2018年4月15日 完全な者としてくださる神
吉岡牧師は30歳ほどで長老(役員)に選挙されましたが、経験も少なく、とても無理と思いました。しかし牧師は、長老はなりたい人がなるのではなく、神の御心によって選ばれると言われました。また役割に必要な力も与えられるのです。
(説教本文) ペトロの手紙一5章1-11節
今日耳にする神の言葉はペトロの手紙一からです。手紙のあて先が冒頭の1章1節に書かれています。ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアという地名が挙がっていますが、いずれも現在のトルコにある地名です。聖書の巻末に地図がありますが、地図の7と8にあるようにパウロは2回この地域に伝道旅行をしています。2回目の伝道旅行の地図に、手紙に書かれている地方の名前が出ていますが、ポントスとビティニアにパウロは行っていません。ということは、パウロが設立した教会によってポントス地方やビティニア地方にもキリスト教が伝道され、教会が設立されたということです。ユダヤから遠く離れたこれらの地方に住んでいたユダヤ人は、離散したユダヤ人、ギリシャ語でディアスポラと呼ばれていましたが、彼らはどこに住んでいても自分たちはユダヤ人であるという帰属意識、アイデンティティを強く持っていて、住んでいる土地でユダヤ人の社会を作り、本国との連絡を保っていました。このユダヤ人の帰属意識の強さは何世紀経っても消えることなく、今日まで続いています。キリスト教の初期の伝道は、この強いユダヤ人のつながりの中で広がって行きました。ただ、ユダヤ教と異なることは、ユダヤ教は排他的でユダヤ人しかユダヤ教のコミュニティに入ることはできませんでしたが、キリスト教は、ユダヤ人以外の誰にでも門を開いたのです。
キリスト教の教会がユダヤ人以外にも門戸を開いたのは、復活された主イエス・キリストが弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイによる福音書28章19節)と命じたからです。ところが困ったことがおきました。教会の中でユダヤ人信徒とユダヤ人以外の信徒の間に、もめごとが起きたのです。それは主に生活習慣や、宗教に対する理解の相違によるものでしたが、それを解決するための方法として、教会の世話をする人たちを選挙で選ぶようにしたのです。そのあたりの事情は、使徒言行録6章に書かれていますので、後ほどお読みいただきたいと思います。このようにしてキリスト教の教会では、世襲ではなく、選挙によって選ばれた人々が中心となって教会の運営が行われるようになりました。ユダヤ教ではアロンの家系は祭司、レビ族は神殿の管理者など世襲的に役割が受け継がれてきました。しかし、キリスト教では選挙という方法によって、家系や社会的な地位に関わらず教会の世話する人々を決めるようになったのです。選ばれた人々は長老と呼ばれました。この時代の人々にとっては驚くべき方法でした。教会はこの伝統を引き継いで今日に至っています。
しかし、4世紀にそれまで迫害していたローマ帝国がキリスト教を公認すると、教会はローマ帝国の権力と結びつくようになりました。教会の運営は一部の有力な人々が独占し、教会はこの世的な価値観の中、堕落していきました。堕落した教会を立て直すため、15世紀に宗教改革が起こりました。教会運営は信徒から選ばれた長老を中心として行う初代の教会の制度が回復したのです。世界のプロテスタント教会は、この宗教改革の精神を引き継いでおり、選ばれた役員によって教会の運営をしています。長老主義の伝統に立つ教会では、いまでも役員を長老と呼んでいます。
わたしは、生まれて1年目に両親の信仰により玉川平安教会で幼児洗礼を受けました。玉川平安教会は、メソジストと呼ばれる教会の伝統に立った教会でしたが、わたしは幼稚園の年長の時から家の近くの代田幼稚園の園児となり、代田教会の礼拝に出るようになりました。代田教会は長老主義の教会で、牧師も長老の一員で、説教担当の長老ということでした。
わたしが30歳(だったと思います)の時、事件が起こりました。選挙で長老に選ばれてしまったのです。事件とは大げさなことと思われるかもしれませんが、わたしにとっては大事件でした。30そこそこで長老とは! 長老とは文字通り信仰生活を長くした年配者であって、社会的な経験も深い方がなるものと思っていたからです。とんでもないことになった、大変なことになったと思いました。しかし、代田教会の牧師は、「長老選挙は、政治家の選挙とは違う。政治家はなりたい人が立候補して選挙されるが、長老はなりたくて選ばれるのではない。神の意志が働いて教会員があなたを選んだのであるから、その結果を謙虚に受け入れなくてはならない。」と言われたのです。 はじめての長老会の日、いならぶ長老たちは自分の親の年代の信徒が多く、信仰的にも人生経験的にもわたしよりはるかに上にいる人々でした。長老会の議事も、よくわかりませんでした。神の意志が働いて選ばれたのだから、と牧師に言われたことを自分にも言い聞かせましたが、とても長老など無理!と思いました。全く自信がありませんでした。
そのようなわたしをある聖書の言葉が支えてくれました。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものは、なかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント一10章13節)
神様はわたしに、長老という試練を与えられましたが、その試練を解決する道を必ず備えてくださる。この聖句は、その後人生の様々な機会にわたしを支えてくれる言葉となりましたが、長老に選ばれると言う大事件によって出会うことができた聖句でした。
その後、なんとか与えられた長老の役割を行うことができるようになりましたが、無我夢中で、その重大さがよくわかっていなかったのだと思います。
その後のことです、今日の聖句に出会い、また仰天しました。
「あなたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。」
これは長老ではなく、牧師の役割でしょう。長老が教会員を導くなどとても無理です、わたしにはできません。
「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。」
気持ちはわかります。わたしだってそうしたいと思います。でも、自分で望んでなったのではなく、選挙で長老に選ばれ、長老会で役割を割り当てられてしまったのです。どう考えても強制的にそうなったとしか言いようがありません。
「権威を振り回してはいけません。」
もともと振り回す権威などありませんからご心配なく。
「群れの模範になりなさい。」
それは無理というものです。この教会には、わたしより優れた信仰者がたくさんいます。わたしはたまたま長老に選ばれてしまったのです。模範になれというのなら、それにふさわしい人がたくさんいるではないですか。なぜ彼らが選ばれないのでしょう。むしろわたしがこの人たちを模範として学んでいるのです。このわたしが教会の模範になどなれるはずがありません。
ペトロの手紙が長老に求めていることは、ことごとく現実の私からはるかに遠いことでした。それでも割り当てられた長老の仕事はしなければなりません。フーフー言いながらなんとか役を務めていました。
あるとき、意外な話を聞きました。洗礼を受けて教会員となってかなりの年月を経た人が、自分が長老に選ばれないのはなぜだろうか、なぜ自分ではなく、年齢も信仰歴も短い吉岡が長老に選ばれるのだろうかと少々不満をもっているというのです。長老がこんなに苦しいことなのに、長老になりたい人がいる!驚きでした。
わたしが牧師になってからも、ある教会の方が、自分は長老にふさわしいと思うのに、一向に名前すら選挙で上がらない。それなのに、わたしより後から洗礼を受けたXX君やXXさんが長老に選ばれるなんて、何か変だと思いませんか? へえ、そんなに長老になりたいのですか?と思いました。そういう方もいるのですね。詳しくは聞きませんでしたが、口ぶりからすると、長老という地位に就いてみたい、教会員の上に立ってみたいという願望というか欲望があるようでした。
牧師についても同様なことが言えます。牧師はなりたいと思ってなるのではなく、牧師になりなさいという神の声にお応えしてなるものです。好き嫌い、あるいは得意不得意で選ぶ職業ではないのです。神から背中を押されて牧師に押し出されるのです。中には組織の長になりたいなど上昇志向の牧師もいますが、それは牧師という役割からすると、人間的な欲望が頭を出しているということでしょう。
さて、これらのことは、長老や牧師に限ってのことでしょうか。わたしたち人間にある役割が与えられる。それが自分の選んだこと、あるいは望んだことではないことはよくあることです。 わたしたちは、どのような役割であっても、それは神が自分に与えた役割だと信じることが大切であり、その役割にふさわしい生き方をすることがキリスト者的生き方だと、ペトロの手紙は言っているのではないでしょうか。思えば、主イエスの弟子たちは、誰一人として自分から弟子になりたいと申し出たのではありませんでした。全員、それぞれの職業を持ち、それぞれの生活をしていました。その人を、主イエスがお選びになったのです。かれらは、主イエスの招きに応えて、職業や生活を後にして、主イエスの宣教の業に参加したのです。ペトロたちは漁師でした。常識的には伝道者としての素養があったとは思えません。しかし、主イエスはあえて漁師のペトロたちを弟子として選んだのです。主イエスは人々から嫌われ、罪人扱いされていた取税人も弟子に選びました。それが、神の選びということなのです。
なぜ神はふさわしくない者をお選びになり、困難な役割をお与えになるのか。その答えが今日の聖書5章10節にあります。「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしうてくださる」のです。
私自身も、佐野伝道師も、牧会者として力を持っているわけではありません。しかし、牧会者としてお選びになった神が、必要な力を与えてくださると信じてこの困難な役割を務めることができるのです。ドイツ語では職業をベルーフと言いますが、ベルーフは呼ぶ、招くという意味です。ドイツ語では、職業に就くと言うことは神から招かれるということなのです。家庭の主婦も親も神から与えらえた役割、務めです。神はそその役割にふさわしい力を与えてくださるのです。自分にはとても無理ということは、力を下さる神を信じていないということではないでしょうか。
29日には教会総会が開かれ、教会役員が選ばれます。役員に選ばれた方は、どうぞ今日の聖句から神の声を聞いてください。羊の群れを牧師なさいという困難に思われる役割を行う力を神が与えてくださいます。神のお招きによりわたしたちが与えられるいかなる役割も謙虚に応えましょう。神はわたしたちに完全な者になるよう求めておられるのではなく、わたしたちを完全な者にしようとされているのです。