2018年4月8日 信じる者になりなさい

主イエスは復活された主イエスに会えなかったトマスは、自分の目で主イエスを見て、手とわき腹の傷を見なければ、決して信じないといいました。主イエスは、「見ないで信じる者は、幸いである。」と言われました。

(説教本文)ヨハネによる福音書20章19-31節
先週は皆さんとともに復活祭=イースターの主日礼拝を捧げ、イエス・キリストの復活を共に喜ぶことができ、大変に嬉しい日でした。わたしは、クリスマスやイースターなどキリスト教の祭典を迎える度に、自分がキリスト者であってほんとうによかったなと思います。今の世の中では、キリスト者でない人々もクリスマスを祝い、最近ではイースターも祝うようになってきました。世の人たちはクリスマスやイースターの意味をよく知らずに祝っているわけですが、わたしたちキリスト者は、クリスマスやイースターの深い意味を知っており、こころから喜び祝うことができます。ほんとうにキリスト者であってよかったなといつも思います。それだけに、もっと多くの人々にキリストを伝えなくてはいけませんね。キリストを伝え、人々を救いの道に導くこと、教会がキリストから託された大切な役割です。教会とは、わたしたちひとりひとりのことです。キリストから託された役割のために働くことも、またわたしたちの大きな喜びです。

 主イエスの弟子たちも大きな喜びの中にいました。復活された主イエスが、弟子たちの前に現れたからです。
  
 今日の聖書は、主イエスが弟子たちのところにお出でになったこと、主イエスの復活を信じようとしないトマスと主イエスの対話、そしてヨハネによる福音書と、3つのことが書かれていますが、まず弟子たちに復活の姿を現したことから始めましょう。

日曜日の朝早く、主イエスを埋葬した墓に出向いたマリアたちは、復活された主イエスに会いました。ペトロたちは墓が空であることを見ましたが、復活された主イエスに会うことはできませんでした。まだ、その時が来ていなかったのです。ペトロたちはエルサレムに戻ると、他の弟子たちに墓が空であったことを告げました。一同はある家に集まりました。恐らく、過ぎ越しの食事、いわゆる最後の晩餐をした家でしょう。彼らは、主イエスを捕らえた人々が、自分たちを探し出さないかと心配しながら、ペトロたちが報告した空の墓について、いろいろと話をしていたのでしょう。そこに突然、人が入って来ました。扉には鍵をかけたあったはずです。弟子たちはびっくりしたことでしょう。ついにここを見つけられてしまった。捕まえられる! ところがその人は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹をお見せになったのです。「あなたがたに平和があるように」という声と話し方、また手とわき腹についた傷を見て、その人が主イエスだとわかり、彼らは喜びました。「先生」「イエス様」「主よ」など口々に叫んで主イエスに駆け寄ったのではないでしょうか。

 すると主イエスはもう一度「あなたがたに平和があるように」と言われ、さらに「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われました。それから主イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」また[だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。]と言われました。
 整理してみると、主イエスは、①平和があるように、②あなたがたを遣わす、③聖霊を受けなさい、④だれの罪も赦しなさい、と言われたのです。
 
 まず、「平和があるように」ですが、主イエスが捕らえられ、十字架刑に処せられことによって、弟子たちは、主イエスとともに神の国を宣べ伝える喜びが、自分たちも捕らえられるのではないかという恐怖に変わっていました。心は弱くなり、生きる望みさえ失いかけていたかも知れません。失意と恐怖、混乱の中にあった弟子たちに、主イエスは、あなたがたに平和があるようにと祈ってくださったのです。平和とは、主イエスの守りと導きの中で、不安なく過ごすことです。

次に「遣わす」ですが、復活された主イエスと会った弟子たちは、再び主イエスとの生活や活動ができると思い、喜びました。しかし、そうではないよ、と主イエスは言われるのです。わたしは、あなたがたを世界に遣わす。各自わたしが示すところに行って福音を語りなさいと言われるのです。主イエスがこのことを話した時、弟子たちは主イエスの言葉が理解できなかったかも知れません。しかし後に、聖霊降臨の後に、彼らはこの主イエスの言葉を思い出し、力を得ることになるのです。

3つめは「聖霊を受けなさい」です。十字架で死んだ主イエスを文字通り見失っていた弟子たちは、力を失い、いわば死んだようになっていました。主イエスは弟子たちに息を吹きかけられました。聖霊を注いだのです。神が人を創造されたときに息、すなわち聖霊を吹き込まれて生きる者とされたのと同じに、主イエスは弟子たちに聖霊を注ぎ、再度命を与えてくださったのです。このことも、弟子たちが本当に理解できたのは、聖霊降臨の後でした。

最後に「罪の赦し」について。人が本当に生きると言うことは、神に従って生きるということであり、神に従って生きることを具体的に見せてくださったのが主イエス・キリストでした。主イエス・キリストは言われます。わたしが神の子として父である神に従って生きてきたように、あなたがたも神に従って生きなさい。あなたがたは、おのおの自分の罪を神から赦していただかなければ、本当に生きることにはならない。神があなたがたの罪を赦して下さったのだから、あなたがたも人の罪を赦しなさい。

これら4つのことを主イエスが弟子たちに言ったと言うことは、彼らが中心となって建てた教会に言ったこと、すなわち、わたしたちひとりひとりに言われていることです。わたしたちに平和を与えてくださる神が、わたしたちひとりひとりに聖霊を吹き込んで下さり、新しい命を与えてくださっています。わたしたちは主イエスの十字架によって罪を赦されています。わたしたちは、わたしたちに対する人の罪を赦します。わたしは、その喜びを是非世の人々に伝えたい。みなさん、イエス・キリストは素晴らしい方です。わたしたちの罪を負って十字架に架かり死にましたが、復活して今もわたしたちと共にいてくださいます。そう、世の人々に声をかけることが、主イエスがわたしたちにお命じになっていることなのです。

さて、主イエスが弟子たちのところにお出でになったとき、トマスだけはそこにいませんでした。トマスは他の弟子たちが、わたしたちは復活した主イエスを見た、と言っても、自分は信じない、この目で主イエスを見て、自分の指で主イエスの傷に触れてみなけらば、絶対に信じない、と言い切ったのです。復活から8日目の日曜日、主イエスは再び弟子たちのところにお出でになり、トマスにも会いました。主イエスはトマスに、手の傷を見なさい、また、わき腹の傷に触るようにと促されました。そしてトマスに、お前は見たから信じたのかい?見ないで信じられる者になりなさい。見ないで信じられることは素晴らしいことだよ。信仰とはそういうことだよ、と言われたのです。
恐らくトマスは、この主イエスとの劇的な出会いを、教会の中で何度も語り続けたのでしょう。「主イエスはわたしに『信じる者になりなさい』『見ないで信じる者は幸いだ』と言われたのです。皆さん、主イエスを見ることは出来ませんが、主イエスを信じましょ、主イエスは共にいてくださいます、主イエスに従って歩みましょう、と話したことでしょう。

わたしは、このトマスの物語を、何度も聞き、何度も語りました。主イエスの復活を疑い、主イエスを見て、傷に触るまで、決して信じない、というトマスを、どちらかというと、弱い信仰者のモデルとして見てきたと思います。しかし、今回、そうだろうかという疑問が浮かびました。トマスは、かつて弟子たちにこう語ったことがあります。親しかったラザロの死に際して、危険の待ち受けるエルサレムに行こうと主イエスが言ったとこのことです。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」 トマスの主イエスに対する愛情が非常に強かったことが、この言葉から察することができます。それだけに、主イエスが十字架に掛けられた死んだことは、トマスにとって大きな心の傷となっていました。トマスの主イエスに対する篤い思いから、どうしても自分の目で主イエスの復活を確認したいという思いだったので、あの言葉、自分は主に会い、傷を見て、また傷を手で触れてみなければ、決して信じないという言葉になったのでしょう。
弟子たちの中で、主イエスの復活を「見て信じた」のはトマスだけだったのでしょうか。他の弟子たちは、見ないで信じたのでしょうか。そうではありません。墓にイエスの遺体がないというマリアたちの知らせに駆けつけたペトロたちも、主イエスが復活したとは信じませんでした。今日の聖書においても、20節に「弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。主イエスが自分たちの目の前に現れ、十字架でついた傷を見せられて、初めて主イエスだと認め、復活を信じたのです。弟子の誰一人として、主イエスを見るまで、主イエスの復活を信じてはいなかったのです。

わたしたちは、どうでしょうか。復活ということを信じるようになったのは、主イエスのことを聖書で知った後、すなわち主イエスと出会ってからではないでしょうか。わたしたちも、弟子たちと同様なのです。そのようなわたしたちを、主イエスは弟子として選んでくださったのです。わたしたちひとりひとりをです。そして、洗礼という形でわたしたちに聖霊を吹き込み、復活させ、主イエスの手足として、福音伝道のために世へ遣わされるのです。互いに罪を赦し合い、そのことによって、わたしたちには、平和が与えられ、また、わたしたちが主イエスの手足として行う福音伝道によって、世の人々に平和を伝えるのです。

最後に、ヨハネによる福音書の著者が、福音書を執筆した目的を書いています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」もともとのヨハネによる福音書はここで終わりです。福音書を書いたのは、この福音を聞く者がイエス様を信じて、永遠の命を得るためでした。

わたしたちは、福音を聞き、主イエスを救い主キリストと信じるようになりました。キリスト者であること、見えないキリストを信じられることは、本当に幸いなことですね。