2018年1月28日 種と畑のたとえ

(要約)このたとえ話をよく知っている人は多いと思います。しかし、よく知っていると思い込むことで、たとえ話の豊かさを見失うことがあります。このたとえ話には、いろいろな聞き方があってよいのではないでしょうか。その聞き方とは

(説教本文) マルコによる福音書4章1~9節
今日は、数多くある主イエスのたとえ話の中から、「種を蒔く人」のたとえと呼ばれているたとえ話から、神の声を聞きましょう。このたとえ話はなんども聞いたことがある人が多いでしょうし、また日曜学校などでご自身がお話になった経験のある方も多いでしょう。このようなよく知られた聖書の箇所には、実は大きな落とし穴があることがあります。大きな落とし穴とは、思い込みです。何度も聞いた、よく知っているという思い込みから、大切なみ言葉を聞き損じていることがありがちなのです。わたしもそのように思い込んでいた一人でした。自戒を込めて、今日は主イエスのお話をよく聞いてみたいと思います。

主イエスの話を聞こうと多くの人が湖のほとりにいた主イエスのところに押しかけてきました。主イエスは舟に乗り、湖畔にいる群衆に向かって話を始められました。さあ、わたしたちも、群衆の一人となって主イエスの話に耳を傾けましょう。 群衆の多くは農民でした。そこで主イエスは畑に蒔かれた種を用いたたとえ話を始められました。

農民が畑に種を蒔きに行った。麦の種のことでしょう。話を聞いているひとたちは、農民であり種蒔きの経験者です。主イエスが自分のことを語っているように親近感を覚えて話に耳を傾けたでしょう。皆さんの中にも家庭菜園をおやりの方がいるでしょうが、どのようにして種を蒔くでしょうか。たぶん、土に適当な深さの穴をあけ、一粒ずつその穴にいれて土を被せるというやり方ではないでしょうか。しかし、聖書の時代のイスラエルの農民は穴を開けて一粒ずつ蒔くなどという丁寧な蒔き方はしませんでした。種を手でつかんで、散らすに蒔きました。当然種は風に吹かれたりして畑ではないところに落ちたり、よく耕していないところに落ちたりもします。種を蒔き終えると農民は種の上に土をかけますが、畑でない道端に落ちた種はそのままになり、鳥が見つけて食べてしまいます。また、よく耕していない石だらけの畑にも種は落ちますが、芽を出しても根が深く生えないためにやがて枯れてしまいます。畑の外の茨の中に落ちた種は茨に邪魔をされて伸びることができません。よく耕した畑に蒔かれて芽を出した種は根が深く伸び、太陽の光をたっぷり浴びて成長し、やがて豊かな実をつけました。

たとえ話を語り終えられた主は、群衆を解散させ、疲れを癒されるためでしょうか、おひとりになっておられました。すると主イエスの弟子たちが、このたとえ話の意味を説明して欲しいと主イエスに頼んだのです。主イエスは弟子たちの無理解に少々がっかりされたかも知れませんが、丁寧に教えてくださいました。

蒔かれる種は、神の言葉で、蒔く人は主イエスです。良い畑、すなわちよく耕され、石が取り除かれ、雑草が抜かれた畑に蒔かれた種は、芽を出して大きく成長し、豊かな実を結ぶ。良く耕された畑とは神の言葉を聞いて、しっかりと受けとめる人であり、蒔かれた種、すなわち神の言葉はその人の中で大きく成長し、豊かな人間となって行きます。しかし、耕されていない道端に落ちた種が鳥に食べらてしまうように、神の言葉を受け入れる準備の無い人に語られた神の言葉はサタンに奪われやすいのです。 石だらけで土が浅いところとは、神の言葉をきちんと受け止めずに、ちょっと聞いただけで感動し、軽い気持ちで神の言葉を受け入れる人です。根が十分に伸びない芽が簡単に枯れてしまうように、ちょっとしたことで動揺し、つまずき、神から離れてしまうのです。  茨の生えるところに落ちた種はどうなるでしょう。茨は人間の欲望のことです。せっかく神の言葉が芽を出して信仰的に霊的に成長しようとしているのに、欲望という茨に覆われれば、成長できません。 

さて、皆様はこのたとえ話をどのように受け取られたでしょうか。主イエスは、神の言葉、福音を聞いた4つのタイプの人を、畑にたとえてお話になりました。神の言葉、福音の種は蒔かれたが、こころが頑なために、神の言葉をサタンに奪われてしまう人。神の言葉をすぐに受け入れるが、根無し草なのですぐにつまずく人。欲望によって神の言葉が育たない人。そして神の言葉を聞き、受け止め、豊かな実を結ぶよい畑のような心の持ち主です。主イエスは、あなたがたは、前の3人のようではなく、最後に示した人のように、神の言葉、種を蒔くように主イエスが語る福音を受け取り、成長させ、多くの実を結ばせる、そのような人になりなさい、あなたの心を神に向けた素直な心、よい畑のようにしなさい、と言われた。そのようにこのたとえ話を聞きましたか。そうですね、わたしもそのように聞きました。

それはそれでよいのです。わたしたちは神の言葉を受け止めて成長させ、豊かに実を結ぶようにと、自分の心を準備しておかなくてはならない、大切なメッセージです。 しかし、よく聖書を読んでみると、4つのタイプの人がいる、とは語られていても、最後のタイプの人、心に良い畑を持つ人になりなさい、とは書かれていません。よい土地に蒔かれた種は、芽生え育って豊かな実を結ぶと書かれているだけなのです。だからこのような人になりなさいと聞くのは一つの聞き方です。もしかすると他の聞き方もあるのではないでしょうか。

というのは、わたしたちは、良い畑のように神の言葉を受け入れる人になりたいと思っていても、なかなかそのような人になれないという悩みを持っているからです。わたしたちは、どちらかといえば、道端のような、石だらけで土の浅いところ、あるいは欲望という茨が覆う心の持ち主なのではないでしょうか。良い畑のような心も持ち主にならなければ、神の言葉は届かない、成長しない、実を結ばないということであれば、わたしたちに救いの希望はないのではないでしょうか。
このたとえ話のもう一つの聞き方として、神の言葉、福音を素直に受け入れられないわたしたちの心を、主イエスが柔らかく耕してくださり、豊かな実を結ぶ良い畑にしてくださるという聞き方ができるのではないでしょうか。種を蒔く人は農民です。農民は種がよく育ち、良い実を結ぶように、畑をよく耕します。鳥を追い払うように、サタンを退け、芽が成長するように水を与え、陽当りがよいくなるように、土の栄養が十分に行くようにと、茨のような雑草を抜いてくださるのです。そういう農民のような主イエスに守られ育てられて、わたしたちは豊かな実を結ぶことになるのではないでしょか。

このたとえ話は、マタイによる福音書とルカによる福音書にも書かれていますが、ヨハネによる福音書には書かれていません。ヨハネによる福音書には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。」という有名な聖句があります。これも主イエスと人間のつながりをぶどうの木とその枝にたとえたたとえ話です。わたしから離れてはいけないと主イエスは語られ、その後に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、・・・」といわれたのです。今日の聖句と通じるところがあります。

信仰は、神を愛し、神を信じる者が持つと考えられがちです。しかし実は、まず神がわたしたちを愛し、わたしたちを信仰へと向けてくださるのです。わたしたちは神の愛にお応えするだけなのです。人間の努力や修行によって信仰を高め、深め、神とのつながりを強めるのではないのです。神の方から手を差し伸べて伸べてくださっているのです。わたしたちが神の言葉を芽生えさせ成長するような畑として自分の心を準備するのは、わたした人間ができることではなく、主イエスがしてくださることだということ、そのことをこのたとえ話から聞くことができるのです。

さて、このたとえ話のもう一つの聞き方をご紹介したいと思います。それは、種の成長を妨げている側に立った聞き方です。

まずは茨から。種から生まれ出た芽は、太陽の光を浴び、畑から栄養を吸い上げて成長します。同じように、こどもたちも幼稚園、学校などで、あるいは公園や野原、森の中で、自由にのびのびと遊び、経験、学びを通して成長していきます。幼稚園という概念は、200年ほど前のドイツで始まったと言われていますが、幼児教育を始めた代表的な人がフレーベルという教育学者です。フレーベルはこどもたちには、神が与えてくださった成長する力があらかじめ備えられているので、安全に配慮した草花の多い庭で安心して遊ぶことによりこどもは自然に成長するとして、こどもを見守ることを中心にした幼児教育を提唱しました。この幼児教育概念は、200年経った今も色あせることはありません。南三鷹教会が運営するフィッシャー幼稚園も、このフレーベルの考えを大切にしています。しかし、大人はとかく子どもに干渉しがちです。こどものために良かれと思って干渉するのです。それはあたかも自分で成長しようとしている芽を覆う茨になってしまうことがあります。同様に教会の信徒の間でも成長の芽を覆う茨のようになっていないだろかと時々自分を吟味する必要があるのではないでしょうか。わたしたちは人の信仰の成長を妨げる茨になってはいけないのです。 またわたしたちは、根が十分に伸びていない弱い信仰者に親切や教育のつもりで強すぎる太陽になってはいないでしょうか。それは信仰の芽を枯らすことになりかねません。 鳥が道端に蒔かれた種を食べるままにしていないでしょうか。耕されていない道端にも、神の言葉は蒔かれているのです。どこに蒔かれた種も大切な神の言葉です。そこからも信仰が育つこともあるのです。

今日は、とてもよく知られている「種と畑のたとえ」から、たとえから何を聞くのかということをお話ししました。聖書は大変に奥深い書物です。今日お話ししたことも、聖書の入り口に過ぎないでしょう。今日は、聖書を読むとき、すなわち神の声を聞く時、思い込みで読むと聖書をとても小さな書物にしてしまうということを学んだのではないでしょうか。聖書は、何度読んでも、その都度新しい発見があったり、新しいことが聞こえたりします。何度読んでももう十分ということのない不思議な書物です。それは聖書に書かれているのが、神の言葉だからです。読めば読むほど奥の深くなる書物、読んでも読んでも新しいことが見つかる書物、それが聖書です。これからも皆様と一緒に、自由な広い心で聖書を読んでいきたい、そこから常に新鮮な神の言葉を聞きとりたいと思います。