2018年4月1日 わたしは主を見ました

日曜日の朝早く、主イエスを葬った墓に行ったマリアは、墓の中に主イエスを見つけることができませんでした。主イエスはどこにいるのか。死者の世界である墓の中に主イエスはいません。主イエスは永遠の命の世界にいるのです。

(説教本文) イザヤ書42章10-16節 ヨハネによる福音書20章1-18節
今日わたしたちに与えられた聖書の言葉イザヤ書42章は、バビロン捕囚の後半期に第二イザヤと呼ばれている預言者によって語られた神の言葉です。ユダヤの人々がバビロンに連れてこられてから数十年が経っていましたが、人々は、いつ捕囚から解放されるのか、いつ故国ユダヤに帰ることができるのか、との思いを抱き、解放されることを神に祈りながらバビロンでの生活に耐えていました。しかし、何年たっても捕囚状態は続きました。「神よ、なぜあなたは黙っておられるのですか? なぜわたしたちに関わろうとなさらないのですか?」 しかし、人々の祈りに神はこたえてくださいませんでした。ユダヤの人々の中には神を疑う者が出始め、あきらめる者が出始めました。彼らは神に問いました。「あなたはわたしたちをお見捨てになったのですか?」

そのころ、預言者第二イザヤを通して神の言葉がバビロンの捕囚の民の上に響き渡りました。「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、激しく息を吸い、また息を吐く。」経験のある方も多いでしょう。出産の多くは激しい苦しみを伴います。苦しみの声を上げます。しかし、その苦しみは絶望の苦しみではありません。新しい命をこの世に生み出す希望の苦しみです。苦しみの先には大きな喜びがあります。同様に、これから起こる希望の世界を神はユダヤの人々に示してくださいました。わたしはあなた方を導き出す。目が見えない人でも歩けるようにわたしは導く。あなたがたの知らない道でも行けるようにあなたがたを導く。あなた方の行く手は暗い闇ではなく、明るい光に満ちている。曲がっている道、でこぼこの道があれば、それをまっすぐに、平らにする。わたしは約束を必ず実現させる。あなた方を見捨てることはない!
力強いなんと神の言葉でしょう。わたしはお前たちを見捨てない。お前たちの救いのために事を起こす、と言われるのです。長期にわたるバビロン捕囚で意気消沈していたユダヤの人々の心に希望が戻ってきました。

やがてバビロニアがペルシャに滅ぼされ、バビロン捕囚に終わりの時が来ました。神の約束は実現しました。人々は喜びにあふれ、エルサレムの神殿を再建して、神に感謝の礼拝をささげました。

ところが、「初心忘るべからず」です。人の心は移ろいやすいのです。バビロン捕囚から解放されたときの喜び、感謝の心は、時が経つに連れてユダヤの人々から薄れていきました。しかし、人が神との約束を忘れても、神が人との約束を忘れることはありません。人を愛し、人が滅びの道を歩まないようにと救いの手を差し伸べ続けられた神は、大きな決断をされました。人の救いのために神が地上に降ることでした。神の子を、人の子イエスとして地上に生まれさせ、苦しませ、十字架におかけになったのです。これは驚くべき出来事です。これだけでも大変なことです。しかし、人々は主イエスの死に大きな衝撃を受けたものの、その意味を理解することはできませんでした。主イエスの死が自分たちの救いのためとは、だれも思いませんでした。ただ、偉大な先生を失った衝撃と悲しみに打ちひしがれていました。
神の子が十字架で死ぬということはあり得ない驚くべきことでしたが、さらに神は驚くべきことをされました。神は十字架に掛けた主イエスを復活させられたのです。

主イエスが十字架の刑に処せられたのは金曜日でした。金曜日の朝、主イエスは思い十字架を担がされ、処刑場のゴルゴダの丘に向かいました。ゴルゴダの丘に着くと、主イエスは十字架に縛り付けられ、手足を釘で打ち付けられ、それから十字架が立てられました。強い日差しの中で苦しみの時がゆっくりと過ぎ、午後3時ごろに息を引き取られました。

日没になると日付が変わり、土曜日、すなわち安息日になります。安息日には遺体を十字架から降ろすという仕事ができなくなります。ユダヤ人たちは聖なる安息日に遺体を十字架に残しておきたくありませんでした。処刑に立ち会った主イエスの女性の弟子たちも、早くイエス様を十字架から降ろして差し上げたいと思いました。どうしたものかと思っていると、アリマタヤ出身の議員であるヨセフがピラトに遺体の引き取りを申し出て、許可を得ました。遺体を十字架から降ろし、亜麻布で遺体を包み、香料をかけ、墓に運びました。遺体が墓に納められると、墓の入り口は重い石で塞がれました。女性の弟子たちは、主イエスの遺体が墓に納められたことを見届けると、家路につきました。夜になり、エルサレムの城門は閉じられました。

朝になってもまだ土曜日・安息日でしたので、だれも墓参りに行くことはできませんでした。女性の弟子は、主イエスのために香料を準備して、安息日が明けるのを待ちました。土曜日の夕方になり、日没とともに安息日が終わり、日曜日になりました。しかし、夜の間はエルサレムの城門が閉じられ、墓に行くことはできませんでした。

日曜日の朝早く、空がやっと白んできたころ、女性の弟子たちは香料を持って家を出ました。ヨハネによる福音書では、マグダラのマリア一人だけの名前が出ていますが、他の福音書では、主イエスの母のマリアなど数名だったと記しています。夜明けとともに城門が開くと、マリアは墓に急ぎました。主イエスの遺体に香料をかけるためには、だれか力の強い人たちに墓の入り口を塞いでいる石を取り除けてもらわなくてはなりません。だれかいるだろうかと思いながら墓についてみると、なんと入り口を塞いであった石はすでに取りのけられているではありませんか。不思議に思いながらも墓の中を覗くと、納められているはずの主イエスの遺体が見当たりません。驚いたマリアはすぐにエルサレムに引き返し、男性の弟子たちにそのことを知らせました。彼らは主イエスが逮捕されるときに逃げ、見つからないようにひっそりと身を隠していたのです。マリアから話を聞いたペトロともう一人の弟子は、墓に急ぎました。先に墓に着いた弟子は、墓の中を覗くと、遺体を包んでいた亜麻布が見えました。すぐにペトロもやってきて墓の中に入り、体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた亜麻布が別々に丸めておいてあるのを見ました。もうひとりの弟子も墓に入り、丸めてある亜麻布を見て、マリアの言葉を信じました。そして2人は墓を後にしました。

2人がエルサレムに戻った後も、マリアは墓から離れず、泣いていました。イエス様が死んだことだけでも悲しいのに、遺体がなくなってしまったのですから、悲しみはひとしおでした。イエス様を憎んでいた人たちが墓から盗み出したのかも知れません。イエス様のご遺体はどこにあるのか、マリアは悲しみに沈んでいました。

本当にイエス様はいないのだろうかと思い直して、マリアがもう一度墓の中を覗くと、白い衣を着た2人の天使の姿が見えました。驚くマリアに天使は言いました。どうして泣いているのですか。マリアは答えました。私たちの救い主、イエス様が墓から取り去られたのです。ご遺体がどこにあるのかわからないのです。 人の気配がしたのか、マリアが後ろを振り向くと、男の人が立っていました。その男もマリアになぜ泣いているのですか、だれを捜しているのですか、と尋ねました。マリアはその人が墓の管理人と思って、あなたがイエス様の遺体を運び去ったのですか?そうならそう言ってください。わたしたが遺体を引き取りますから、と言うと、管理人と思っていた人が「マリア」と自分の名前を呼ぶではありませんか。墓の管理人だと思っていた人は、イエス様だったのです。マリアは、復活した主イエスに出会ったのです。いくつかの言葉を主イエスと交わしたマリアは、大急ぎでエルサレムに戻り、弟子たちのところに行き、彼らに告げました。「わたしは主を見ました。」

主イエスの復活を記した聖書には、「見る」という言葉や場面が何度もあります。
・主イエスは多くの人々が見る中で十字架の上で息を引き取られました。
・墓に行ったマリアは、墓石が取りのけてあるのを見ました。
・弟子の一人は墓の中を覗き、亜麻布を見ました。
・ペトロは墓に入り、やはり亜麻布を見ました。
・彼らは墓の中に入り、主イエスの遺体がないことを見て、マリアの言葉を信じました。
・マリアがもう一度墓の中を見ると、天使が見えました。
・マリアが振り向くと、イエス様が見えましたが、イエス様とは気付きませんでした。
・マリアは、弟子たちに言いました。わたしは主を見ました。

「みる」を漢字で表すと、景色などを見る、医者が患者を診る、看護する、観察する、など同じ「みる」でもいろいろと違う意味になります。

 マリアやペトロたちが墓の中を見たのは、イエスの遺体の存在を確認しようとして見たのであり、また亜麻布という物質が見えたのでした。しかし、物質的なものをいくら見ても、事実の確認をすることはできても、真実を見ることはできません。ペトロともう一人の弟子は、墓の中に入って主イエスの遺体がないことを確認して、やっとマリアの話を信じることができました。それでも、まだ真実は見えていませんでした。マリアは、何度も墓の中を覗き込みました。しかし、そこに主イエスの存在を見ることはできませんでした。ルカによる福音書では、2人の天使はマリアに「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言いました。はじめマリアが捜していたのは、主イエスの遺体でした。しかし、いくら捜しても遺体は見つかりませんでした。墓の中は死の世界です。マリアは、死の世界ばかりを見て、遺体と言う物質としての主イエスを捜していたのです。
そのとき、何かを感じてマリアは後ろを振り返りました。180度見る向きを変えたのです。死の世界から、永遠の命の世界へ見る向きを変えたのです。その時はじめて、マリアは真実を見ることができました。復活した主イエスを見つけたのです。復活した主イエスに出会うことができたのです。その喜びを皆に知らせなくてはと、急いで弟子たちのところに行って告げたのです。「わたしは主を見ました。」
主イエスの遺体を見つけました、ではありません。復活した主イエスを、真実の救い主イエス・キリストを見つけたのです。

 主イエスの復活は、弟子たちに大きな喜びをもたらし、大きな力となりました。彼らは復活の主イエスと共に福音を世界に宣べ伝え、主の道を全うしました。さあ、わたしたちも復活の主に出会いましょう。詩の世界を見るのではなく、永遠の命の世界に目を向けましょう。復活された主が再び来られるその日には、わたしたちすべての者が復活して永遠の命を与えられることを信じ、大きな喜びの中、雄々しく、力強く主の道を歩みましょう。