2018年3月11日 復活 弟子たちの疑問

主イエスに連れられて高い山に登ったペトロ、アンデレ、ヨハネの3人は、エリヤとモーセが主イエスと語り合っているのを見て驚きました。何が起こったのでしょう。

(説教本文)マルコによる福音書9章2~10節
受難節の半ばが過ぎました。心静かに主イエスの受難を思いながら日々を過ごしたいところですが、現実はなかなかそいうも行きません。日本では受難節が年度末に重なり、子どもの受験や進学、職場の配属変更や転勤などで落ち着けないことが多いのが現実ですね。気候的にも春が近づくに連れ、冬の安定した気候から不安定な気候の時期を迎え、気温の変化が激しく、体が追いつかないということもあります。花粉症の方には厳しい季節です。このように、なかなか落ち着けない時期ではありますが、神が与えてくださったこの礼拝の時を感謝して、マルコによる福音書を通して語られる神の言葉にしっかりと耳を傾けましょう。

 今日の聖書の10節の後半に「死者の中から復活するとはどういうことか論じ合った。」と書かれています。「論じ合った」ということは、彼らの考えが同じではなかったということです。ひとりひとりが「復活」に対して異なったイメージを持ち、異なった理解をし、異なった考えを持っていたのです。なぜなら、誰一人復活を経験したことがなかったからです。しかし、わたしたちは主イエスが復活したことを知っています。聖書を通してすでに主イエスの復活に出会っているのです。では、わたしたちは主イエスが復活したとはどういうことなのか、わかっているでしょうか。今日、わたしたちも主イエスの弟子として、謙虚に主イエスの復活に出会う準備をしたいと思います。

 今日の話の舞台はガリラヤ地方です。今日の出来事の少し前、マルコによる福音書8章31節によると、主イエスが弟子たちにご自身の死と復活の話をされました。そのとき弟子のペトロは、主イエスを諫めました。わたしたちを不安にさせるような話をしないでくださいとでも言ったのでしょう。主イエスはご自身がこの世に遣わされた目的、ご自身の死と復活による救いの話をしたのに、弟子たちは主イエスが死ぬということしか耳に入らず、大切なことを聞き逃したのです。
 その6日後、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて、高い山に登りました。山頂に着くと主イエスの姿が変わり、服は真っ白に輝き、そこにエリヤとモーセが現れたのです。雲の中から神の声がしました。「これは私の愛する子。これに聞け。」

 この話はマタイ、マルコルカの3つの福音書に、ほぼ同じ文章で書かれています。主イエスとともに山に登った3人が主イエスの復活後、他の弟子たちに話し、さらにそれぞれの教会の中で語り続けたからでしょう。
 
 さて、この物語には、疑問に思うことがいくつもあります。
なぜ3人だけを連れて行ったのでしょうか。なぜペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人が選ばれたのでしょうか。
主イエスの姿が変わり、衣が真っ白に輝いた、またエリヤとモーセが現れて、主イエスと語り合ったというのは、事実としての出来事だったのでしょうか。
なぜ、ペトロは仮小屋を3つ建てると言ったのでしょうか。仮小屋を建てる意味は何なのでしょうか。
なぜ、主イエスは弟子たちに、今見たことを復活まではだれにも話してはならないと3人に命じられたのでしょうか。

どこから手を付けてよいか迷いますが、まず3人を選んだことから始めましょう。この3人はもう一度同じ顔触れで主イエスのお供をしています。それは主イエスが裏切られて逮捕される直前、ゲッセマネの園で祈られた時です。この3人は、特に主イエスから大切に思われていたのしょうか。今日の聖書の少しあと9章33節以下に、弟子たちがだれが一番偉いかと議論していところ、それを聞いた主イエスが「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい。」と言われたことが書かれています。このことと考え合わせると、主イエスが3人を選んだのは、彼らが優れた弟子だったから、主イエスが特に大切な弟子と思っていたからということではなさそうです。
わたしたち人間は、どうしても誰が一番か、他の人より上かという思いを持ちます。キリスト者であってもそこから解放されません。残念なことですが、牧師の中にも一番を、上位を好む人がいます。これは人間の弱さであり、罪です。主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を選んだのは、あえてそうしたことを伝えようとしたからではないかと思うのです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、他の弟子たちに比べて福音書ではよく名前が挙がり、弟子たちの中で中心的な働きをする重要な弟子と見られがちです。しかし、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい。」という教えをより理解させるために、あえてこの3人を選んだのだのではないかと思うのです。

ではなぜ3人なのでしょう。これには律法に定められた出来事の証人という意味があろうかと思います。ここで見たことが、作り話ではなく、確かなことだと伝えるために必要な3人の証人ということでしょう。

弟子たちが見ている前で、主イエスの姿が変わり、服が真っ白に輝いた。その白さは、どんなさらし職人の腕も及ばないほどの白さだったと3人は証言しています。この世ではありえない白さだったのです。主イエスが復活されたとき、墓に駆けつけた人々が出会ったのは、輝く白い衣を着た天使たちでした。コリントの信徒への手紙の中で、パウロは「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し」と言っています。主イエスの姿が変わり、衣がこの世にはあり得ないほど白く輝いたことは、主イエスの復活を示しているのです。

この出来事は弟子たちにとって大変な驚きでしたが、そこにエリヤとモーセが現れ、弟子たちはさらに驚いたのです。
エリヤは偉大な預言者としてイスラエルでは代々高く評価され、またいつか戻って来ると信じられていました。主イエスが息を引き取る直前に十字架の上から大きな声で叫ばれた時、人々の中には主イエスがエリヤを呼んでいるという者がいました。(マルコ15章35節) エリヤが主イエスを救いに来るかも知れないと思ったのです。それは、エリヤが生きたまま天に上げられたと聖書に書かれているからです。(列王記2章11節) 
モーセは、言うまでもなくイスラエルをエジプトから導き出した指導者として、また神と直接語ることができた預言者として尊敬されていました。
この偉大な2人が現れて主イエスと語り合っているのを見た3人の弟子たちは、あまりにも偉大な2人が現れたことに驚き、恐れたのです。亡霊かとも思ったかもしれません。あまりのことに言葉を失っていた3人でしたが、ペトロが口を開きました。「イエス様、わたしたちがエリヤ様、モーセ様とお会いできるなど、なんと素晴らしいことでしょう。あなたがたのためにひとつづつ仮小屋を建てましょう。」仮小屋はあまり聞きなれない言葉ですが、幕屋と同じ意味です。礼拝する場所です。ペトロは思わず、エリヤとモーセを礼拝しましょう、と言ってしまったのです。ペトロは驚きと恐れのあまりに自分が何を言っているのかよくわからなかったのです。
その時、雲が現れ、雲が彼らを覆いました。濃い霧がかかったのです。あたりがよく見えなくなった時、声がしました。「これは私の愛する子。これに聞け。」 モーセに会う時、神はいつも雲の中にお出ででした。いまも、神は雲の中から声をかけられたのです。
「これは私の愛する子。」そう、この言葉は主イエスが洗礼を受けたときにも天から聞こえた声でした。この時は、主イエスに向かって語られた神の声でした。しかし今、神の声は弟子たちに向かって語られました。「これは私の愛する子。これに聞け。」わたしの愛する子である主イエスに従えと神は弟子たちに命じられたのです。
声がどこから聞こえたのかと弟子たちが見まわすと、エリヤとモーセはいなくなり、主イエスだけが彼らと一緒にいました。

エリヤとモーセが現れ、神が雲の中から呼びかけられた。これは現実だったのでしょうか。それとも幻だったのでしょうか。この場に居合わせたペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、後にこの出来事を弟子たちに語りました。1人からだけではなく、3人から話を聞いた他の弟子たちは、この話を信じました。そして、この話は教会で語り継がれ、3つの福音書に記述されることになったのです。3人が出会った出来事が現実であったのか、幻であったのかは、どちらでもよいのではないでしょうか。どちらも真実なのです。現実は目で見ますが、真実は目に見えないことが多いのです。3人が見た幻は、十二分に真実なのです。大切なことは、彼らは、真実として何を見たのかということです。弟子たちが見たのは、復活です。主イエスの顔が変わり、衣がこの世では考えられない白さに輝いた。主イエスがエリヤとモーセと語り合っていた。彼らが見た者は、復活した主イエスの天上の世界、天の国での出来事だったのです。
「これは私の愛する子。これに聞け。」という声の後、地上にはエリヤもモーセもいないことを彼らは発見しました。それは、救い主はエリヤでもモーセでもなく、主イエスである、今も後も一緒にいてくださるのは主イエスであるということ、そのことを彼らは、この出来事によって知らされたのです。

最後に、なぜ主イエスは、今見たことをだれにも話してはならない。話すのは、自分が復活してからにしなさい、と言われたのでしょうか。それは、今は、復活がわからないだろう。他の弟子たちに話しても、正しく理解できないだろう。復活をこの世的に解釈してしまうかも知れない。だから今はあなたがた3人にだけ見せておく。今はただ、見たことを心に留めて置きなさい。わかるときが来る。それは、わたしが復活した時だ。その時になって、今見たことの意味が分かり、また今見たことが復活を受け入れる力になるだろうと言われたのです。

復活は知識では理解できません。科学的な説明も証明もできません。復活は信じることによってわたしたちの中で真実となるのです。これまでの歴史の中で、多くの人々が、復活を信じて救われてきました。これからも救われます。神は、聖書を通してわたしたちに復活した主イエスを見せてくださっています。主イエスの復活は、わたしたちが復活することの証しです。かつて生きていた人々も、今を生きているわたしたちも、未来に生きる人々も、復活を信じる者は復活します。復活を信じ、復活が救いをもたらす真実として受け止め、救われる者となりましょう。