2018年1月7日 歩みを導く神

(要約)南三鷹教会の2018年教会聖句には詩編37編23節が選ばれました。人は一歩を踏み出す時に不安や恐れを覚えることがあります。しかし、わたしたちが気付かないうちに神はその一歩一歩を支え、守ってくださっているのです。 

(説教本文) 詩編37編23節 南三鷹教会2018年聖句
聖書には神の知恵に溢れた言葉が詰まっています。神の知恵とは神の愛から出るものです。愛そのものと言っても過言ではないでしょう。人を愛して愛して愛し抜いてくださる神がわたしたちに与えてくださる言葉です。神の言葉は、時には私たちの耳には厳しい言葉であり、また時にはやさしく私たちを包んでくださる慰めの言葉です。神の厳しい言葉も愛から出た知恵の言葉です。神の言葉が厳しく聞こえるのは、わたしたちの心、魂がいかに弱く貧しいかという現実の姿を見せてくれる言葉だからです。しかし、神はその厳しい言葉によって人を退けようとされるのではなく、むしろ反対に、人が神に立ち帰るように、正しい道を歩むようにと促すための言葉をわたしたちに聞かせてくださるのです。わたしたちは、神の言葉を食べて生きています。わたちたちが本当に生きるためには、口から入る肉の食べ物と、心の奥に届ける霊の糧が必要です。霊の糧とは神の言葉です。キリスト者は、毎日霊の糧を食べて生きています。

聖書の言葉は、そのすべてが命の糧の言葉ですが、その中から南三鷹教会では毎年一つの聖句を選んで教会聖句としています。教会聖句は、礼拝堂のロビーに掲げ、週報や携帯版の礼拝当番表にも掲げと、いろいろなところに掲げて目に届くようにしています。

2018年の教会聖句として選ばれたのは、詩編37編23節の言葉、先ほど司会者が朗読してくださった神の言葉です。この聖句は皆様から募集したいくつかの聖句から役員会で選びました。この聖句を応募された方は次のような主旨の理由を書いてくださいました。「新しい土地、新しい環境で生活を始めたとき、生きにくさや困難をたくさん経験しました。新しいことに一歩踏み出す時、神様がいつも共にいてくださることを確信して、この聖句に勇気をいただき、支えられて来ました。」

聖書には多くの翻訳があり、わたしたちの教会では、新共同訳という翻訳を採用していますが、一般に福音派と呼ばれる教会の多くでは、新改訳という翻訳を用いています。実は、教会聖句の応募用紙には、新改訳の言葉で詩編37編23節が書かれていました。新改訳の最新の版では、このように訳されています。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」この翻訳からは、「人の歩みというものは不確かなものです。人の歩みを確かにしてくださるのは神です。」というニュアンスが聞こえてきます。
人の歩みが不確かなものというのは、そのとおりではないでしょうか。そのことを今日の詩編37編の少し後にある詩編73編が語っています。
「神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」同じ一歩一歩という言葉が使われています。なぜ足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになったかというと、その理由が3節に書かれています。「神に逆らう者の安泰を見て、わたしは驕る者をうらやんだ。」
4節以下に神に逆らう者の姿が描かれています。裕福、苦労知らず、傲慢、不法の衣を着ている、人を侮り、高慢で暴力で支配しようとする。神より自分の方が上だと言ってはばからず、富を蓄えている。そのような者にあこがれ、そのような者になりたいと思ったのです。しかし、そのことが大きな誤りだった。そのような者になることは、人生の道で足を滑らせること、一歩一歩を踏み外すことだったと言っています。73編の1節に戻ります。「神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。」イスラエルとは、ここでは国や民族ではなく、神を信じる者を象徴した言葉です。神は信じる者に豊かな恵みをくださる」のです。それなのに、そのことを忘れ、神に逆らう者のようになりたい、不法を働いても豊かになりたい、と思ってしまっていた自分に気付き、足を滑らし、一歩一歩を踏み外すところだったと自分を振り返っているのです。

今日の礼拝には、今年成人となる方が多く出席されています。皆さんは今、人生の節目に立っています。成人するということは、社会に対して責任を負う者になるということです。責任を負うということは、社会が必要とすることは、しなければならない、互いに他人のために働くということです。初めての経験もたくさんしなければなりません。初めてのことをすることは、とても不安なことです。しかし、その一歩を踏み出さないとならない。そのような場面に何度も出会うことでしょう。その一歩を神が定めてくださる、神が確かにしてくださる、そのことを信じていただきたいのです。

わたしは、学生を少々長くやらせていただいて、26歳で就職しました。30歳の時、コンテナ船からコンテナを積み下ろしするための大型レーンを設置する工事の責任者としてサウジアラビアの港湾建設現場に送り込まれましたまだ会社での経験もあまりありません。経験のない初めての仕事、行くところは知らない土地、日本人は私一人で周囲の人はすべて外国人。すべてのことを一人で判断しなければならず、恐ろしく、心細い思いをしました。現場につくと、日本から送り出したコンテナクレーンを積んだ船が岸壁にいます。これを陸上に荷揚げしなければなりません。数百トンの荷物を吊り上げられるクレーン船がやってきました。ところが、風が出てきて、だんだん強くなってきたのです。このような作業に強風は危険です。この後風が強くなるのか、収まるのか、わかりません。作業を中止すれば、スケジュールが遅れます。天気予報を見ておけば予測が建てられますが、近隣数百キロ以内に町もないようなアラビアの現場では、日本のようなわけにはいきません。クレーン船の船長なら判断するだろうと思い尋ねると、責任者はお前だからお前が決めろというのです。判断材料がない、相談する人もいない、迷い、悩み、苦しみました。そうしているうちに風が強くなってきたので、その日の荷揚げ作業は中止にしました。
このようなことが何度かありました。つらい思いをしました。よく乗り切ったと思いました。しかし、このような経験を積み重ねていくうちに、恐れは消え、仕事にゆとりもでき、次はこうしたらよいのではないかなどと未来への希望も出るようになりました。仕事の面白さもわかるようになってきたのです。当時はよくわからなかったのですが、今思えば、神がわたしを支え導いていたのです。自分の力で乗り切ろうとしていた。自分だけで一歩一歩を進もうとしていた。だから悩み苦しんだのです。神が一歩一歩を確かにしてくださる、それはいかに力強いことでしょう。そのことを今日与えられた聖句、詩編37編23節は教えてくれているのではないでしょうか。人間は弱く小さなものですが、神がわたしの一歩一歩を定めておられる、神が道を備えてくださるのです。神がわたしたちの歩む道を確かにしてくださるのです。

この後、一人の方が洗礼を受けられます。洗礼は、神が定めてくださる道を歩むことを神に誓い、キリスト者の仲間の前で宣言することです。神に従って歩む人生は、自分一人で頑張る人生ではありません。神が共に歩んでくださる人生です。洗礼を受けた後の人生は新しい人生のように思えますが、決して新しいこと、初めてのことではありません。洗礼を受けても受けなくても、見かけ上の人生はあまり変わらないかもしれないのです。しかし、人生の見方、見え方が変わります。それは、人生の内面が変わるということができると思います。先ほどの詩編73編の言葉を借りるならば、神に従わない人生を歩んで裕福となり、安泰な人をうらやむ人生から、そのような人生をうらやむことがなくなり、苦労しても、貧しくても豊かな人生というものがあるのだ、ということに気付き、そのような人生に価値観を見出すことができるようになるのです。神に従って歩む人生、それは窮屈な人生になるのではなく、むしろ貪欲や傲慢といった人の罪から解放されて、自由な人生になるのです。なぜなら、神が自分たちの人生の一歩一歩を定め、確かなものにしてくださっていること、それを信じられるか、信じられないか、そこに人の生き方の大きな違いがあるからです。

どうか、この年が、神に導かれた一年となり、皆さんの人生が祝福された人生の一年となりますように。