2018年6月24日 預言者の死

ヘロデは、娘のサロメの踊りの褒美に洗礼者ヨハネの首を贈りました。この衝撃的な物語に目を奪われがちですが、この聖書箇所の重要なことは、イエスとは誰か、イエスを救い主として信じ、その信仰を言い表すことにあります。

(説教本文) マルコによる福音書6章14-29節

今日はマルコによる福音書から、洗礼者ヨハネを通して、イエスとはどのような方かということについて聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。

洗礼者ヨハネが、新約聖書の中で重要な役割を果たしている人物であることは、申すまでもないことでしょう。ルカによる福音書によると洗礼者ヨハネは主イエスより半年ほど前に、ユダヤの中心地であるエルサレムの神殿に仕える祭司ザカリアとエリサベトの子として生まれました。子どもが与えられないまま高齢になっていたザカリアとエリサベトの間に奇跡的に生まれた子どもでした。一方、主イエスは、エルサレムからはるかに遠い辺境のガリラヤ、その中でも小さな村で貧しい生活をしていた未婚のマリアから、奇跡的に生まれました。

洗礼者ヨハネは祭司の子弟としてユダヤ教高等教育を受けたと思われます。ところが成人すると祭司にならず、荒野での修行生活を選びました。この時代、堕落したユダヤ教を批判するグループがいくつもあり、彼らの中には都会を離れ、荒野という厳しい環境に身を置いて純粋な信仰生活に励んでいました。1947年に羊飼いの少年によって偶然発見されたクムランという場所の洞窟から羊皮紙に書かれた聖書が大量に発見されました。聖書が発見された洞窟はエッセネ派と呼ばれるユダヤ教のグループがここで共同生活をしながら聖書を学んでいたのです。洗礼者ヨハネもこのようなユダヤ教のグループに属し、荒野に住み、正しい信仰へと人々を導いていたのです。成人した主イエスは洗礼者ヨハネに弟子入りし、洗礼者ヨハネの元で聖書を学び、やがて独立して神の国を宣べ伝えるようになったと思われます。

洗礼者ヨハネは主イエスより先に生まれ、主イエスの先生であったのに、自分がこの世に遣わされてきた役割をよくわかっていました。周囲の人々は、洗礼者ヨハネこそ預言者によって語られた救い主であると思っていましたが、洗礼者ヨハネは人々の思いを否定して、自分は救い主・メシアではない、自分は救い主が来られるための準備をするために神からこの世に遣わされて来た者であると人々に教えたのです。洗礼者ヨハネは人々に神の言葉を語り、救われるためには罪を告白し、悔い改めなくてはならない。悔い改めのしるしとして洗礼を受け、まことの救いを待ちなさい、と人々に洗礼を勧めました。ヨハネの呼びかけに応えて、多くの者がヨハネの元を訪れ、ヨハネから洗礼を受けました。主イエスもヨハネから洗礼を受けたのです。

さて、この頃、ガリラヤの領主はヘロデ・アンティパスという人でした。今日の聖書箇所にヘロデと書かれている王は、ヘロデ・アンティパスのことです。この人は、主イエスの誕生物語に出て来るヘロデ大王の子どもです。 ヘロデ・アンティパスは姪にあたるへロディアという女性と結婚しましたが、へロディアはヘロデ・アンティパスの異母兄弟にあたるフィリポという人と結婚していたのです。つまり、ヘロデ・アンティパスは、自分の異母兄弟であるフィリポの妻を自分の妻にしていたのです。洗礼者ヨハネはこの結婚が律法で許されない結婚だとしてヘロデ・アンティパスを非難しました。律法では「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである。」(レビ18:16)と規定しています。確かなことはわかりませんが、この規定の文言と、へロディアがヨハネを恨んだと聖書に書かれていることからすると、ヘロデ・アンティパスとへロディアの結婚は不倫的な結婚だったのではないかと思います。洗礼者ヨハネに結婚を非難されてひどく立腹したのは、妻のへロディアの方でした。彼女は、ヨハネを殺そうと思い機会を伺っていました。一方、夫のヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネに一目置いていました。ヘロデ・アンティパスはヨハネが正しい聖なる人であることを知っており、ヨハネを恐れ、ヨハネの教えに喜んで耳を傾け、ヨハネを保護さえしていたのです。しかし、自分たちの結婚を非難されることは面白くありません。そこで、ヘロデ・アンティパスはヨハネを殺すことはせずに、捕らえて牢につないでおいたのです。

ある日、ヘロデ・アンティパスの誕生パーティーが華やかに行われました。王宮には各界の有力者が祝いに集まって来ました。宴もたけなわのころ、へロディアの娘で絶世の美女(と聖書には書いてありませんが)のサロメが客人たちの前で踊り、客人たちを大いに喜ばせました。客人を喜ばせた娘の踊りにヘロデ・アンティパスも大いに喜び、褒美に何でも欲しいものをあげよう、国の半分でも欲しければやるぞと客人たちの前で約束したのです。太っ腹なおやじを見せようと、かっこうをつけたのですね。するとサロメはちょっと失礼と座をはずし、別の部屋にいた母親のへロディアに相談したのです。お母様、父が踊りの褒美になんでも欲しいものをわたしにくれると言っていますが、何をいただきましょう。へロディアはすかさず言いました。「ヨハネの首を」。へロディアはこの機会を待っていたのです。恐らくへロディアは娘のサロメに協力させてヨハネを殺す策略を企てたのでしょう。父の元に戻るとサロメは「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」と言ったのです。ヨハネの首!ヘロデ・アンティパスは驚きました。自分の名誉のために捕らえて牢に入れてはあるものの、死刑にしようなどとは全く思わず、むしろ話を聞かせてもらいたいと思っていた。その洗礼者ヨハネの首が欲しいとは!ヘロデ・アンティパスは非常に悩みました。しかし、多くの客人の前で娘に約束したことです。酒の席の言葉だ、冗談だったと言える状況ではありませんでした。決断した王は衛兵に命じてヨハネの首をはね、盆に載せてここに持ってこさせました。洗礼者ヨハネの首はサロメに渡され、サロメは母親のへロディアに渡したのです。ヨハネの首を受け取ったへロディアとサロメはどのような表情だったでしょうか。ヨハネを殺すことになったヘロデ・アンティパスの心は穏やかではありませんでした。

洗礼者ヨハネの死は、多くの人々に衝撃を与えました。このような形でヨハネの活動が終わると、それを引き継ぐように主イエスの伝道が活発になってきました。弟子が増え、ガリラヤ中の町や村に弟子たちを送り出し、神の国のこと、救いのことなどの福音を人々に伝えました。主イエスの行く所、いつも多くの人々は話を聞こうと集まりました。主イエスの活躍は、やがてヘロデ・アンティパス王の耳にも届きました。洗礼者ヨハネと同様のことを話しているらしい。しかも数々の奇跡をおこなっているとも聞く。イエスとはいったい誰なのか。ヘロデは人を遣わしてイエスに関する情報を集めさせました。最近イエスという男が神の国、救いを人々に語っているそうだが、その男は一体何者なのか、調べてこい。王の命令を受けて調査に出た者がヘロデ・アンティパスに報告しました。ある人は、洗礼者ヨハネが生き返ったのだと言っています。別の人は預言者エリヤが戻ってきたのだと言っています。エリヤではないが、預言者に違いないと言っている者もいます。報告を聞きながらヘロデ・アンティパスは思いました。あのイエスという男は、洗礼者ヨハネが生き返ったに違いない。

洗礼者ヨハネがサロメの求めに応じて首をはねられたというこの福音書に書かれた出来事は、聖書を読んだ多くの人々に衝撃を与えました。この出来事をテーマにした小説も書かれていますし、多くの画家がこのテーマで絵をかいています。
あまりにも衝撃的な話のため、どうしてもサロメが母へロディアのために洗礼者ヨハネの首を父親に要求したというところにスポットライトが当たってしまいますが、この聖書箇所のポイントはそこではありません。この聖書箇所の重要なテーマは、イエスとはだれか?イエスとはどのような人か?です。

イエスとはどのような人か? 人々が思ったのは、洗礼者ヨハネであれ、エリヤであれ、イエスは預言者である、ということでした。イスラエルにはかつて多くの預言者が出現して神の言葉を人々に伝え、またリーダーとして人々を導き、正しい裁きをしてくれました。預言者の時代は終わったと思われていました。しかし、洗礼者ヨハネが現れました。神は再び預言者を送ってくださった。そして、昔エリシャがエリヤの後継者の預言者であったように、イエスも洗礼者ヨハネの後継者の預言者なのだと考えたのです。

主イエスが神の国を宣べ伝えている間、主イエスの本当の姿を理解している人は少数でした。主イエスに従っていた弟子たちも、主イエスがどのような方なのか正しく理解できていた人はいませんでした。主イエスと共に歩き、主イエスの話を聞き、主イエスの行われた奇跡を見るうちに、だんだんとこの人はただものではないぞ、預言者以上の方だと思うようになったのです。それでも主イエスの本当の姿、神の子・救い主であることはなかなか見えなかったのです。ある弟子は主イエスが十字架に掛けられるまで、主イエスを革命家のリーダーであると思い、いつ日にか一緒にヘロデとローマをユダヤから追い出すために立ち上がってくれるだろうと期待していました。

あるとき主イエスは弟子たちに、世の人々はわたしのことをだれだと言っているかと尋ねました。弟子たちは口々に「洗礼者ヨハネだ」と言っています。「エリヤだ」と言っています。「預言者の一人だ」と言っています、と答えました。すると主イエスが言われました。「では、あなたがたはわたしを何者だといのか。」ペトロが答えて言いました。「あなたは、メシアです。」ペトロの主イエスに対する信仰告白の言葉でした。

今も主イエスは、わたしたちにも問われます。わたしを何者と言うのか。この主イエスの問いに対してわたしたちはきっぱりと答えなくてはなりません。「あなたはわたしたちの救い主です。」
信仰とは個人的なことがらと思われがちです。自分の心のなかで信じていればそれでよい。たしかに信仰は個人的な事柄でもあります。しかし、主イエスはそれ以上の信仰を求めます。公の信仰です。なぜなら、わたしたちは一人では信仰者として生きて行けないからです。神が人を造ったとき、助け合う者としてもう一人の人を造ったと創世記に書かれています。2人3人が集まるとき、そこにわたしはいる、と主イエスは言われました。信仰を公けに言い表し、互いに信仰を助け合い、高め合う、これが教会の姿です。わたしたちが主日礼拝ごとに使徒信条を用いて、声を出して信仰を告白するのはその故です。今日は、日本基督教団の創立記念日です。日本基督教団は教会の教会、教会の集まりです。互いに助け合い、信仰を高め合う教会の集まりです。教団に集まった教会を結び付けているのは、一つの信仰告白です。「主イエスはわたしたちの救い主。」この信仰を証しする言葉を皆でしっかり口にだして、ひとつとなって洗礼者ヨハネが整え、主イエスが導いてくださる天の道、救いの道を手を携えて歩んでいきましょう。