2024年2月23日 イエスも驚く信仰 小田哲郎伝道師
(要約)イエスさまはこのまとわりついてくる女性の信仰に驚き、そして態度を変えました。この女性はイエスが救い主であること、神の救いは確かであると信頼しています。そして神さまと向き合って格闘する単純で確かな信仰をイエスは褒め、そして報いとして癒やしを与えました。
(説教本文)マタイによる福音書15章21-31節
今日の聖書箇所の最後のところを読むと「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口のきけない人、その他多くの病人を連れてきて、イエスの足下に横たえたので、イエスはこれらの人々を癒やされた。」と、障がい者や病人を治癒したことが書かれています。イエスは医者だったのでしょうか?リハビリを行う理学療法士だったのでしょうか?あるいは心霊治療を行う霊術師だったのでしょうか?これまで長年どんな治療を行っても治らなかった病気、医者からも見放された不治の病が治ったり、口のきけない人が話すようになり、足の不自由な人が歩き出したり、目の見えない人が見えたり。それは「奇跡」と呼ぶような信じられないようなこと、自然科学的にはあり得ないことミラクルだったでしょう。現代に生きる私たちの頭では、どうしてそんなことが起こり得るだろうか?とおもったり、それはマジックやイリュージョンのような種や仕掛けのあるもので、そう見えただけとか、タイでの心霊手術によくある詐欺のようなことなんじゃないかと思ったりします。聖書には奇跡物語は沢山あるのですが、ミラクル・奇跡と言う言葉はあまり出てきません。より多く「力ある業」であったり「しるし」という言葉が使われます。「不思議な現象」という言葉はありますが、それは力あるという言葉あるいはしるしと一緒に使われていて、「神の力、権威」であり「しるし」のほうに強調があります。このマタイによる福音書においても、「群衆はそれを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」とあるように、どうしてこんなことが起こるだろうかと考えたり、からくりはどうなっているだろうかと疑ったりするのではなく、イエスの行った力ある業を見てイスラエルの神を賛美したのです。神のなさった業と信じるのです。神への賛美、信仰へと繋がっているのです。このことはイエスが神の子、救い主であることを信じるかどうかにもかかっているのです。生まれ故郷のナザレでは、イエスは「あの大工ヨセフの息子ではないか」と見られ、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と13章58節でマタイは報告するのです。
さて、今日のメインの箇所です。イエスはガリラヤ湖を中心とする地域で主に宣教活動をされていましたが、エルサレムから来たファリサイ派や律法学者たちから嫌がらせや攻撃を受けた後、ティルスとシドン地方に退かれました。ティルスとシドンというのは、聖書の後ろにある聖書地図6の新約聖書時代のパレスチナという地図をみるとガリラヤより北西のフェニキア地方の地中海に面した町です。その地方をイエスと弟子たちが歩いていると「カナン人」とも呼ばれるフェニキア人の女性がイエスに近寄ってきます。
最初は、イエスは何も答えずに叫びながら付いてくるこのカナンの女を無視しようとします。次には「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と弟子に向かってイスラエルの家、ユダヤ人に神の国を伝えることが自分の使命だと言って、この異邦人、外国人の女に取り合おうとしないわけです。でもこのカナンの女はイエスを「主よ」と呼びます。「ダビデの子よ」とイエスが力ある業をなす神の子、救い主と理解して「ダビデの子よ」というのです。
「ダビデの子よ」という呼びかけに、イエスは反応したかもしれません。まだ弟子でさえ、イエスがあの預言者であるのか、新しいタイプの律法の教師であるのか、革命家なのか、救い主かわかっていない時に、この異邦人の女性は明確に「ダビデの子よ」とユダヤ人たちが待望しているメシアだとイエスを理解しているのです。
彼女はどんなにむげにされてもイエスに食い下がります。弟子たちが、あっちへいけと追い払おうとしても、イエスの前にひれ伏して「主よ、お助けください」とすがりつきます。極めつけは、イエスが「自分の子どもたち」つまりイスラエルの民、ユダヤ人に対する「パン」である福音を取り上げて、「小犬たち」あるいは「犬ども」と蔑視されている異邦人にあげるのはよくない、というと、そのて女性は「犬だなんてひどい」「私は、娘は小犬ではありません」と反論するのではなく、「主よ、ごもっともです。」と謙虚にそれを受け入れます。「でも」と、女性はイエスの言葉尻をとらえて、機転をきかせて言います。「小犬だって、主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」聖書にかかれている福音のおこぼれにはあずかります。それくらいあなたの伝えている福音はテーブルからこぼれ落ちるほど豊かにあふれ出ていて、そのパン屑ほどのものでも救いをもたらすでしょう。小犬だってテーブルから落ちたパン屑はいただきます。と切り返すのです。
これにはイエスも参りました。考えを変えました。一本取られたという思いもあったでしょう。でも何より、この女性が「主よ」「ダビデの子よ」と呼び、救いが確かにこの方から来ると信頼する信仰をイエスは見抜き「女よ、あなたの信仰は立派だ」と言うのです。女性のその信仰のあり方がイエスの態度を変えたのです。まるで旧約聖書の創世記にある、イスラエルと新しい名前を付けられるヤコブが神の祝福をもらうまでは離さないぞと、神と格闘したことを思い起こさせます。それほどの神との、イエスとの人格的な、存在をかけての信仰の取っ組み合いこそがイエスが褒める、神さまが祝福を与える信仰なのです。あのエルサレムから来たファリサイ派や律法学者が人前で長い祈りを祈ったり、律法の一つも犯さないと見せかけの信仰によって自分たちこそが真っ先に救われると思っている、そのような『篤い信仰』、『強い信仰』ではなく、このカナンの女性のようにイエスの救いを確信し信頼する信仰こそが、自らをそして家族を救ったのです。イエスは「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と女性に声をかけます。ファリサイ派や律法学者のように女性が自分の信仰を立派だとか、素晴らしいとアピールしたのではありません。イエスがこの女性の神への信頼、救い主イエスへの信頼を立派な信仰と言い表したのです。女性の信仰には救い主イエスへの信頼以外は何もありません。どうしたら救われるかを求めて聖書を端から端まで一生懸命読んだわけでも、娘の病気が治るようにとお百度参りのように神殿での祈りを欠かさなかったというのでもありません。
「あなたの願いどおりになるように」とイエスが言い、その時、娘の病気は癒やされました。イエスの言葉によって、治ったのです。願いが聞かれました。この女性の信仰への報いとして。
これはイエスが奇跡を起こしたということに注目した物語ではなく、イエスが立派と呼ぶ信仰とは何かを私たちに教えます。それは人前で立派な祈りができるようになることでも、聖書の知識がいっぱいあることでも、他人から立派な教会のリーダーだ、自分を犠牲にして他人に尽くす素晴らしい人格者だと見られることでもないのです。どこまで神の救いに信頼を置くか、イエス・キリストを通しての救いが確かだと信じることにつきます。
また、自分が病気であったり家族が病気で祈って祈っても治らないのは自分の信仰がダメだからだと思う必要もないのです。聖書にかかれた癒しの奇跡は「しるし」です。神の国が近づいた徴候、その神の国がどんなものであるかを見せてくれるものです。救いは今この世で実現するのではなく、神の国、神の支配が完全になったときに私たち信じる者に起こることです。病や苦しみのない世界になるのです。旧約聖書にはイスラエルから救いが始まり、そして異邦人へと広がるとある通りに、イエスもまずイスラエルからだと自分の使命を理解していたから、女性にあのような冷たいとも思える言葉と態度をとったのです。そして、イエス・キリストの十字架と復活によって教会が新しいイスラエルとなりました。教会から、つまりイエス・キリストを信じる者から、救いは広がっていくのです。本当にイエスは神の子、救い主だと信じる信仰、救われたのは私だけでなく、家族を全ての人を救ってくださる神を信頼する信仰によって、教会から外の世界へと神の支配、神の国は広がっていくのです。私は今もイエス・キリストの名によって病気が癒やされることは信じていますが、それは祈る人の信仰の度合いでも信仰的な生活態度のテストの結果でもありません。神の自由な意思によって起こることです。神に信頼し、イエス・キリストの名によって祈って病気が癒やされた、奇跡をみせていただいた人が、そのことに驚きそして神を賛美するためです。そこから神の国が広がっていくのです。