2018年2月25日 悪霊とイエス
故郷で病気や障害で苦しむ人を癒していた主イエスを、律法学者たちは、この男は悪霊の力で悪霊を追い出していると非難しました。主イエスは非難をよい機会ととらえ、自分がどのような者であるかをたとえで語られたのです。
(説教本文)マルコによる福音書3章20~27節
福音書には、主イエスが悪霊を追い出されたと言う記述が結構ありますが、今日与えられた聖書箇所も主イエスが悪霊を追い出した話です。主イエスが悪霊を追い出した記述の多くは、悪霊を追い出していただいた者が中心となっています。例えば、同じマルコによる福音書の1章21節以下には、主イエスがカファルナウムで悪霊に(ここでは「汚れた霊」となっています)取りつかれていた男から悪霊を追い出したことが書かれていますし、5章1節以下でも悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出された話が書かれています。しかし、今日の聖書箇所では、悪霊を追い出したと直接は書かれていません。ただ、「イエスが家に帰られると、群衆が集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」と書かれています。
この話の舞台はガリラヤです。主イエスはガリラヤ地方を巡り歩いて、福音を宣べ伝えました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信心なさい。」 主イエスはまた、多くの病気や障害を癒されました。主イエスのことを聞いて、多くの人が神の国の話を聞こう、癒していただこうと主イエスの元に集まってきました。主イエスは弟子たちと共に群衆に応対しましたが、集まって来る群衆は多く、対応しきれないこともありました。主イエスも弟子たちも人間ですので、休息が必要でした。食事もしなければなりませんでした。主イエスと弟子たちは休息も食事の時も惜しんで福音を語り、癒しを行い、へとへとに疲れて、主イエスの家があるナザレ村に戻ってきたのです。ここでしばらく休息するつもりだったのでしょう。ところが、そこにも群衆たちがつぎつぎと押しかけてきました。恐らく、主イエスの家にまで押しかけて来た人たちの多くは、病気や障害に苦しんでいた人々でした。主イエスに癒していただこうとして、やっと主イエスの元にたどり着いたという人がほとんどだったのではないでしょうか。「みなさん、せっかく来ていただきましたが、わたしたちは疲れ切って家に戻ってきたのです。今は休息中ですから、癒しはできません。数日待ってから来てください。」と言いたいところだったでしょう。しかし、主イエスは、休むどころが食事の時すら惜しんで押し寄せる人々を癒したのです。
するとどうしたことでしょうか、身内の人々が主イエスのところに押しかけて来て、主イエスを取り押さえたというのです。彼らがどのように言ったのかは聖書にかかれていませんが、想像するに「何をしているのだ。バカなことをしないで、おとなしくしていなさい。」とでも言ったのではないでしょうか。なぜ身内の人々は、病気や障害で苦しむ人を癒しておられた主イエスを取り押さえたのでしょうか。主イエスの働き過ぎを心配してのことではなさそうです。 身内の人々が主イエスを取り押さえに来たのは、「あの男は気が変になっている」という噂を聞いたからでした。一体だれが主イエスのことを「気が変になっている」と言ったのでしょうか。マルコによる福音書には書いてありませんが、マタイによる福音書によると、噂を流したのはファリサイ派の人々でした。主イエスに反感を持っていた人々、ファリサイ派や律法学者たちは、エルサレムからガリラヤに人を送って主イエスの言動を監視させ、主イエスが語ることを止めさせ、行いを邪魔しようとしていたのです。彼らの流した噂を聞いた身内の人々は、その言葉を真に受けてしまい、主イエスの行いの意味を理解しないまま、主イエスの行いを止めにかかったのです。自分たちは主イエスの身内であるが、主イエスの言葉や行いに賛同していると思われないように、自分たちの立場を守るために主イエスを取り押さえたのでしょう。
身内の者たちが主イエスを取り押さえたことを見た律法学者は、これは良い機会だとばかりに言いました。「そのとおりだ。あの男は気が変になっている。悪霊の頭であるベルゼブルに取りつかれているからだ。あの男悪霊の頭であるベルゼブルの力を使って病気や障害を癒しているのだ。」律法学者たちにとって身内の者たちが主イエスを取り押さえに来たのは、主イエスを非難する良い口実になったのです。また、身内の者たちにとっては、律法学者たちが自分たちの行いを支持してくれたことに満足したでしょう。ガリラヤに住んでいる身分の低い身内の者たちと、エルサレムに住んでいて社会的地位の高い律法学者たちの間には大きな隔たりがありましたが、主イエスが悪霊の力を使っているとする点で、彼らは一致したのです。
主イエスは、彼らを無視することもできたでしょう。くだらない噂に左右される身内の者たちや、いつも自分の行動を監視している律法学者などほっておけばよいのです。しかし、主イエスはあえて反論を試みました。主イエスが反論した動機は、自分の立場や面子を守るためではありませんでした。重要なメッセージを彼らに伝えるために、あえて反論したのです。
主イエスは、たとえを用いて反論しました。まず、病気や障害を癒しているのは、悪霊の頭であるベルゼブルの力によってだ、と言うことに対しての反論です。当時のユダヤでは、病気や障害は悪霊の仕業と考えられていました。病気や障害を癒すということは、すなわち悪霊を追い出すことでした。主イエスはベルゼブルをサタンと言い換えて、サタンはサタンを追い出すことはできない。なぜならサタンがサタンを追い出そうとすれば、サタン同士の争い、内輪もめになるからだ。国の中で争いが起これば内戦となり、国は亡びるだろう。家の中で内輪もめをすれば、家庭は崩壊するだろう。だからサタンは自分の支配を終わりにするようなことはしない。サタンはサタンを、すなわち悪霊であるベルゼブルが悪霊を追い出すことは出来ない、と言われたのです。
いかがでしょうか。なんだかわかったようでわからない気もしますが、今一つわからない気がしませんか。それはひとまず置いて、先に進みましょう。
主イエスは、もう一つのたとえを話されました。強盗が家に押し入って家財道具を奪おうとするとき、どのようにするだろうか。まず、その家にいる強い人を縛り上げ、それから家財道具を奪うのではないか。
この2番目のたとえ話、いったい何を言おうとしているのかお分かりになるでしょうか。わたしには、さっぱりわかりませんでした。思えば、ここのところを何回も読んでいたはずなのに、わからないまま放ってありました。正直にいえば、最初のたとえもよく理解できないままでいましした。
もう一度整理してみると、主イエスが病気や障害の人を癒していました。そこに身内の者が来て、気が変になっているからということで主イエスを取り押さえました。ここぞとばかり、律法学者は主イエスは悪霊の頭のベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言いました。主イエスは、悪霊が悪霊を追い出すことはできない。また、強盗に入るときは、まずその家にいる強い者を縛り上げてから家財を奪うといいました。
この聖書の記述は、なにをわたしたちに伝えようとしているのでしょうか。
マルコによる福音書は、福音書の中で最も古いと言われています。他の福音書は、かなりマルコによる福音書を参考にして、独自の資料を加えて書いたと言われています。今日の聖書箇所の記述の場合、マルコによる福音書は、群衆が集まって来たと書くだけで、病気や障害を癒したことを直接は書いていません。同じ出来事をマタイによる福音書では、耳と口に障害を持つ人が癒され、人々が驚いたと書いており、またルカによる福音書では、口に障害を持つ人が癒され、やはり人々が驚いたと書いています。癒しのことを書いたその後は、ほとんどマルコによる福音書の記述と同じで、悪霊が悪霊を追い出すことができないこと、強盗に入るときはまず強い者を縛ることを書いています。
3つの福音書に共通したことは、この出来事を奇跡物語として書こうとしていないことです。起こった出来事は奇跡的なことなのですが、起こったことだけに目を奪われてしまうと、奇跡の持つ本当の意味を見失いかねません。奇跡は人々を驚かせて、神を信じさせようと言うのではありません。奇跡は、主イエスがどのような方であり、何をされようとしているかを伝える手段として、神が主イエスに与えた力なのです。3つの福音書は、奇跡をあまり強調せずに、その後の主イエスの話に集中できるようにしているのです。
では、主イエスのたとえ話は、なにを伝えようしているのでしょうか。
まず、主イエスは、身内の者が思っていたり、律法学者たちが言うように、主イエスが悪霊の力で悪霊を追い出しているのではない。悪霊に悪霊を追い出すことはできない。悪霊を追い出すことができるのは、ただ神の霊、聖霊だということです。主イエスは、神の聖霊の力によって悪霊を追い出している、そうして病や障害を癒しているのだと言うことを、群衆にも、身内の者にも、律法学者たちにも教えようとしたのです。
次に、強盗が家にいる強い者をまず縛るように、わたしはサタンの家に入り、一番強いサタンを縛り上げた。これからは、サタンの力が働くことはない。サタンの支配は滅び、神の国、神の支配が来ている。わたしは、この世が神の支配の国となるようにと、神から遣わされてきたのである。主イエスは、そのことをこのたとえ話で人々に伝えようとしたのです。
主イエスがこの世にお出で下さった目的は、悪霊、サタンの支配する世から神の意志が支配する国になるためです。そのために主イエスは寝ることも食することも忘れるほどに働かれたのです。しかし、人々は、主イエスの真の姿を見ず、嘲しり、鞭で打ち、十字架に掛けて、人間として極限の苦しみを味わわせたのです。しかし、これらはすべて私たちのため、わたしたちを罪から解放し、神の国へとみちびくためだったのです。
受難節です。主イエスのなさったこと、お話になったことを覚え、さらに主イエスの苦しみを覚え、わたしたちから悪霊を追い出し、悪霊を縛り上げ、神の国を実現してくださる主イエス・キリストに感謝の心をもって受難節を過ごしましょう。