2018年2月4日 主は生きておられる
(要約)年をとった夫婦に子どもが与えられ、幸せな日々を過ごしていました。ある日、その子が突然死んでしまいました。母親はすぐに預言者エリシャを訪ね、「主は生きておられる」と言いったのです。
(説教本文) 列王記下4章8~37節
2001年、わたしは神に召されて牧会者、伝道者になる道を歩み始めました。その準備として、神学校に入学しました。52歳になっていましたが、学生になって勉強するということに、大きな喜びを感じていました。神学校1年生の学びは、全てが新鮮でした。キリスト者の家庭に生まれ、52年間も礼拝に出席し、聖書研究会などの学びの場にもずいぶんと出席してきました。しかし、神学校で教えれらることは、新鮮なことであると同時に驚きの連続でした。え?なぜ?と、知っていたことが覆されることも多くあり、意外なことの連続でした。旧約神学の授業では、イスラエルの歴史が書かれているヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の4つの書は預言者の書と分類すると教えれらました。なぜ歴史書と呼ばずに、預言者の書と呼ぶのか、疑問でした。
やがてその理由がわかりました。これらイスラエルの歴史を書いた書は、実際の歴史の中で、士師たちや王たちがどのようなことをしたかという出来事が書かれていますが、実は歴史の中心は王ではなく、預言者なのです。たしかにこの世的な視点からすると列王記に書かれていることは、王宮の中での権力争い、外国との戦い、クーデターなど、王たちを中心にした政治史として読むことができます。歴史書としてはなかなかスリルに富んだ面白いものです。しかし、この読み方はこの世的な読み方です。それでは「聖書」を読んだことにはならないのです。なぜなら聖書は事実としての歴史を書くことが目的ではなく、神と人間のかかわりあいを描き出しているからです。イスラエルとユダヤという現実の王国の歴史の中で、神がどのように人間に関わって来られたのかを描き出しているのが、サムエル記や列王記なのですあり、神は預言者を通して歴史にかかわって来られたのです。それゆえ、列王記は、歴史書と呼ぶのではなく、「預言者の書」と呼ぶ、これは極めて信仰的な呼び方なのです。神学校1年生のわたしは、信仰的に列王記を読むのではなく、この世的な興味深い歴史物語として読んでいたのです。
今日の聖書箇所は、列王記に書かれたエリシャという預言者の物語ですが、その前に、エリシャの先生であったエリヤのことを少しお話ししておきましょう。エリヤは旧約の預言者の中で最も偉大な預言者の一人として尊敬されており、いつの日か戻って来ると信じられていました。新約聖書にもエリヤのことが書かれています。ある日主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて山に登りました。するとそこにエリヤとモーセが現れて、主イエスと語り合ったので、弟子たちは大変に驚き、またエリヤとモーセに会えたことで感動したというのです。(マタイ17:1-13) また、主イエスが十字架の上で最後に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声を出されたとき、人々は主イエスがエリヤを呼んでいると思ったのです。(マタイ27:47) このようにエリヤは、後々の時代にも偉大な預言者として尊敬される預言者でした。
神のために命を張って働いていたエリヤを助けるため、神はエリシャをお選びになりました。ふたりがベテルに来た時、エリヤは神が自分を召されようとされていることを知り、エリシャに言いました。「エリシャよ、主はわたしをエリコにお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい。」しかしエリシャは言いました。「主は生きておられます。わたしはあなたを離れません。」さらに進んでふたりがエリコに近づくとエリヤは再びエリシャにとどまるように言いましたが、エリシャは「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。」と言ったので、ふたりはエリコに向かいました。すると突然炎の馬と炎の戦車が現れ、エリヤは嵐の中を天に上って行ったのです。エリシャは大声でエリヤを呼びましたが、エリヤは戻って来ませんでした。このようにして、エリシャは劇的にエリヤを失い、ひとりで預言者として働くことになったのです。
預言者となったエリシャに神は大いなる力、奇跡を起こす力をお与えになりました。
イスラエルの比較的北方にシュネムという町があり、そこに裕福な婦人が住んでいました。エリシャがシュネムに行く度に、彼女は歓待してくれました。イスラエルには見知らぬ人でも旅人をもてなす習慣があったので、彼女のすることは珍しいことではなかったのかもしれませんが、彼女は大変に信仰の篤い人で、エリシャが預言者であることがわかると、夫に相談して、エリシャ専用の部屋を用意してくれたのです。預言者のためにここまで気を配ってくれる人は、そうはいなかったので、エリシャは大いに感謝し、なにかお礼をしたいと思いましたが、彼女は自分は何の不自由もないので、何もいらないと固辞するのです。エリシャが従者のゲハジに相談すると、ゲハジは「彼女にはこどもがいません。夫も年を取っています。」と教えてくれたのです。そこでエリシャは彼女に「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている。」と、子どもが与えられることを予告したのです。しかし、彼女は、わたしを欺かないで欲しいと言ったのです。無理もないことです。常識的に考えれば、彼女に子どもができるはずがありません。こどもが与えられるなどと言って一時的にわたしを喜ばし、しかし、そのようなことが実際に起こらなければ、エリシャ様、あなたは私を欺くことになるのですよ。どうかそのようなことをなさらないで下さい。彼女は、エリシャのことを思って「欺かないでください」と言ったのでしょう。しかし、翌年、彼女に男の子が生まれました。その時の彼女の気持ちは聖書に書かれていませんが、驚きと喜びの内に子どもを産んだことは想像に難くないでしょう。彼女は信仰の篤い人でしたから、あの方は力ある神の人だった、疑うべきではなかったとも思ったのではないでしょうか。そして、幸せな日々が過ぎて行ったことでしょう。ところがある日、男の子は急に激しい頭痛に襲われ、母親の膝の上で死んでしまったのです。両親は驚きましたが、彼女はエリシャのために用意した部屋のベットに子どもを寝かせ、すぐにロバに乗ってエリシャのところに向かったのです。彼女はカルメル山にいたエリシャに会うと、エリシャの足にすがりついて泣き、エリシャに言いました。わたしは、何もいらないといったのに、あなたが神にお頼みになったので、こどもが生まれたのです。いっときわたしたちを喜ばせてくださいましたが、このようなことになって、やはりあなたは私が言った通り、わたしを欺くことになったではありませんか。 この彼女の悲痛な言葉をエリシャはどのように受け止めたのでしょうか。できるはずがないこどもを与えるという勝手なことをしてくれた挙句が、このような悲しみなのですかとエリシャに恨みごとを言っているようにも聞こえます。この悲しみはあなたが原因を作ったのだから、あなたが責任をとってなんとかしてください、そういっているようにも聞こえます。エリシャはすぐに行動しました。従者のゲハジに自分の杖を持たせて、シュネムに行かせました。エリシャは従者のゲハジに命じました。「この杖を子どもの顔の上に置きなさい。」
エリシャは従者ゲハジをシュネムに送り出したものの、自身はカルメル山にとどまっていました。どうして、エリシャ様は動こうとなさらないのだろう。彼女はエリシャに向かって言いました。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしは決してあなたから離れません。」あなたが動かない限り、わたしもここから動きませんと言ったのです。この言葉がエリシャを動かしました。エリシャは、立ち上がり、シュネムに急ぎました。 シュネムに向かう途中、先に遣わしたゲハジが向こうからやって来ました。ゲハジはエリシャの命じた通り、エリシャの杖を子どもの顔の上に置いたが、こどもが息を吹き返すことはなかったとエリシャと母親に伝えました。
シュネムに到着するとエリシャは子どもを寝かしてある部屋に入り、戸を閉めて祈りました。それから自分の体を子どもの体に重ね合わせましたのです。すると何と、子どもの体が暖かくなりはじめました。エリシャは一休みして、もう一度ベッドに上がって子どもの上にかがみこむと、こどもはクシャン、クシャンと7回くしゃみをして、目を開いたのです。エリシャは婦人を呼び、子どもを渡しました。夫人はエリシャの足もとにかがめ、地にひれ伏して感謝し、子どもを連れて部屋を出て行ったのです。
この物語は、神から特別な力を与えられたエリシャの奇跡物語として読むことができます。それが最も自然な読み方でしょう。しかし、なぜと思うことがあります。なぜ、婦人が求めもしなかったのに、神はエリシャの求めによって、婦人に子どもを与えたのでしょう。またせっかく与えられた子どもなのに、なぜ神は取り去られたのでしょう。なぜエリシャは従者のゲハジを行かせ、自分は行こうとしなかったのでしょう。
子どものいない年老いた夫婦に子どもが与えられる話は、アブラハムとサラにイサクが与えられた話、エルカナとハンナにサムエルが与えらえた話、また新約聖書ではザカリアとエリサベトにヨハネが与えられた話などと共通しています。どの話でも、子どもが与えられるという神の言葉をまず否定しています。シュネムの婦人の物語は、特にイサクの誕生物語と共通していると思います。イサクの場合、年老いたアブラハムとサラに子が生まれると神の使いが伝えましたが、アブラハムは今更子を期待していないと言い、サラはあり得ないと笑って否定しました。しかし子どもは生まれました。彼らが感謝と喜びの中に日々を過ごしていると、神はイサクを捧げものとするように命じました。せっかく与えられたイサクを取りあげようというのです。しかし、アブラハムは素直に神の命令に従おうとしました。神はアブラハムの信仰を試されたのです。
シュネムの婦人も、あり得ない、欺かないで欲しいと断りましたが、子どもが与えられました。感謝と喜びの中で過ごしていたのに、子どもが取り去れたのです。アブラハムと同様に、喜びから悲しみに突き落とされたのです。しかし、婦人はあきらめませんでした。自らエリシャのところへ出かけ、すぐにシュネムに来て欲しいと懇願したのです。ところがエリシャはすぐにはシュネムに向かおうとしませんでした。なぜでしょう。エリシャがシュネムに向かったのは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしは決してあなたから離れません。」という婦人の言葉を聞いたからでした。この言葉は、エリヤが天に上げられる直前に、来るなというエリヤの言葉に対し、エリシャが言った言葉と全く同じ言葉でした。 「主は生きておられます。」神は、頭や心の中におられるのではない。わたしたちに働いてくださる。わたしは神の使いであるエリシャ様に神様の力が働くことを信じて疑いません。わたしは神から離れません。エリシャはこの言葉、神への確かな信仰を表した言葉が婦人の口から出るのを待っていたのです。
エリシャがっシュネムの子どもを生き返らせたことは奇跡です。しかし、奇跡は「主が生きておられる」という信仰のあるところに起こるのです。このことをわたしたちに教えることが、神が奇跡を起こされた目的ではないでしょうか。