2018年3月4日 預言-神の言葉

イスラエルは預言者が神の言葉を人々に伝えることで政治を行っていました。イスラエルに起こったことは全て神の決めたことです。同様に、わたしたちの身の回りに起こることも全て神がお決めになることなのです。

(説教本文)イザヤ書48章1~8節
イスラエルの人々にとって、民族としての起源はアブラハムですが、国としての起源は出エジプトから40年後にたどり着いたカナンの地から始まったと考えているようです。出エジプトに際してモーセが争ったエジプトの王、ファラオは、ラメセス二世と考えらえていますから、紀元前1300年ほど前のことです。わたしは若い時に中東での仕事の帰りにエジプトに立ち寄り、ラメセス二世の墓に入ったことがあります。墓は深い地中にあり、かなり長いトンネルを下った先が玄室になっていて、石の棺が置かれていました。トンネルの途中には盗掘を防ぐための落とし穴や天井から石の仕切り板が落ちてくる仕掛けなどもあり、またトンネルの天井にも玄室の天井にも素晴らしい絵が描かれていました。これほどの墓を作ったラメセス二世の力は非常に大きなものであり、その王とモーセは戦ったのですから、いかにエジプトを出るということが大変なことだったかがわかります。しかしモーセは、カナンの地を目の前にして、カナンの地に足を踏み入れることなく、神の元に帰りました。モーセの役割はここで終了する。それが神のご計画でした。

モーセの後をついでイスラエルを導いたのはヨシュアでした。ヨシュアに導かれたイスラエルは、部族ごとにカナンの地に住むようになりましたが、互いに独立した緩やかな部族連合体で、部族同士の争いもあり、ひとつの国としてまとまっていたのではありませんでした。彼らをつないでいたことはただひとつ、ヤハウェの神を信じていることでした。彼らは、自分たちを導くのは族長ではなく、神であることを信じていました。すなわちイスラエル諸部族の政治とは、神がお命じになることを行うことでした。神の声を聞く役割をしたのが預言者でした。預言者は、神の声を聞き取り、族長や、時には人々全員に伝えたのです。人間の知識や思いではなく、預言者を通して聞こえた神の言葉に従う、これがイスラエル諸部族の政治の形でした。

神による政治が崩れ始めたのは、イスラエルが王政に移行してからです。王に導かれた強い軍隊によって国を強くする、その軍隊に守られて国は豊かになろうとしたのです。強い軍事力に守られて国を豊かにしようとする考えは、いつの時代にもあり、多くの国がこの考えで政治を行いました。江戸幕府の鎖国政策によって世界の強国から後れを取っていることに気づいた明治政府は、富国強兵政策をとり、強力な軍を組織しました。しかし、強力になり過ぎた軍が日本を破滅させることになりました。軍事力が強すぎて、自分で爆発してしまったのです。今、世界の国々を見ると、同じ過ちを犯している国がたくさんあります。太平洋の向こう側の国も、日本海の向こう側の国も同様の過ちを犯していることに気づいていないようです。このようなとき、警告をする仕組みが必要です。民主国家が大切にしている言論の自由は、国の過ちに対して警告をする大切な仕組みです。しかし、日本海の向こう側の国でも、その隣の大きな国でも、軍事力の強化に走り、それを警告する言論を統制しています。太平洋の向こう側の国でも、現在の政権は、言論を毛嫌いしています。とても危険なことだと思います。苦い経験をした日本は、このような状態に危険を感じ、もっと積極的に声を挙げる必要があるのではないかと思います。

神による政治が崩れたイスラエルで警告を発する役割をしたのは、預言者です。王政になる前は、預言者が神の言葉を聞いて政治をリードしていましたが、王政になった後は、人間である王が政治をリードするようになりました。本来イスラエルの王たちは、預言者から油を注がれた者、すなわち神から指導者として任命された者でしたが、人間的欲望によって道を誤るものが続出したのです。そのことは、列王記にいやというほど書かれています。誤りを犯したのは王たちだけではありませんでした。民の中にも誤った思いを持つ者がたくさんいて、道を誤った王たちを支持しました。イスラエルの犯した過ちの主な原因は人間的欲望です。人間的欲望が、イスラエルの人々のこころを神から遠ざけ、偶像を創り出しました。神の思いを現実の世界で実現するイスラエルから、偶像を作り出して自分たちの思いを実現させるイスラエルへと変わってしまったのです。このことがいかに神を悲しませたのか、イスラエルの王も民も知ることは出来ませんでした。欲望によって本当の神を見る目が覆われ、神の声を聞く耳が塞がれてしまっていたからです。

神は預言者を立ててイスラエルに警告を発しました。これではいけない。あなたがたは滅びてしまう。わたしは、あなた方を愛し、育て、導いて来た。あなた方が滅びることは、わたしの悲しみである。わたしを悲しませないで欲しい。神はイスラエルに何度も呼びかけました。しかし、イスラエルの多くは、神の声を聞こうとしなかったのです。

このようなイスラエルに対し、神は重大な決断をされました。アッシリア、バビロニアによってイスラエル、ユダヤを滅ぼされたのです。紀元前722年、北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされました。南のユダ王国はアッシリアの属国となってしばらく存続していましたが、アッシリアから独立し、急速に勢力を拡大した新バビロニアによって、紀元前587年にエルサレムが陥落し、主だった人々がバビロニアの首都バビロンに連れて行かれるということになったのです。その後、エルサレムは徹底的にバビロニアに破壊されました。バビロニアに連れて行かれた人々も、ユダヤに残った人々にとっても、衝撃的な出来事でした。彼らは深い悲しみの中に日々を送ることになったのです。

 人々は思いました。なぜこのような苦しみを味わわされなければならないのか。神はなぜ私たちをお助けにならないのか。神は預言者に言葉を与えました。アッシリアやバビロニアをイスラエル、ユダヤに遣わしたのはこのわたしだ。わたしが彼らをしてイスラエルとユダを滅ぼさせたのだ。この神の言葉は人々に大きな衝撃を与えました。神はわたしたちをお守りなさらないのか! やがて人々は、預言者の言葉に促されて過去を振り返り、自分たちの過ちを見出しました。自分たちが欲望にとらわれて、神を見失い、神から離れて行ったことを見出したのです。大きな発見でした。彼らはそのことを悔い、心を改めて神に従う民になることを誓いました。そのために、毎週聖日には集会所=シナゴーグに集まり、神を礼拝し、預言者から律法に書かれた神との約束を確認し、預言者を通して与えられる神の言葉を聞き、心に留めたのです。彼らは、神に従順な日々を過ごすことによって神の怒りが収まり、ユダヤに帰る日が来ることを楽しみにしながら、異国の地での生活に耐えたのです。

年月が過ぎて行きました。いつバビロン捕囚が終わりを迎え、故国ユダヤに帰る日が来るのか。人々はその日が来るのを心待ちにしていました。しかし、何年待ってもその日は来ません。彼らの心に疑念が芽生え始めました。いつまでわたしたちは待たなくてはならないのか。神は本当に力を発揮して、わたしたちをこの国から去らせてくれるのか。さらに、バビロンでそれなりの生活をするようになり、財産を築いた人々の心は、神から離れて行きました。異国の地で互いにいたわり合いながら暮らしていた時代は過ぎ去り、捕囚になっているユダヤ人社会の中に貧富の差が現れ、強い者が潤い、弱い者が苦しむ社会になってきました。そして、わたしたちの神は何もしてくれない!と、彼らの中からバビロニアの神々を礼拝する者が現れたのです。より豊かな生活を実現してくれることを期待して、彼らはバビロニアの神を拝んだのです。そこには、異国の地でより豊かに暮らすための方便として、その国の人々の信仰に合わせるという、したたかな心もあったに違いありません。、今、聖書研究会読んでいるダニエル書は、バビロンに連行されたユダヤ人の青年たちが、バビロニアの神を信ぜよ、さもなくば死刑だという圧力に屈せずに信仰を守り抜いた物語です。バビロンにおける信仰の危機がいかに重大なことであったことが、ダニエル書からもうかがえます。

今日の聖書、イザヤ書48章は、バビロン捕囚の中で預言活動を行った第二イザヤと呼ばれる預言者を通して語られた神の言葉です。

1節~2節
あなたがたは、神の民、イスラエルの民ではないのか。わたしを礼拝し、わたしに祈るが、わたしに対する誠意はどこに行ったのか。貧しい人や弱い人に心を配ることもなく、わたしが求める恵みの業や正義の業はどこにあるのか。神から心が離れている人々に、厳しい呼びかけをしています。
3節~6節前半
 おまえたちのこころは頑で、わたしの言葉に耳を傾けない。お前たちはバビロニアの偶像を礼拝し、願いを唱えているが、お前たちの願いが叶うのは、偶像の力によるのではない。わたしは、バビロン捕囚が起こる前からあなたがたに警告し、わたしの言葉に従う民になるように求めてきた。わたしの言葉は、今初めて語られるのではない。預言者たちの言葉を聞き、彼らがしたことを見れば、本当のことがわかるであろう。事を起こすのは偶像ではない、ほかならぬこのわたしだ。
 人間が作り出した偶像が願いをかなえてくれると思い込んでいるイスラエルの人々に、これまで預言者に語らせた言葉を思いおこさせ、まことの神が誰であるかを知らせています。
6節後半~8節
過去の預言者の言葉が実現したことを教えた神は、次にこれから起こることを伝えます。それは、ペルシャがバビロニアを滅ぼし、バビロン捕囚を終わらせる日が近いことです。それは、お前たちが後で、きっとそうなると思っていた、と言わせないようにするため、と神は言われるのです。事が起こった後からは何とでも説明をつけることができます。ペルシャによる解放は、ペルシャ王の好意である、好意を呼んだのは自分たちであると言いかねない状況だったのです。しかし、ペルシャによるバビロン捕囚の終わりは、わたしの計画であるということを人々に知らせるために、神はあえて今伝えておく、と言われるのです。

わたしたちは、重大なことが起こるとその原因を探る癖があります。自分のことでもそうですが、他人のことでも原因を探りたくなります。病気になれば、何が悪かったのかしら、といろいろ原因を詮索します。あることに成功すれば、成功に導いたのはなんだろうかと理由を探ります。事実か否かはどうでもよくて、原因や理由を考えて、納得したいのです。しかし、今日の聖書から神の言葉を聞いたわたしたちは、それがいかに無駄なこと、誤ったことであるかをもはや知っています。全ては神がお決めになることなのです。良いことも悪いことも全ては神がお決めになることなのです。そこに人間的な理由を見つけることにはあまり意味がありません。わたしたちにとって良いことにも悪いことにも、すべて神がなさることには意味があるのです。将来のことについても同様です。神がお決めになるのです。預言者はそのことをわたしたちに伝える神の言葉の伝達者なのです。