2024年2月16日 古い約束と新しい約束 小田哲郎伝道師

(要約)イエスは律法に愛に基づく新しい解釈を加え、律法に示された本来の神さまの意図を伝えました。そして「律法と預言者」すなわち旧約聖書を通して示された神の救いの計画がイエスによって実現されました。私たちは律法を守ることによって永遠の命を得るのではなく、イエス・キリストを通して示された神の真実、キリストの真実によって救われるのです。

(説教本文)マタイによる福音書5章17-20節

 私たちの教会では年初の礼拝で十戒を一緒に唱えました。この中にも毎日主の祈りを祈る人はいても、毎朝起きたら十戒を唱えるという人はいないかもしれません。「十戒」と「主の祈り」「使徒信条」を三要文(さんようもん)と言ってキリスト教では伝統的に大切にしてきましたが、「主の祈り」と「使徒信条」は毎週の礼拝で唱えるのに、「十戒」は年に数えるほどしか唱えないのが実情です。
 主なる神がイスラエルの民を奴隷の地エジプトから導き出した後、モーセを通してご自分の民に与えられた神の命令が十戒です。旧約聖書には、その十戒以外にも、さまざまな掟があり、それらをまとめて「律法」と呼びます。これを守れば幸せに生きられるという道を教えるもので、律法には十戒をはじめ613もの教えが含まれていると言われます。
使徒パウロが律法は行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるとかキリストは律法の終わり(10:4)とローマの信徒への手紙でも言っていますし、私たち現代のクリスチャンも、旧約聖書、特に律法についてはどことなくネガティブなイメージをもっていたり、そうでなくても関心も薄くあまり重要視していない人が多いようです。

 しかし、イエスは弟子たちに向かって「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するのではなく、完成するために来たのである。」と言います。イエスが生きた時代イエスや弟子たちを含むユダヤ人は律法を非常に大切にして生きていたことは確かです。特に律法学者やファリサイ派と呼ばれる人たちは律法を研究し、律法をすべて守り、それ以上に清さを保つことを大切にしてローマ帝国という異民族の支配の元で神に選ばれた民としての純血を守り男子には割礼を施し、食事規定を守り、神殿の祭司のように所作にも誤りがないように生きていました。一般の人たちも、安息日を守り、安息日にはシナゴーグと呼ばれる会堂で礼拝し、過越祭、五旬祭、仮庵祭の三大祭りの時にはエルサレムの神殿に巡礼するなどの宗教的生活を守っていましたし、食べてはいけない豚肉を食べることもありませんでした。

 律法は嫌われるものではなく、尊ばれるものであったことは今日の賛美交読にあった詩編119編にもある通りです。詩編119編はヘブル語のアルファベットの数え歌のような詩で、詩編の中で一番長い詩なので今日読んだところから一部だけ取り出してみます。
 「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は
  いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、心を尽くしてそれを訪ね求める人は
  憐れんで、あなたの律法をお与えください。
  あなたの道に従って、命を得ることができますように。
  わたしはあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう」
と律法を愛しているとまで言います。

 では、なぜイエスはわざわざそのようなことを言うのでしょうか?それにはこの言葉の置かれている文脈を見てみる必要がありそうです。5章から7章までは「山上の説教」というイエスの弟子たちに対する教えが語られます。最初に「幸いなるかな、心の貧しい人々は」で始まる8つの祝福「幸いなるかな、平和を実現する人々は」を含む祝福の言葉からはじまり、真ん中には「主の祈り」があります。今日の箇所5章17-20節の後を見ていただきたいのですが、小見出しがある毎に21節「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。27節「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」と、このように「あなたがたも聞いているとおり~」と言って十戒や他の律法について言及したあとに「しかし、わたしは言っておく」とそこに新しい意味づけをイエスは行います。21節は十戒の第6戒の「殺してはならない、27節は第7戒の「姦淫してはならない」、31節は申命記24章にある再婚についての規定、33節、38節、43節はレビ記に書かれている掟です。特に最後の「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。とあるのはイエスの示した、隣人愛を全く新しい解釈をしていると言って良いでしょう。

 このようにイエスは律法を新しく解釈し直し、本来の律法の意味、それを与えた神の意図を伝えたのです。これを聞いた弟子が、古い律法を廃棄したのだと誤解しないように、そして群衆がイエスを古い宗教を切り捨て新しい時代を切り開く救世主なのだと勘違いしないようにとのメッセージとして「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するのではなく、完成するために来たのである。」と言ったのです。続いて「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え失せることはない」というのです。

 ちょっと余談ですが「律法の文字から一点一画も」という印象的な言葉があります。日本語にも「一点一画もゆるがせにしない」という妥協しないという意味の言葉がありますが、聖書のほうは旧約聖書の律法が書かれているヘブル語のアルファベットのヨッドというのが小さい点にしか見えない文字でこれを点と言います。画というのは角という意味もあるのですが、ヘブル語のダーレットという文字レーシュという文字は英語アルファベットのLを横にしたような文字ですが、角があるのがダーレット、角がなく丸みを帯びているのがレーシュと紛らわしいのです。(余談ですが詩編119編をみるとアルファベットの読み方があります。)

 山上の説教の最後7章28節には「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあるように、みんなが驚くような革新的な、新しい律法の解釈をイエスは権威をもって教えられたのです。そして、それはイエスが律法学者のような教師として道徳的な教え、日本で言えば「みんなで協調するため社会のルールは守りましょう」とか「他人に迷惑をかけたらいけない」的な教えを教えたということではなく、神の子つまり救い主メシアの権威をもってメシアらしく世界を刷新する、人々の考えと行いを逆転させるような力ある言葉をイエスは伝えたのです。

 ここでマタイによる福音書が伝えるもう一つ重要なことは、イエスが「律法と預言者」を完成させると言っていること、そして天地が消え失せるまでという言葉でこの時代の終わりと「天の国」つまり神の支配の完成の時の到来を指し示していることです。「律法と預言者」ということで旧約聖書全体を意味しますが、それは聖書に示される神の救済の計画、人間を救う造られた世界全体、被造物を救う計画の完成として救い主メシアとしてイエスが遣わされたことです。その神の子であるメシアの権威によって新しい解釈がなされた律法は、それまで律法学者が研究し、ファリサイ派がそれ以上に細かい規定をつくって厳格に守ることで永遠の命に至れると思っていた律法、本来「心をつくし、精神を尽くし、思いを尽くして神である主を愛する」こと、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」というこの二つの大原則に集約されるものだとイエス自身が言っています。律法の文字に表された決まりを守ることで永遠の命を得られると考える律法学者やファリサイ派とは違って、イエスは神を愛し、隣人を愛するという実践を弟子たちに求めました。敵を愛せよといったイエスはその後で「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言います。これは20節の「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言っていることと重なります。

しかし、そんなことができるのでしょうか?自ら律法学者でありファリサイ派でもあったパウロは復活のイエスに出会って、イエスの福音に出会って変わり、こうフィリピの手紙の中で述べています。新しい聖書協会共同訳で読みます。
 フィリピの信徒への手紙3章 5-9節
「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
 そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。(新共同訳では「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」
 というように律法から生じる義で律法学者やファリサイ派に勝ることなど弟子たちには到底無理ですが(私たちは異邦人なのでそもそも前提が違うのですが)、しかしキリストの真実による義を与えられるということ、つまり私たちを救おうという神のキリストを通して実現したという神のキリストにある真実によって私たちが義とされる。救われるということです。永遠の命に与ることができるということです。

 今、新しい聖書の翻訳でご紹介したのですが、翻訳というのは原文の解釈が時代によって異なることを現しています。聖書の原文のヘブル語やギリシア語は「一点一画も消え失せない」という書き間違えてはいけない書き加えてはいけないという写本の伝統のなかで、印刷技術ができるまでかなり正確に書き写されて広がっていきましたが、それでもいくつか写本によって読み方が違うものもありどれを正しいとするかの研究や、その時代の言葉の使われ方の研究から意味をどう取るかが変化することがあります。そういうものですので、「一点一画も」と原理主義的に聖書の文字通りの意味を時代背景や文脈から切り取って振り回すのはどうかと思われます。アメリカでも大統領がかわってLGBTQの人たちが苦しい思いをしていますが、その背景にも聖書の言葉を用いて同性愛は罪だと主張する福音派の圧力があります。イエスの正しい解釈、すべての人を救おうとする愛の解釈からして、本当に罪だと律法は言っているのでしょうか?律法を振りかざして人を苦しめること疎外することは、律法学者やファリサイ派のやっていたあやまち「律法主義」であり、イエスのそれを超越する律法の愛に基づく解釈、罪人だと社会から疎外されている人たちに会いに行き受け入れるという愛の行動とは反するのではないでしょうか?

 マタイによる福音書では「天の国」と表される神の国、神の支配の到来に向けてイエスはこの律法の人々が驚くような新しい解釈を与えました。それは旧約聖書に示されている神の救いの計画の実現、神の国がイエス・キリストという救い主、神の子メシアによって到来したことを告げるだけではなく、信じる者が新しいイスラエル、神の民、真の人間として、この世界の常識や道徳ではなく、神の与えた律法に従う新しい生き方をすることです。神の国の住民として生きることです。これは2000年前にイエスが言ったこととして、自分とは関係ないように扱えるような言葉ではなく、まさに今わたしたちがこんな敵意と争いに満ちた世界ではなく、神の愛の支配する平和な世界をつくりだそうと祈り、生きるときに私たち自身を作り変える言葉です。それが聖書に記された神の意志を告げる御言葉です。
 教会は信仰共同体と言われます。神を礼拝する共同体です。共に聖書を読み聖書の御言葉に聞き従う共同体です。私たちも、聖書の御言葉を聞くとき、驚きます。その古くさい古代人の迷信に満ちた考えに驚くのではありません。イエス・キリストが告げ、十字架にかかることで成し遂げた救い、私たちの常識ではとても考えられないような革新的な愛の行いが私たちを驚かせるのです。その聖書の御言葉に従って生きようとするとき、聖霊の助けによって、この世界に神の愛の支配する神の国が広がっていきます。そのように生きるようにと聖書は私たちに語りかけるのです。