず述べて、などかは下ろさぬ、負える重荷を。」また第2節では「悩み悲しみに沈めるときも、祈りに応えて慰めたまわん。」と歌いますが、洗礼を受けるときの思いは、まさにこの思いでした。

さて今日はマルコによる福音書から、神の子、主イエス・キリストの洗礼という出来事を通して、洗礼とは何か、どういうことなのかを再認識して、わたしたちの信仰の養いとしたいと思います。

 キリスト教において洗礼と聖餐は聖礼典と呼んで特別に重要な儀式と位置付けられています。新約聖書の原点のギリシャ語では聖礼典をミュステリオンと言い、英語のミステリーの語源ですが、隠されたものという意味で、カトリック教会では秘跡と呼んでいます。神の業は本来私たちには見えず、隠されたものですが、見える形にしてくださったものがミュステリオン、聖礼典です。2つの聖礼典の内、聖餐は主イエス・キリストがこのようにしなさいとお定めになったものですが、洗礼は主イエスより前から行われていました。ただ、後で言いますが、主イエスによって大切な意味が付け加えられました。

洗礼は、キリスト教の母体であるユダヤ教における律法に基づく清めの儀式が起源です。レビ記13章に詳しく書かれていますので、興味のある方は是非お読みください。清めの儀式では水によって汚れを洗い流すことが基本です。洗礼者ヨハネも基本的にはユダヤ教の清めの儀式に基づいて洗礼を授けていましたが、ヨハネは、食べ物や病気の人や死体との接触など外的な汚れではなく、人の内側の汚れ、心の汚れを清めること、すなわち人が犯した罪を認め、悔い改め、罪を赦していただいて天の国に入れていただく、そのような意味の清めのために洗礼を受けるように人々に呼び掛けていました。ヨハネの声に多くの人々が耳を傾け、ユダヤ全土から人々がヨハネのところに来て、悔い改め、罪の赦しを求めて洗礼を受けたのです。

ヨハネが人々に洗礼を授けていたある日、洗礼を受けようとする人々の中に主イエスがいました。主イエスとヨハネの出会いの場面を次のように想像してみました。ヨルダン川の中にいるヨハネが、人々に洗礼を授けています。洗礼を受けるために集まった人々は、列を作って順番を待っています。やがて主イエスの番が来ました。主イエスの顔を見て、その人が神の子イエスであることがすぐにわかったヨハネは、戸惑いました。なぜなら、自分は主イエスの道を準備するために神から遣わされ、今ヨルダン川の水によって洗礼を授けているが、主イエスは聖霊によって洗礼を授けることを知っていたからです。自分の行っている洗礼は、まことの救い主、神の子イエス・キリストが来られるまでの暫定的なものにすぎないとヨハネはわかっていたのです。まことの救い主が今自分の目の前にいる。罪がなく、汚れのない神の子にわたしが清めの洗礼を授けることにどのような意味があるのか。ヨハネは迷いましたが、主イエスに促されて洗礼を授けたのです。

主イエスが洗礼を受けるとすぐに、天から聖霊が主イエスの上に降りました。それは鳩のようだったと聖書は伝えています。主イエスの洗礼を描いた絵画では、鳩が主イエスの頭の上に下を向いて降りてくるように描いている絵がありますが、鳩ではありません。鳩のように聖霊が下って来たのです。なぜ聖霊を鳩にたとえたのでしょうか。鳩が、神殿礼拝において神への捧げものとして用いられた犠牲の動物であるということが理由の一つかもしれません。また、ノアの洪水のとき、洪水が終わった、すなわち神の怒りが収まったことを証明する鳥でもありました。主イエスが、十字架の上でご自身を犠牲として神に捧げたこと、また、神の赦しが主イエスによって人々に与えられること、そのようなことの象徴として、聖霊を鳩にたとえたのではないでしょうか。

聖霊が鳩のように主イエスに降った。それは、聖霊が見える形で降りてきたということでもあります。しかし、そこにいた多くの人々には見えなかったようです。主イエスに向かって降りてくる聖霊を見ることができたのは、主イエスご自身でした。もうひとり、主イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネにも見えていたようです。ヨハネによる福音書には、「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」(ヨハネ1:32)という洗礼者ヨハネの証言が記されています。
なぜ多くの人々には聖霊が見えなかったのでしょうか。それは、信仰の問題であると思います。主イエスご自身はもちろん、洗礼者ヨハネも主イエスが神の子であることがわかっていました。しかし、多くの人はまだそのことがわかりませんでした。洗礼者ヨハネが救い主メシアであると思っていた人も多くいたのです。あるいは、ダビデのような強い王が救い主として来てくれると思っていたのです。今日の聖書の9節に「イエスはガリラヤのナザレから来て」と主イエスを紹介していることが、人々が主イエスをどのように見ていたのかということを表しているのではないでしょうか。ユダヤ教の中心はエルサレムです。そこから見ればガリラヤは、サマリアの更に北の辺境です。そのガリラヤの中でも貧しい寒村であるナザレから来た人イエス。多くの人々は、そのような者が救い主メシアであるはずがないと思っていたのです。

ではわたしたちには聖霊が全く見えないかというと、そうではありません。ペンテコステの祭りの時に人々の上に聖霊が下りました。このとき、聖霊は多くに炎のような分かれ分かれになった舌の形をしていました。そこにいた人々ははっきりと聖霊の姿を見たのです。そこにいた人々は、主イエスを救い主と信じ、恐れずにエルサレムにとどまっていた人々でした。聖霊が見えるということは、信仰的なことがらなのです。

聖霊が鳩のような姿で主イエスに下ると、こんどは神の声が聞こえて来ました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 「こころに適う」という言葉は、「喜ばす」という意味もある言葉です。主イエスの洗礼を神はお喜びになったのです。神の声を主イエスご自身が聞いたという記述は、福音書ではここが最初です。それ故、このとき主イエスは、自分は人々を救いに導くために、人の姿となって神から遣わされたのだということをはっきりと自覚したと思われます。この神の声も主イエスにだけ聞こえ、そこにいた人々には聞こえなかったようです。

このようにして、主イエスは洗礼をお受けになりました。しかし、罪も汚れもない神の子としてこの世にお出でになった主イエスが、なぜ罪の赦しの洗礼をお受けになったのか。疑問は依然残っています。

説教の初めに、キリスト教の洗礼はユダヤ教の清めに源を発するが、主イエス・キリストが重要な意味を付け加えたと申し上げました。それは、洗礼によって主イエスと共に死に、主イエスと共に復活するという意味です。主イエス・キリストは神がわたしたちの罪を赦してくださるようにとご自身を犠牲として神に捧げられました。主イエスの死によってわたしたちが救われるという恵みを見える形で表しているのが洗礼です。洗礼においてわたしたちは霊的な死を経験し、復活して生きるのです。わたしたちは、水によって洗礼を受けます。さらに聖霊によって洗礼を受けることになります。聖霊の洗礼を授けてくださるのは主イエスです。主イエスが十字架において死んでくださったことによって私たちの罪が赦され、清められるのです。主イエスはわたしたちと同様に水で洗礼をお受けになりました。それは、わたしたちと共に歩んでくださることの表現です。神ともにいます、インマヌエルの神としてこの世に来てくださった主イエスは、そのことを示すために罪のないまま水によってヨハネから洗礼をお受けになったのです。

わたしたちは、洗礼によってキリストと共に死に、キリストと共に生きる者となっています(ローマ6:8)。キリストと共に生きるということは、キリストのこの世における体である教会において、主イエスの体の一部として生きると言うことです。別な表現ではキリストを着て生きている(ガラテヤ3:27)のがわたしたちキリスト者の姿なのです。

わたしたちに先立って水の洗礼を受け、また霊の洗礼を授けてくださる主イエスにこころから信頼を置き、主イエスと共に一歩一歩確かな道のりを救いに向かって歩もうではありませんか。