2018年3月25日 目を覚ましていなさい
十字架に掛けられる前夜、主イエスは苦しみに悶えながら祈っておられました。弟子たちは寝てしまい、主イエスに「目を覚ましていなさい。」「心は燃えても肉体は弱い」と言われました。この言葉には深い意味がありました。
(説教本文)マルコによる福音書14章32~42節
先週の21日水曜日に青山学院ガウチャー記念礼拝堂でおこなわれた宗教改革500年を記念青年大会リフォユース500に参加しました。当日は朝から降っていた雨が雪に変わって3月下旬とは思えない寒い日でしたが、700人は入れる礼拝堂は一杯になり、熱気に溢れていました。南三鷹教会からは、山根亜紀子さん、川原正言さん、矢郷光則さん、板橋直樹さんのお顔が見えましたが、他にも参加された方はいたかもしれませんね?
午後1時少し過ぎたころ礼拝が始まりました。ガウチャー記念礼拝堂には立派なパイプオルガンがあります。わたしは青山学院大学の礼拝に説教者として招かれ、この礼拝堂で説教をしたことが何度かありますが、大学礼拝ではパイプオルガンによる前奏から礼拝を始めます。南三鷹教会でもそうですし、日本基督教団に属する多くの教会では、オルガンによる前奏から始めるのが標準的な礼拝です。しかし、リフォユース500の礼拝は大音響のロックミュージックと激しい動きのワーシップダンスで始まりました。ワーシップダンスというのは、体を使って神様を賛美するダンスのことです。続いてこの青年大会のために臨時結成されたメンバーが歌う100人ゴスペル賛美でした。どこからが礼拝なのかわからないまま、次に登場したのはギターを持った牧師とバンドでした。司会者に促されて立ち上がりましたが、讃美歌もプリントもありません。大画面に歌詞が映し出され、牧師のリードで歌うのです。耳をつんざく大音響の中で、大声で賛美しましたが、不思議と賛美する心になりました。賛美の後は3人の牧師による説教です。最初の説教者は、ロックバンド「牧師ロック」のリーダーでもあるルーテル教会の関野和寛牧師でした。「俺には特技がある。・・・ドタキャンだ。」という言葉で説教が始まりました。どっど笑いが起こりました。その後も笑わせ続けましたが、宗教改革について、なぜ宗教改革が起こったのか、宗教改革の意味、宗教改革は今も続いているという大切なメッセージを語ってくださいました。再びギター牧師とバンドのリードで賛美をし、2人目の説教者はカトリック教会の晴佐久神父でした。晴佐久神父も「わたしには特技がある。他人に影響されやすいことです。」と話を始めて会場を笑いに包みながら説教をされました。わたしは都合でここで会場を出ましたので、晴佐久神父の説教の後半と3人目の説教者である日本基督教団の小林克哉牧師の説教を聞くことはできませんでした。
この礼拝は、始まりから終わりまで、わたしたちの礼拝とは趣を異にした礼拝でした。リフォユース500は日本基督教団が中心となってキリスト教各派に呼び掛けた超教派の青年大会ですが、礼拝のスタイルは福音派のスタイルを取り入れ、バンド演奏などは福音派の協力を得ています。手嶋美奈子さんがタイ・スタディー・ツアーに参加されましたが、タイはバプテスト派の教会が多く、教会には電気ギターとアンプ、ドラムセットなどが置いてあり、バンド演奏で礼拝をする教会が主流です。
このようにわたしたちの礼拝と大きく異なる礼拝に参加することは、正直言って戸惑いがあります。これでも礼拝?と疑問に思う方もいるでしょう。しかし、会場にいる若者たちは大きな声で賛美し、こころを開いて熱心に説教に聞き入っていました。説教の途中で笑い、拍手、掛け声もありました。わたしは礼拝に参加しながら思いました。わたしたちが慣れ親しんでいる礼拝とはスタイルが違う。しかし、これほど多くの若者が礼拝をしている。こころも体も使って賛美し、嬉しそうに説教を聞いている。若者への伝道にはこのスタイルがもはや不可欠なのではないかとまじめに思い始めています。 ご心配なく、4月からこのスタイルで礼拝しようなどとは言いませんから。
500年前も多くの人が新し礼拝スタイルに戸惑いを覚えていました。宗教改革者のルターやカルバンが行ったことは、まず礼拝の改革でした。礼拝はラテン語で行われていました。聖書も、讃美も、祈りの言葉も全てラテン語でした。普通に人には何もわかりませんでした。ルターはだれにでも聖書の言葉が直接聞こえるようにと、禁止されていた聖書のドイツ語訳を行い、司祭だけが歌っていた賛美を礼拝参加者全員でで歌うようにしました。聖書は読むだけでなく、メッセージを語るようにしました。司祭だけが受けていた聖餐は礼拝参加者全員が受けるようにしました。この礼拝スタイルの変更は、伝統的な礼拝を守っていた人々には大きな衝撃を与えました。大きな反発もありました。しかし、大きな喜びに信徒たちは包まれ、与えられる消極的なキリスト信仰から、求め、喜ぶキリスト信仰へと大きく変わったのです。眠っていた人々の信仰の心を、宗教改革が目を覚ましてくれたのです。
宗教改革よりさらに1500年前、イエス・キリストはユダヤ教に大きな衝撃を与えました。安息日に病人を癒し、接触を禁じられていた重い皮膚病の人たちと接して癒されました。神殿や会堂ではなく、湖のほとりや丘で礼拝をしました。律法を押しつけられるだけで神の愛を知らなかった人々に、神の愛を語り、ひとりひとりが神から愛されていることを語りました。多くの人が眠っていた神への信仰に目を覚まし、主イエスを通して神につながっていることを実感し、働けど働けど苦しいことばかりの生活に生きる力を失っていた人々は生きる勇気を与えられ、神の愛を知った人々は慰められました。人々は主イエスの教えを新しい教えだと思いました。しかし主イエスが教えられたのは、決して新しいことではありませんでした。ただ、この世的な価値観や欲望によって覆い隠されて見えなくなっていた本来の神の姿を、覆いを取り除いて見せてくださったのです。そのことがユダヤ教の指導者である祭司や律法学者、既存の律法解釈を絶対化していたファリサイ派の人々などユダヤ教の体制の中で生きていたひとびとにとっては面白くないこと、あるいは不安材料でした。彼らの信仰は眠ったままになってしまいました。
今日の聖書箇所は、「目を覚ます」ということが大切なキーワードです。「目を覚ましていなさい。」「心は燃えていても、肉体は弱い。」神の言葉=説教を聞きながら寝てしまうことが結構あるわたしには、この聖書箇所はいつもチクチクと心に針が刺さるような思いで読む、ちょと辛い箇所でした。
今日は棕梠の主日と呼ばれる日です。主イエスが弟子たちと共に最後にエルサレムに来た日です。この日、主イエスを一目見よう、話を聞こう、病を癒していただこうと多くの人が待ち構えていました。人々はホサナ、ホサナ、わたしたちを救ってください、と叫びながらエルサレムに到着した主イエスを迎え入れました。そこは熱気に包まれていました。人々は大きな期待、熱い思いをもって主イエスをエルサレムに迎えました。
その日から主イエスは猛烈に働きました。商売のために神殿を利用していた人々を神殿から追い出しました。神の国はどのようなところか、神の国が来るときはどのようなことが起こるのか、神の国に入れていただくにはどうすればよいのか、自分は何のためにこの世に来たのか、自分がいなくなった後はどうなるのかなど、多くのことを語られました。主イエスの行いを見たり、主イエスの話を聞いた人々は、こころが躍りました。まもなく神の国が来る。しかし、彼らは、まさか主イエスが捕らえられ、十字架に掛けられて死ぬとは思っていませんでした。主イエスの話を聞いても、正しく理解していませんでした。思いたくなかったのかも知れません。ペトロは、どんなことがあっても主イエスを見捨てることは決してありません、と力強い言葉を口にしました。
過ぎ越しの食事を終えられると、主イエスは祈るためにオリーブ畑の中にあるゲッセマネに行きました。ここは、静かな場所で、主イエスは好んでゲッセマネで祈りました。主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて行きました。この3人はよく主イエスの祈りのお供をしたようです。先々週の聖書箇所マルコによる福音書9章2節以下でもこの3人を連れて山に登り、そこでエリヤ、モーセと語りました。
ゲッセマネの祈りの場所に着くと、主イエスは恐れに苦しめられ、3人の弟子たちに、自分は悲しさのあまり死にそうだ、どうかここを離れないで、といって祈り始められたのです。
主イエスは、神の子でありながら、地上においてはあくまで人間でした。生きるためには食べ、水を飲み、夜は寝る、また、嬉しい時には喜び、悲しい時には泣き、恐ろしさには震える人間でした。ひとりでは生きることができない普通の人間でした。今夜自分は捕らえられ、裁判にかけられ、鞭で打たれ、十字架に架かって死ぬ。そのために神から遣わされてきたことを理解していました。しかし、やはり心が騒ぐのです。だからといって弟子たちが何かできるわけではないこともよくご存知でした。何もしなくてもよいから、自分のそばにいて欲しい。できれば自分のために祈ってほしい、主イエスはそう思われたのです。しかし、主イエスと共に働いて来た弟子たちは相当に疲れていたのでしょう。主イエスが苦しみ悶えて祈っている間、寝てしまったのです。彼らは3度も主イエスに言われました。「目を覚ましていなさい。」「心は燃えても、肉体は弱い。」
弟子たちは、「目を覚ましていなさい」という主イエスの言葉にはしまったと思い、その意味を理解できたでしょうが、「心は燃えても、肉体は弱い」はすぐには理解できなっかったと思います。弟子たちがこの2つの言葉の本当の意味を理解したのは、主イエスが復活してからだと思います。
「目を覚ましていなさい。」寝ていた彼らを主イエスが起したという事実はあったのでしょうが、主イエスの言葉はそれ以上の意味を含んでいたことに彼らは後に気づいたのです。それは、神の国が来る。神の国の到来に備えて準備しなさい、目を閉じている場合ではない、と主イエスが言われたのだということでした。
「心は燃えても、肉体は弱い。」主イエスがエルサレムに到着した時、人々は熱狂的にホサナホサナと叫び、棕梠の枝葉を道に敷き、ある者は来ていたものを道に敷いて主イエスを喜び迎えました。弟子たちは、主イエスへの忠誠を誓いました。数日後、人々の声は「イエスを殺せ、十字架につけよ」に変わり、弟子たちは逃げてしまいました。人の心は燃えやすいが冷めるのも早い。人間の弱さを主イエスはよく知っておられたのです。神の国の到来に目を向けて準備をし、しっかりとした信仰にたってこの地上の世界を生きて行きなさい。わたしは必ず迎えに来る。このことを主イエスは弟子たちに伝えたのです。
3度目も弟子たちは寝ていました。主イエスは言われました。「時が来た、人の子は罪人たちの手に引き渡される。」そして立ち上がり、イスカリオテのユダに導かれて主イエスを捕らえに来た人々の方に向かったのです。父である神を信頼して、十字架へと向かわれたのです。