2018年7月1日 偽りの預言
預言者エレミヤは神の命令によって偽預言者を徹底的に批判しました。偽預言者は神の言葉を人々に伝えることをせず、人々の求めに応じて都合のよい言葉を人々に伝えて、利益をあげていたのです。利益を求めた偽の預言は人を破滅に陥れます。
(説教本文)エレミヤ書23章23-32節
先週はイエスとは誰かという問いに対して人々は、ヘロデによって首をはねられて死んだ洗礼者ヨハネの生き返りではないか、いや預言者エリヤに違いない、いやエリヤではないが預言者だと言いましした。人々は主イエスを預言者と思っていたのです。洗礼者ヨハネも主イエスも預言者として人々から尊敬されていたのです。
預言者は、イスラエルの歴史の中で重要な役割を果たしてきました。古代イスラエルでは政治的なリーダーであり、裁判官でした。政治も裁判も神がなさることだからであり、預言者は神の言葉を聞く力を神から与えられ、神の言葉によって政治を行い、裁判を司ったのです。
イスラエルが王国になると政治と裁判は王の役割となり、預言者は王の政治や裁判を監視する役割となりました。強い豊かな国になりたいという人々の希望によって王国となったイスラエルは、たしかに強い国になって周辺の国々からの侵略にも対抗できるようになり、また経済的にも繁栄しました。しかし、神が心配されたように、王による政治は神の思いから離れて行き、列王記に書かれた王たちの多くは、「神の目に悪とされることを行った。」と批判されるようになって行ったのです。
神はそのようなイスラエルに反省を促し、悔い改めて神に立ち帰るようにと大きな試練を与えました。バビロン捕囚です。なぜイスラエルはこのような目に遭わなければならないのかという人々の嘆きに預言者たちは、イスラエルが神から離れたからだということを伝え、悔い改めを呼びかけ、また決して望みを捨てずに神を信じ、赦される日を待つようにと励ましたの言葉をかけ続けたのです。厳しい裁きの言葉も、優しい慰めの言葉も、救いの希望の言葉も、預言者の言葉はすべて神から出た言葉でした。
そのような預言者の一人にエレミヤがいました。神がエレミヤを預言者としてお選びになったとき、エレミヤは神の召命を拒もうとしました。その事情がエレミヤ書1章4節~10節に書かれています。「主の言葉がわたしに臨んだ。・・・・あるいは建て、植えるために。」
わたしたちも、神の仕事をすることに躊躇することがあります。例えば教会の役員に選ばれたとき、自分にはそのような力はないと思うことがあります。しかし、選挙で役員に選ばれるということは、人間の思いを超えて、神がお選びになったのだということを謙虚に受け入れるべきです。エレミヤが、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」と言ったことに対して神は、「若者に過ぎないと言ってはならない。・・・わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」と言われました。神のご用をする者に対して神は共にいてくださり必要な力を与えてくださるのです。教会役員の例を出しましたが、教会の内外を問わずわたしたちにはときとして思いがけない神からの命令が下されることがあります。それはわたしたちが本当に神を信じているか、神に従う民であるかを試されるときなのです。
神から預言者として立てられたエレミヤに神は命じられました。
(1:17~19)「あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ。わたしが命じることをすべて。・・・救い出すと主は言われた。」
この時代ユダヤの人々の心はヤハウェの神を離れ、直接的な利益を求めてバアルを信仰するようになっていました。バアルは、エジプトを出たイスラエルの人々がカナンの地に住むようになるよりも前からカナンの地で信仰されていた神でした。多くの作物を実らせ、牛や羊を増やすといった人々をより豊かな生活に導くことをバアルは実現してくれることを期待し、人々の信仰を集めていました。カナン人と交わるうちにユダヤの中にはバアルを信仰するものが増えていました。
(2:7~8「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き、・・・・・預言者たちはバアルによって預言し、助けにならぬものの後を追った。」
エレミヤはまた堕落して私腹を肥やすユダヤの指導者たち、王を始め政治、行政に携わる者たちにも多くの苦言を与えました。
(22:13)「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない者は。」
またユダヤ教の指導的立場にある祭司たちにも厳しい批判の言葉を投げかけました。
(23:1~2)「『災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。『あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する。』と主は言われる。」
エレミヤは徹底的に神に背く者たちを批判します。今日の聖書としてわたしたちに示されたエレミヤ書23章では、預言者たちが批判されています。本当の預言者ではなく、偽預言者です。偽預言者は、初めから偽物の預言者だったということではなく、すべての預言者と同様に神の召命を受けて預言者になったものの、次第に神の言葉ではなく自分の言葉を語るようになり、神の言葉をないがしろにするようになっていったようです。ですから預言者を批判することは、エレミヤにとっても心の痛むことだったのでしょう。23章9節ではその心の内を吐露しています。「預言者たちについて。わたしの心臓はわたしのうちに敗れ、骨はすべて力を失った。わたしは酔いどれのように、酒にのまれた男のようになった。」仲間の預言者たちの堕落に、生きる力を失いそうだと言うのです。神はエレミヤに命じて偽預言者たちに告げさせました。「姦淫する者がこの国に満ちている。国土は呪われて喪に服し、荒れ野の牧場も干上がる。彼らは悪の道を走り、不正にその力を使う。」姦淫する者とは真の神ヤハウェから離れ、他の神々を信仰するようになった者たちのことです。「預言者も祭司も汚れ、神殿の中でさえわたしは彼らの悪事を見たと主は言われる。、」(23:16)「わたしは、サマリアの預言者たちに、あるまじき行いを見た。彼らはバアルによって預言し、わが民イスラエルを迷わせた。わたしはエルサレムの預言者たちの間におぞましいことを見た。姦淫を行い、偽りに歩むことである。」(23:25)「それゆえ、万軍の主は預言者たちについてこう言われる。見よ、わたしは彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。エルサレムの預言者たちから汚れが国中に広がったからだ。」北イスラエルのサマリアの預言者も、南ユダのエルサレムの預言者も、ことごとく偽りの預言者になり下がってしまっていると神は言われるのです。
わたしが近くにいなければ、偽の預言をしてもわたしがわからないというのか。わたしは遠くからでもすべてを見ることができる。わたしの目から隠れることはできない。偽預言者たちは、自分たちが偽の預言を語ることで神に背いていることを恐れてはいたようですが、こどもでもわかるようなこと、隠れてやっても、遠くでやっても神はすべてをご存知であるということが偽預言たちにはわからなくなっていたのです。
さて、なぜ彼らは偽の預言をしたのでしょう。それは、人間的な欲望に負けたからです。真の預言者は、神の厳しい言葉を人々に告げました。それは、神から離れた人々を、神に立ち帰らせるためでした。創造主である神の愛を忘れてしまった人々に、神の愛を思い起こさせるためでした。しかし、人々は、この世的なものを求めました。より多くの収穫を得られること、牛や羊が多く生まれることなど、この世的な利益を求めました。バアルというカナンで信仰されていた神は、この利益をもたらすと期待された人気の高い神でした。そのような環境の中で、預言者の中から、民衆の人気を獲得してこの世的な利益を上げようとする者が現れ、偽の預言、人々が求めるままに耳に聞こえのよい預言をしたのです。バアルの言葉を伝えるなどいう預言者すら現れたのです。そして自分の言葉に権威を与えるために、これは神から預かった言葉であるとして、自分の言葉であるのに託宣と呼び、権威付けをすることも行われたのです。もはや神不在の信仰となりました。人々の欲望から出る求めに応じて偽預言者たちは、あたかも神から預かった言葉であるかのようにこれは託宣ですと言い、高い報酬を得ていたのです。
利益を求める信仰をご利益信仰と呼びます。ご利益信仰は世界中にあります。日本はご利益信仰だらけの国です。会社勤めをしていたころ、近くに神田明神がありました。仕事始めの日、神社の境内にはテントが張られ、寒い中をだくさんのダークスーツを着た人たちが座っていました。商売繁盛の祈願をしてもらうための順番待ちをしている人たちでした。コンピュータ全盛の時代ですが、商売の神様はないがしろにしてはいけないようです。そういえば、実力の世界であるプロスポーツでも、プロ野球の球団は、必ず必勝祈願に行くようですね。監督を先頭に選手たちが神社でお祓いを受けている様子をテレビニュースが流しているのをみたことがあります。
ところでキリスト教はどうでしょう。キリスト教だって、神様にお願いのお祈りをするでしょう?と言われたら、なんと答えましょうか。確かにいろいろなお願いの祈りをしますね。今週もわたしたちの歩みをお守りください、とか、病気を治してください、家族をお守りください、など祈ります。ある人が、わたしのお祈りはお願いばっかりです、と言っていました。思えば、主の祈りも、日曜の糧を今日も与えたまえ、われらを悪より救い出だしたまえ、とお願いばかりです。では、ご利益宗教とキリスト教はどこが違うのでしょうか。それとも同じなのでしょうか。
主イエスが十字架にお架かりになる直前、主イエスは自分に与えられた重圧に必死に耐えていました。そして父なる神様にお祈りしました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」主イエスもお願いしています。しかし、祈りはここで終わりませんでした。「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」わたしたち人間は、弱い者ですから、神さまにお願いしていろいろ助けていただかなくてはなりません。しかし、それを決めるのは、神様です。願いが聞き入れられたか、聞き入れられなかったかに関わらず神を信頼し、神に感謝することが大切です。なぜなら、神は、わたちたちに一番よいと思ことをしてくださるからです。必要以上の貪欲に神は答えてくださらないでしょう。なぜなら、貪欲は人を滅ぼすからです。しかし、神は日々の食べ物、生きるために必要なものは与えてくださるのです。
現代にも偽預言者はいます。カルトと呼ばれる宗教団体は、偽預言者的な集団と言ってよいかと思います。なぜなら、彼らの多くは、人の救いを口にしながら、莫大な利益を上げ、教祖や最高幹部たちは豪勢な生活をしているからです。彼らは利益をむさぼるために宗教の仮面をかぶった人たち、典型的な偽預言者です。
では、偽物と本物の見分け方はどうすればよいでしょうか。一つは、利益を求めているか否かです。偽預言者は利益を求めます。もう一つは、まことの信仰を求め続けることです。美術品の鑑定者は、本物と見世物を見比べるのではなく、本物だけを見て鑑定者として育つそうです。神に真摯に向かう人々と共に礼拝を捧げることで正しく信仰者として育つのではないでしょうか。偽預言者に惑わされることなく、まことの神を追い求め続けたいと思います。