2018年7月15日 恵みに感謝して生きる

「恵み」は、目に見えない大きな力が、わたしたちを幸せにし、喜びを与えてくれる贈りものです。しかし、神が与えてくださる恵みは、わたしたちが悪いと思うことも含まれているのです。
 
(説教本文)コリントの信徒への手紙二6章1-10節

キリスト教では「恵み」という言葉が非常に多く使われていると思います。まず名前ですね。名前に「恵」という字が入っている人は実に多くいらっしゃいます。ずばり恵さん、女性ばかりでなく男性にもいます。わたしたちの近くでは、小金井教会の牧師が小林恵(こばやしめぐみ)です。さらに恵子さん、美恵子さん、恵美子さんと挙げれば切がありません。先週礼拝に出席された戸部悠世さんの婚約の杉山恵嗣さんも恵+嗣と書きます。恵泉女学園という名前の学校もあります。
キリスト者の場合、聖書に基づいて恵という字を名前に用いるのでしょうが、キリスト者でない人々も、恵という言葉、あるいは文字は好んで用います。例えば農作物を「大地の恵み」と呼び、雨が少なくて困っているときに降る雨は喜びと感謝を込めて「恵みの雨」と言います。
「恵み」は、見えない大きな力によってわたしたちに幸い、喜びをもたらすものとして与えられるという概念の言葉です。わたしたち神を知っているキリスト者にとって、目に見えない大きな力とは神であり、恵みは神から与えられるものとして受け取ります。そこに大きな喜びと感謝があります。「恵」という字が多くの人の名前に用いられる理由もそこにあるのでしょう。

「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」今日与えられた聖書、コリントの信徒への手紙二6章2節に書かれた言葉は、イザヤの預言を引用したものです(イザヤ書49章8節)。この預言の言葉は、次のように順序を入れ替えて読むとわかりやすいと思います。「わたしはあなたがたの願いを聞き入れた。これが恵みの時である。わたしはあなたを助けた、これが救いの日である。」その神からいただいた恵みを無駄にしないようにと6章1節でパウロは言っています。

このイザヤの預言は、バビロン捕囚の終わりごろの預言です。50年以上続いたバビロン捕囚が終わり、ユダヤの人々は捕囚から解放され、ユダヤへ、エルサレムへと帰る日が来ました。神はユダヤの人々の祈りに応えて、バビロン捕囚を終わらせてくださいました。ユダヤに救いの日が来たのです。これこそ神の恵みです。しかし、その恵みを素直に受け入れなかった人々がいました。今さらバビロンから解放されて何になる。親はバビロンで死に、バビロンで生まれた子は故国を知らない。バビロンでの生活もそれなりに安定している。財産もできた。さあ、バビロン捕囚は終わった。解放された。感謝しよう、喜んでユダヤに戻ろうという気持ちになれない。そのような思いを持った人々が少なからずいたのです。

パウロはこのイザヤの預言を引用した目的は何でしょうか。 
それは、コリントの信徒の中に、神の恵みを素直に受け取れない人々がいたからです。コリントというギリシャの町は港町です。地中海は船による海上交通が盛んでした。穀倉地帯のエジプトから小麦がローマに運ばれ、レバノンからはレバノン杉が運ばれました。その他多くの物質と人が地中海を東西南北に走り回わる船によって運ばれました。地中海の真ん中に突き出たバルカン半島の先端にあるコリントは、貿易の中継地であり、商業が盛んな裕福な都市でした。人は豊かになると、ともすると精神面において堕落することがよくあります。コリントの人々も、豊かであるのは、自分たちに才能があるからであり、自分たちの努力によるものだと思う傾向があり、コリントの教会に集うキリスト者であっても、そのような思いから離れられない人が相当いたのです。傲慢は人を滅びに向かわせます。滅びの道に行ってはいけない。それは神の思いと異なる。あなたがたの繁栄は神の恵みだ、謙虚になって神の御声に聞き従いなさい、パウロはコリントの人々に繰り返し神の恵みとはなんであるかと伝え、救いの実現に向かうよう人々に呼びかけたのです。手紙の中には、かなり厳しくコリントの信徒を叱責する言葉もあります。
キリストの福音を聞き、それを受け入れること、これこそ恵みであり、救いです。コリントの皆さん、あなたがたは今神の恵みを豊かに受けているのです。あなたがたは神の救いの手の中にいるのです。感謝して、イエス・キリストに従いましょう、とパウロはコリントの人々に呼び掛けたのです。

恵みとは、わたしたちを幸せにするために、わたしたちに喜びを与えるために神様がくださる贈り物です。そして私たちは恵みに感謝します。
フィッシャー幼稚園の昼食のお弁当のとき、また、日曜学校の夏期学校での食事のときなど、食前感謝の讃美歌を歌います。「神様、恵みに感謝します。おいしい食事をありがとう。」食べ物は神様が与えてくださる恵みの代表でしょう。エジプトを出て食べものの蓄えが尽きたイスラエルの人々に、神はウズラとマナをくださいました。人々は神の恵みとしてこれらを受け取り、食べました。また、飲み水がなくなったとき、モーセが杖で叩いた岩から水がほとばしりでました。人々は神の恵みとして受け取り、飲みました。神はこれらの恵みをもって人々の命をつなぎました。 わたしたちは、礼拝ごとに恵みを求め、恵みに感謝します。礼拝の終わりの祝福の祈り、祝祷では、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が共にあるようにと祈っています。祝祷において、皆さんは恵みとしてどのようなことを具体的に思っていますか。

神からいただいた恵みを無駄にしないように、とコリントの信徒たちに伝えたパウロは、自分の働きにおける恵みについて語りました。主イエス・キリストの福音伝道者たちは、聖霊の力を受けて、主イエス・キリストの福音を世界に向けて宣べ伝えました。その業がいかに困難であったかを使徒言行録や手紙などで知ることができます。6章の4節以下に列挙されています。苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓が実例として挙げられています。これ以外にも、様々な困難があったことでしょう。彼らは十分な資金をもって旅に出たのではありません。行った先々で施しを受けたり、働いたりして伝道の旅をしました。野宿もあったことでしょう。その日の食べ物に事欠くことももあったでしょう。伝道に行き詰まり、この先どうすればよいのか悩んだこともありました。キリスト教に反感をもったユダヤ人から迫害を受け、キリスト教を危険な宗教としたローマ帝国から弾圧を受けました。何度も捕らえられて牢獄に入れられ、鞭で打たれました。夜も寝ることのできない日々がありました。これだけのことがあれば、もうこれ以上無理だとして、伝道から手を引いてもおかしくありません。むしろその方が常識的ではないでしょうか。あるいは自暴自棄になってもおかしくありません。しかし、パウロは、そのような苦しい状況にも忍耐し、主イエスの福音を伝えること以外は一切考えず、純粋に信仰を実践するための知識や寛容で親切な心を持ち、聖霊の働きを信じ、偽りのない愛と真理の言葉によって福音伝道に邁進したのです。パウロは、これらは自分の力でも努力でもない、神の力だ、神の力によってわたしは福音の伝道を続けているのだ、と言い切るのです。このような福音伝道によって多くの人が救いの道に入りました。

福音伝道は栄誉を受けることもあれば辱めを受けることもあり、好評を博すこともあれば、悪評を浴びることもありました。キリストの福音宣教は、人々をだましていると言う人々がいるが、そうではない。わたしたちは誠実に福音伝道をしています。わたしたちの伝道は無視されているように見えることもあるが、多くの人が主イエスの福音に出会い、愛を知り、イエス・キリストを信じた。死にそうになったこともなんどもあるが、生きて福音を証ししている。悲しんでいるように見えるかも知れないが、実は喜んでいる。何も持たない無一文のようだが、多くの人々が豊かになり、自分たちも豊かになった。

パウロは、福音伝道は、良い時も悪い時も含めすべてが神から与えられているのであり、恵みだと言っているのです。

先ほど言いましが、恵みとは、人を幸せにし、人を喜ばす神からの贈り物です。しかし、現実の人生では、不幸な目に遭うこともあり、悲しむことも多くあります。とても神の恵みを受けているとは思えないことに遭遇します。
先週、西日本は水害に見舞われ、多くの人が亡くなり、多くの家屋や自動車を失い、生活が破壊されました。まさに人生の危機です。パウロは人為的な危機を経験しましたが、わたしたち日本人は、地震、津波、大雨による水害、がけ崩れなどの自然災害という危険の中で暮らしています。このようなことが恵みと誰が思うでしょうか。災害にあった人に、あなたは恵みを得ましたね、などと言ったら、激しい怒りを買うでしょう。家族を失った方に、それも恵みです、と言うことができるでしょうか。家を失った人に、家を失ったのは恵みですよと言うことができるでしょうか。

言う必要はありません。言わないほうがよい場合が多いでしょう。特に突然の出来事に放心し、悲しみ、苦しんでいる人に、恵みですと言う必要はありません。しかし、わたしたち神を信じる者は、執り成しの祈りができます。今はとても恵みとは思えないことですが、どうぞこの出来事が恵みとなりますように、悲しみが喜びに変わりますようにと祈ることができます。今はわからないことも、いつか解かれる日が来る、と信じて、忍耐して待つのです。神は必ずその大きな力によって、悲しいことも、辛いことも恵みであることを教えてくださるでしょう。その日こそが救いの日になるのです。

パウロが引用したイザヤ書で「恵み」と訳されている言葉は、ラーツォーンというヘブル語ですが、「受け入れる」という意味を持った言葉です。聖餐の式文の中にも「時が良くても悪くても」という言葉があるように、神の業、それがわたしたちにとってよいと思われることであっても悪いと思われることであっても、受け入れることが恵みなのです。どのようなことでも、どのような状況でも、神の業を受け入れる、そのことでわたしたちは恵みを知ることができるのです。神という存在は、あまりにも大きく、わたしたちには、そのすべてを知ることができません。しかし、聖書が証ししているように、すべては神の恵みであると信じ、感謝し、喜びをもって神の業を受け入れる、そのような豊かで強い信仰を恵みとしていただけるよう、神に節に祈り求めましょう。