2018年2月18日 栄光へと導くために

ユダヤ教を信じている人たちにとって、肉体を持ち、それ故に苦しみ、死んだ人が救い主であるとは認め難いことでした。そこで彼らが親しんでいた詩編を引用してイエス・キリストが神であり、救い主であることを伝えようとしたのです。



(説教本文) ヘブライ人への手紙2章10~18節
聖書の各文書には、文書名が付けられています。新約聖書の場合、マタイによる福音書、ローマの信徒への手紙などの文書名がついています。実はこれらの文書名は、もともとの聖書にはありませんでした。後の時代に、わかりやすくするために文書名が付けられたのです。同様に章とか節もわかりやすくするために後の時代になってつけられたものです。どのようにして文書名をつけたかというと、これがよくわからない文書が多いのです。福音書には、例えばマタイによる福音書といった文書名がつけらていますが、文書のどこにも著者名前を示す記述がありません。ではどうやって文書名をつけたかというと、後の時代の聖書学者たちが、聖書以外のいろいろな文書を調べて、多分マタイという人が書いたのだろうということで付けられた文書名なのです。その点、手紙につけられた文書名は、手紙の冒頭に「ローマの人たち一同へ」などあて先が書かれており、それが文書名になっています。ところが今日わたしたちに示された「ヘブライ人への手紙」にはあて先が書かれていないのです。ですからこの文書が手紙なのかどうかもよく分からないのです。しかし、書かれている内容から、ヘブライ語を話すユダヤ人に向けた文書であることは確かです。ヘブライ人すなわちユダヤ人たちに、イエス・キリストとはどのような方か、何者かということを伝えようとしたのが、この文書です。

 復活したイエス・キリストに出会った弟子たちは、人々が罪の滅びから救われ、神の国へ導かれるようにようにと祈りを込めて、イエス・キリストが救い主であることを伝えるために手分けをして伝道をしていました。ある人はユダヤに住んでいるユダヤ人たちに、ある人は外国に住んでいるユダヤ人たちに、ある人はユダヤ人以外のユダヤ人が異邦人と呼んでいる人々に伝道をしました。それぞれの伝道は多くの困難が伴うものでした。文化も習慣も異なり、異教の神々を信じている異教徒への伝道が難しそうに思えますが、キリスト教の母体となったユダヤ教、キリスト教と同じヤハウェの神を信じ、キリスト教の聖典でもある旧約聖書を聖典とするユダヤ教徒への伝道は、かなりの困難がありました。ユダヤ教がキリスト教と非常に近い関係にあったことがかえって伝道を困難にしていたのです。ユダヤ人たちの中には、自分たちが幼い時から聞いて来た教えから、どうしても離れることができない人が多くいました。その一つが天使のことでした。このヘブライ人への手紙では、1章から天使のことが書かれています。1章4節「御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。」5節以下も天使のことが書かれています。2章9節には「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」と主イエスを天使と比較しています。今日の聖書箇所でも16節に「イエスは天使を助けず」と天使のことが書かれています。
 
 天使は、文字どおり天の使い、神の使いですが、聖書の中で非常に大切な場面で登場します。数例を挙げると、アブラハムの物語では、神の人が旅人としてアブラハムのところに遣わされ、年取ったアブラハムとサラの夫婦に子どもが与えられると告げました。 洗礼者ヨハネの誕生においては、祭司のザカリアに天使ガブリエルが現れて、ザカリアとエリサベトの夫婦に子どもが与えられると告げました。 主イエスの誕生においても、マリアとヨセフにそれぞれ神の子が与えられると天使が告げました。ユダヤ教の人々にとって天使こそが神と人をつなぐために神から遣わされた使者でした。日本語で天使と訳された言葉は、ギリシャ語ではアンゲロス、英語のエンジェルですが、神の言葉を伝える者という意味を持つ言葉です。天使の役割は、人に幸せを運ぶことではなく、人に神の言葉を伝えることなのです。たしかに、アブラハムとサラにイサクの誕生を告げた神の人も、ヨハネの誕生をザカリアに伝え、主イエスの誕生をマリアに伝ええたガブリエルも神の言葉を伝えたのでした。その点では預言者たちも天使的存在ということができます。天使の存在はおおきく、ユダヤ教では聖書に書かれたミカエルやラファエルといった天使を、自分たちを守ってくれる守護天使として信仰するようにさえなっていました。

 天使を神の使いとし、自分たちを守り救ってくれるという信仰をもったユダヤ人たちにとって、イエス・キリストという存在はどのように見えたのでしょうか。
ユダヤ人、ヘブライ人にとってイエス・キリストはマリアを母として生まれた人間であり、人間は天使より低い存在でした。人間イエスがどうして救い主でありえるのか。どうしてわたしたちを守ることができるのか。どうして神の言葉を伝えられるのか。彼らには人間であり、しかもガリラヤの貧しい村の貧しい家の出であるイエスが救い主であることをなかなか理解できなかったのです。天使という大きな存在が、イエス・キリストを見えなくしてしまっていたのです。
そのような彼らに、イエス・キリストはどのような存在なのか、なぜわたしたちにとって救い主なのか、ということを教えようとしてヘブライ人への手紙は書かれたのです。

文書ではまずイエス・キリストは神とともに天地を創造された方であり、本質的に神と同じ存在であると明確に伝えています。2章7節に「あなたは彼を天使たちよりもわずかの間低い者とされた」とあるのは、イエス・キリストが神でありながら人間となられたこと、貧しい村の貧しい家庭に生まれ育ち、多くの苦しみを受けた死んだことを指しています。なぜ神が人間となり、天使よりも低い存在となったのか。ユダヤ人にとって理解のできない不思議な出来事の理由と目的が、今日の聖書2章 10節以下で述べてられています。

11節「人を聖となさる方も、聖なるものとされる人たちも、全て一つの源から出ているのです。」 「人を聖となさる方」とは神でありイエス・キリストです。「聖なるものとされる人たち」はわたしたちです。神は絶対的な存在です。わたしと神との間には超えれない、あるいは超えてはいけない線がある。だれしもそう思います。そもそも「聖」とは、普通ではない、異なったという意味の言葉です。聖なる神とは、神はわたしたちとは異なった存在であるという信仰の言葉です。ところが、 11節では、本質が神であるイエス・キリスとわたしたち人間は一つの源から出ている、元をたどれば同じだというのです。さらに、神であるイエス・キリストはわたしたちを兄弟と呼ぶことに躊躇しない。喜んで兄弟と呼んでくださるというのです。ユダヤ人たちにとってこの言葉は衝撃的だったに違いありません。ユダヤ人ヘブライ人を納得させる手段の一つは、彼らがよく知っている聖書を引用することです。そこでこの手紙の中では、詩編22編を引用して、詩編でも「あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美する。」と歌っているでしょう。神と本質を同じにするイエス・キリストがわたしたちを兄弟と呼んでくださり、ともに神を賛美するのですよ」と教えるのです。詩編22編はユダヤ人たちの間に親しまれていた祈りの詩で、誰しもよく知っていました。この詩は「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか、」という悲痛な叫びから始まっています。そうです。イエス・キリストが十字架の上で苦しみながら口にされた詩です。あのときも主イエスは、自分を十字架に掛けた人々をも含め、全ての人に、「兄弟たち、わたしと共に神を賛美しよう」と呼び掛けておられたのです。

ここまでの説明で、イエス・キリストが本質的には神であり、天使よりも偉大な存在であることは、わかった。しかし、なぜ、人間となる必要があったのか。人間になるより、神のまま人を救えばよいではないか。人間になったがゆえに多くの苦しみ、特に十字架という大きな苦難にあったのではないのか。ユダヤ人たちの疑問は、彼らが持ち続けてきたユダヤ教信仰からすれば当然の疑問でした。
ヘブライ人への手紙は、この疑問に明確に答えています。イエス・キリストが人間となったのは、死ぬためだ。 これもまた衝撃的な言葉です。神は死なない。それなのに、死ぬために、イエス・キリストは人間として地上に降りて来られたと言うのです。

皆さんは、死ぬと言うことをどの程度意識して生活しておられるでしょうか。普段の生活の中ではあまり意識しないのではないでしょうか。しかし、死が近くにある時、わたしたちは死を強く意識します。死んだらどうなるのか。天国はどんなところだろうか。本当に天国に行けるのか。 中世のヨーロッパのキリスト教国では、日常の挨拶に「メメント・モリ」と言ったそうです。メメントは、英語のメモリで、意識すること、自覚すること、モリは死です。「死を覚えよ」という意味ですが、戦争や伝染病などで人の死がいつも近くにあった中世のヨーロッパでは、今日生きているが、明日は死んでいるかも知れない、人はいつ死ぬかはわからない、そのことを自覚して神に対して真摯に生きようということで、挨拶の言葉を交わしたと言われています。人間は死にたくないと思います。親しい人に死んでほしくないと思います。死を遠ざけるためにいろいろなことをします。死から逃れるために、昔も今もいろいろなことをしてきました。しかし、人間は一人の例外もなく、死を迎えるのです。13節で、人間は死の恐怖の中で生きている、死の奴隷になっていると言っています。その通りではないでしょうか。イエス・キリストは他の人間と同様に死ぬために人間になられた。それは、人の死を支配する悪魔をご自身の死によって滅ぼすためなのです。死の恐怖によって自由を束縛されているわたしたちを解放して自由にしてくださるのです。イエス・キリストが人間として生まれ、人間として苦しみ、人間として死なれたのは、人間と歩みを共にするためなのです。イエス・キリストは人間として死んだ故、わたしたちの死をもご自身のものとされるのです。わたしたちを孤独にさせず、死の恐怖を取り除いてくださるのです。ご自身が血を流して苦しまれたから、わたしたちの苦しみをご自身の苦しみとして、共に苦しんでくださるのです。ご自身が試練に合われたからこそ、試練を受けているわたしたちを助けることがおできになるのです。

教会暦は受難節に入りました。イエス・キリストが、神の存在でありながら、あえてわたしたちと同じ人間として肉体を持ち、それゆえ人間として苦しまれたのは、わたしたちと共に歩むため、わたしたちと共に苦しむためです。そのことによってわたしたちを罪に源がある死の恐れから解放し、自由な者にしてくださるのです。死の恐れから、永遠の命への喜びを変えてくださるのが、主イエスキリストの十字架と復活なのです。それがイエス・キリストの栄光であり、わたしたちも、その栄光の中をキリストと共に歩むことができるのです。そのことを覚えて、感謝と悔い改めと喜びの心をもって受難節の中を歩みましょう。