2018年4月29日 心の迷う民

神はわたしたちを試みられます。それは、わたしたちが神に従うものになるための信仰の訓練です。しかし、わたしたちは、神を試みてはいけません。それは、わたしたちの不信仰から、わたしたちを滅ぼす悪魔の心から出て来るからです。

(説教本文) 詩編95編1-11節
詩編は古代ユダヤ教の讃美歌集です。古代ユダヤ教では、犠牲の奉献が礼拝の中心でした。人々は神殿に詣でて羊や山羊、あるいは鳩や雀、裕福な人は牛など犠牲の動物を捧げます。犠牲の動物を受け取った祭司は、それを生贄として屠り、その血を神殿の角に注ぎかけ、肉や内臓を焼いて、焼き肉のよい香りのする煙を天に届けました。また、賛美をする専門の人々に依頼して、祈りの言葉を神に届けました。竪琴、笛、タンバリンなどの楽器による伴奏に合わせて、詩が朗々と歌われました。このようにして歌われた多くの祈りの詩から、150編が厳選されて詩編が編纂されました。主イエスもユダヤ教徒でしたから、詩編によって賛美をしました。主イエスが逮捕される直前、最後の晩餐と呼ばれることになった過ぎ越しの食事をした後、「一同は賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。」(マタイ26:30)と聖書に書かれています。これは夕方の礼拝のことでしょう。賛美の歌、すなわち詩編によって神を賛美し、オリーブ山で祈りをささげたのです。
 
詩編による賛美はキリスト教に引き継がれ、今日までつながっています。使徒言行録などで「賛美を歌い」と書かれている賛美は詩編のことです。その後もキリスト教の礼拝では、詩編によって賛美が行われ、わたしたちの礼拝でも交読という形式で詩編による賛美が行われています。また、讃美歌21の113番から172番は詩編の讃美歌、詩編歌です。この中にはジュネーブ詩編歌と呼ばれる詩編歌がかなり入っています。これは、宗教改革の一つの拠点であったスイスのジュネーブにおいて、宗教改革者の中心的な一人であるジャン・カルバンの元で作曲された詩編歌です。

さて、今日わたしたちの礼拝には詩編95編が示されました。実は、讃美歌21の144番が詩編95編を歌った詩編歌です。この礼拝の賛美に用いればよかったと後で気がつきました。

詩編95編は比較的短い詩です。詩編の中の詩には、祈りの詩、嘆きの詩などいろいろな詩がありますが、注解書によると詩編95編は、典型的な命令型の賛美と書かれていました。

この詩編は3つの部分からできています。
最初の部分は1節から5節までは神への賛美です。2節の「御前に進み、感謝をささげ」は神に礼拝をささげようということです。全てのものを作られた大いなる神に礼拝をささげ、神に向かって喜びの声をあげ、楽器の伴奏に合わせて賛美しよう、と歌っています。

2番目の部分は6節から7節の2行目「主に養われる群れ、御手の内にある羊」までです。神の前にひざまずいて、わたしたちを造られた神を礼拝しよう。わたしたちは神の羊として、神の声に従おう、と歌っています。

最後は、7節の3行目から最後までです。これまでは、人の賛美の声、礼拝への呼びかけでしたが、ここからは人間に向けた神の声です。人間の代表として、イスラエルの民に語り掛けています。
(7節3行目~9節)
「主の声に聞き従わなければならない」と神は命じています。ということは、イスラエルの民は神の声に聞き従っていないということです。神は人々に神に従うとはどういうことかを示すために、かつてエジプトを出た後、イスラエルの人々が神にどのように対応したのか、を語りました。 「あの日、メリバやマサでしたように、心を頑なにしてはならない。」 モーセに導かれてエジプトを脱出してからすでに2か月以上経っていました。通常の旅であれば、目的地であるカナンの地にとっくに着いているはずです。しかし神はイスラエルの人々に荒れ野の旅を続けさせていました。イスラエルの人々は、食糧不足に悩まされていました。エジプトを出る時、イースト菌で膨らませることもせずに大急ぎで焼いたパンを食料として持っていましたが、そのパンは食べ尽くしていました。荒れ野では、食料になるものを見つけることは困難でした。水も不足していました。人々はモーセとモーセのアロンに向かって不平を述べ立てました。「こんなことなら、エジプトで死んだ方がましだった。エジプトでは肉がたくさん入った鍋から食べ、、またパンを腹いっぱい食べられた。お前は、わたしたちをこの荒れ地で飢え死にさせるつもりか!」民の不平を聞いた神は、夕方にうずらを宿営地に飛んで来させました。イスラエルの人々をうずらを捕まえて、その肉を食べました。朝になると朝露が降り、露が渇くと何かが地表に残りました。それはマナと呼ばれ、パンのようなものでした。このようにして、神は飢えからイスラエルの人々を救ってくださったのです。神は、マナはその日の分だけを集めるようにと命じておられましたが、余計に集める者がいました。また、安息日には集めなくてよいように2日分のマナが与えられましたが、安息日にもマナを集める者がいました。イスラエルの民は、神から恵みを与えられ、神に守られながらも、神との約束を守ろうとしなかったのです。

そこから出発し、レフィディムという場所に着くと、こんどは水が足りなくなりました。イスラエルの人々は、前と同じようにモーセに苦情を言い、水を求めました。モーセが神に祈ると、神はモーセに命じて、岩を杖で打たせました。すると岩から水が勢いよく湧き出したのです。モーセはその場所をメリバおよびマサと名付けました。メリバは争う、マサは試すという意味です。イスラエルの人々がモーセに水のことで争いを挑み、また神を試したからです。

みなさんは神を試したことがありますか?畏れ多くも神を試すなど、決してしたことはありません、と言いたいところですが、果たしてどうでしょうか?人は神を試そうとすることが、結構あるようなのです。わたしたちは、何か大きく困ったことに直面した時、神に祈り求めます。「神様お願いします。わたしの重荷になっているxxxxを取り除いて下さい。」などと祈ります。神を信じて救いを求めることは、信仰者として大切なことです。しかし、神の救いの手がなかなか差し伸べられないとき、ついこう思うかもしれません。「神よ、あなたはわたしの神でしょう。神であるのなら、なぜxxxxができないのですか。今すぐxxxxしてください。」お前が本当に神なら、xxxxができないはずがない、xxxxしてみろ、と思ってしまい、場合によっては口に出してしまうのです。神を試みてしまうのです。
この試みの言葉を口に出した人がいました。主イエスが十字架に掛けられたとき、一緒に十字架に掛けられた罪人の一人です。彼は主イエスに向かって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言ったのです。
神を試そうとする心や言葉は、わたしたちの心の内に潜んでいる悪魔、サタンから出る言葉です。主イエスは洗礼を受けた後、悪魔が主イエスを試みました。断食修行をして空腹になっていた主イエスに「お前が神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」悪魔は空腹に耐えている主イエスに、神を試みるように誘惑したのです。悪魔の誘惑に対して主イエスは、律法の言葉をもって対抗しました。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
この言葉は律法の書である申命記8章3節にある言葉ですが、2節以下を読んでみましょう。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」 実は、イスラエルの民が食料がないことでモーセに文句を言ったとき、神は「わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」と言われていたのです。神の指示とは、マナを一日の食料として必要な分だけを集め、余計に集めないということです。次の日にも神が食料を与えてくださることを信じるならば、余計に集める必要はないからです。余計に集めるということは、神を信じていないということです。

詩編に戻りましょう。8節「あの日、荒れ野のメリバやマサでしいたように、心を頑なにしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。」

「心を頑なにする」は神を信じないということです。神はいろいろな場面でわたしたちをお試しになります。そのことをパウロは、神は試練を与えると表現しています。神はわたしたちの人生の中で、様々な試練を与えられます。神の試みは、わたしたちの信仰の訓練です。神は試練を与えますが、その解決をも与えてくださいます。出エジプトのことで言えば、荒れ野に導き、食料不足、水不足という命に係わる困難を与えましたが、マナ、岩の水という解決をも与えてくださったのです。ところが人間は解決したとたんに、またもとに戻ってしまい、神の試練に文句を言うようになる、これが人間というものなのです。この弱さを神に対する罪と呼ぶのです。

さらに、人間が神を試す、これは大きな罪であることを今日学びました。神がわたしたちを試みるのであって、人が神を試みてはいけないのです。なぜなら、人に対する神の試みは、神に対する信仰の訓練だから、すなわち人に対する神の愛から出るものですが、神に対する人の試みは、神に対する不信仰から出てくるからです。不信仰は人を滅ぼします。人が滅びることを神は悲しまれます。

神の言葉に従って一日分だけのマナを集めるかどうか、神は人を試されました。人は約束を守れず、かえって神を試すという過ちを犯しました。このよう人の姿を神は、「心の迷う民」と呼ばれました。わたしたちは「心の迷う民」です。しかし、そのように罪深い「心の迷う民」を神はなお愛してくださいます。わたしたちが滅びに至らないように、本当に生きる者になってほしいと、救いの手を差し伸べてくださっています。心の迷う民であることを自覚しつつ、神の愛に感謝し、神を賛美し、神の言葉に従う者になることができるよう、教会に集う神を信じる者が互いに励ましあいながら、互いに信仰を育てていきましょう。