2025年10月12日 働かざる者、食うべからず? 小田哲郎伝道師
(説教)テサロニケの信徒への手紙二 3章6-13節
先週は大きなニュースが色々とありました。国際的にはパレスチナ、ガザ地区でのハマスとイスラエルの停戦合意によって少し希望の兆しが見えました。日本国内では自民党総裁選挙で高市さんが新総裁に選ばれ、公明党が連立を解消したために次期首相がどうなるのかわからなくなってきました。そんな中で10日に出された退陣を前にした石破総理の最後の仕事として「戦後80年所感」が、閣議決定される談話ではなく、首相としての個人的な所感として発表されました。
本日の説教題「働かざる者、食うべからず?」というのは、何も高市さんが新総裁に選出されてすぐに「働いて、働いて働く」と馬車馬宣言し「ワーク・ライフ・バランス」を捨てるということ言って批判を浴びましたが、それを予言して付けたわけではありません。最後にクエスチョンマークを付けましたが、もちろん聖書は「働かざる者、食うべからず」と言っているわけでも、また馬車馬のように働くのが信仰の証しだと教えているのでもありません。
本日の聖書箇所テサロニケの信徒への手紙二の3章10節には「働きたくない者は、食べてはならない」(新共同訳)、あるいは新しい聖書協会共同訳では「働こうとしない者は、食べてはならない」とあります。病気や障がい、介護など様々な理由で働きたくても働けない人に向かって、働かないなら食べてはならないと言っているのではありません。
この「働かざる者、食うべからず」という言葉を広めたのはソ連の初代指導者レーニンだと言われていますが、レーニンは労働者を酷使して不労所得を得る資本家を戒める意味で言ったようです。それがソ連のレーニンが定めた憲法にも「労働を共和国のすべての市民の義務であるとみとめ、『はたらかないものは、くうことができない』というスローガンをかかげる。」、あるいはスターリン憲法に「労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力あるすべての市民の義務であり、名誉である。」という風に明記されました
日本の憲法にも代27条に「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」と、労働の権利と並んで義務が記されていますが、これは聖書からきているのではなく、二宮尊徳(金次郎)の「報徳思想」から来ているという説があります。
共産主義社会だけでなく西欧の資本主義社会においても、宗教改革者のルターやカルヴァンは労働を神からの召命、職業を天職としてえ勤勉に働くことが神さまの意思にかなったことだと教えていることが、思想や価値観の根底にあります。
ここで、このテサロニケの信徒の手紙では何が本当に言われているのかを一緒に見ていきたいと思います。
テサロニケの信徒への手紙には一と二がありますが、一はパウロの書いた手紙の中でも最も早い時期に書いたと言われます。私たちが手にしている新約聖書には27の文書がありますが、その中でも一番早く書かれたもの、書かれた年代順になっていればマタイによる福音書ではなくテサロニケの信徒への手紙一が最初に置かれていたことでしょう。紀元50年くらいにこの手紙は書かれたといいます。イエスの十字架と復活・昇天、ペンテコステの出来事から約20年経っていました。最初期のクリスチャンたちは、イエス・キリストが再び来るという約束、天に挙げられる時に再び同じ姿で来るという天使の言葉を書き記す使徒言行録1章や福音書にイエスさま自身が終わりの時に再び来られると発言されてることを信じていました。そしてパウロもⅠコリント16:22にアラム語で「マラナ・タ(主よ、来てください)」という言葉を書いているように、最初期からのアラム語での祈りの中でいつも祈っていたのです。主イエス・キリストが再び来た時にこの苦しみに満ちた世界が終わり、新しい天と地、喜びに満ちた神さまが完全に支配する時が始まるのだと信じていました。パウロもテサロニケの信徒たちも自分たちが生きている間に、その事が起こることを期待していたのですが、それが待てど暮らせどやってこない。そのうちにテサロニケ教会の信徒の人たちの中にも死んでいく人たちがいて、イエスさまが再び来る再臨をまたずに死んだ人はどうなるのだろう?復活するのだろうか?と不安になったのです。それでパウロはこの手紙に「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないでください。」と書き、「主が来られる日まで生き残るわたしたちよりも先にキリストに結ばれて死んだ日とたちが復活し、それから私たち生き残っている者が天に引き上げられいつまでも主と共にいることになります」というのです。パウロはフィリピの信徒への手紙でも「主は近い」と言いますし、自分が生きている間に主が来られる、終末は近いと信じていたのです。
私たち、現代に生きるクリスチャンにとって、主イエス・キリストが再び来られる再臨ということ、その終わりの時をどれくらい真剣に考えているでしょうか?正直よくわからない、という方も多いのではないでしょうか?しかし、わたしたちが抱く希望は、この終末を無視しては希望になり得ないのです。
テサロニケの教会の信徒たちの中に蔓延していた、死んでも本当にこの体は復活するのだろうかという不安や、終末はいつ来るのだろうかキリストが再び来る時はいつなのか?という疑問に対して、パウロは「兄弟たち、その時と時期についてはあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やってくるように、主の日は来るということをあなた方自身よく知っているからです。」と言います。盗人が来るように突然やって来る、だから目を覚ましていなさい、神さまの前に正しい生き方をしなさいと、イエスさまがおっしゃったのと同じことを伝えるのです。そんなテサロニケ教会に、今度は「キリストは既に来た、主の日は既に来てしまった」と言って惑わす人たちが入り混み、その言葉に耳を傾ける信徒が出てきたので、パウロは第二の手紙を書き送ったのです。
ここで問題にされているのは3章の6節、7節と11節に出てくる「怠惰」ということです。もう終わりの時、主の日が来ているのだから汗を流して働いて稼いでも仕方がない。あとは神さまの裁きの前に出るだけだと思ったり、もうキリストに結ばれて救われているから大丈夫、問題ない、と言ってこの世での責任を放棄してしまうような人がいたというのです。それで働きもせず怠惰に生活しているということが、パウロの耳にも入ってきたのです。「怠惰」と言っても、働かずゴロゴロしてスナック菓子でも食べながらテレビを見ている、あるいはスマホで動画を見ているようなダラダラしているところを想像してしまいますが、そうではありません。11節に「少しも働かず、余計な事をしている」とありますが、別の訳では「無駄なことをしている」「お節介ばかり焼いている」者がいると、もう主の日が来たのだからと触れ回って、他人の行いや生活について口出ししたりという余計なお節介を焼いているという、バタバタしている様子がうかがわれます。
パウロはそんな人たちに惑わされずに、まだ主の日は来ていないのだから、一日一日やるべき責任を果たして、しっかり生きなさい。キリスト者としての神さまに正しいと言ってもらえるような生き方をしなさいというのです。そして仕事もせずバタバタ余計なお節介をしてまわって、その上食事は他の人の世話になっている教会の中の人たちに対して、パウロは「主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」と。これは、単に責任を果たしなさいというだけではないと思います。正しく終末の希望に生きなさいということだと、私は理解しました。
有名なドイツの格言に「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう」という言葉があります。皆さんの中にも聞いたことがある方も多いでしょう。キリスト教と何の関係の無い人も好きな格言として紹介しているのを見聞きしますが、宗教改革者のマルティン・ルターの言葉として伝えられています。明日、主の日が来るとしても、終わりの日が来るとしても、今日リンゴの木を植える。これが正しい終末への希望を持って、今を生きるということだと思います。良い言葉だと思いますが、じつはこれはルターの言葉ではないというのです。第二次世界大戦末期に使われ始めた格言で、東西ドイツ統一までの間、社会に危機的な状況が起こると、教会の中だけでなく広く社会で使われたと言います。冒頭で石破さんの所感のことに触れましたが、あの方がクリスチャンだと感じたのは、もう退陣することがわかっているのに、最後まで為すべきこと放棄しなかったことです。英語ではレームダックと、選挙で敗北してただ任期の終わりを待っている議員や大統領のことを権威も求心力も失った「死に体」揶揄しますが、石破さんもレームダック状態ではあるにせよ、「戦後80年の所感」を党内の反対がある中でも出してなぜ戦争に突入することを止められなかったのかを問うたということです。
この21世紀に入ってからも全世界を巻き込む核戦争の脅威があり、中東での争いがあり、干ばつや洪水、地震による自然災害が頻発すると、聖書に描かれている終わりの時の徴ではないかと思ってしまうことがあります。そして、不安に陥るのです。カルト宗教団体はその恐怖心をつかって「救い」の道を示してカルト団体に取り込もうとします。また、何年何月何日に世界の終わりが来ると予言して、社会を混乱させる人々もでてきます。
しかし、イエスさまが教えるように世界の終わりの徴として、そういう「わたしがメシアだ」という偽キリストが現れて多くの人を惑わしたり、戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くのです。飢饉や地震が起こるのです。でも、それは、まだキリストの再臨の時ではないのです。だから慌てたり、不安になったり、恐怖に支配されて生きてはいけないのです。イエスさまが「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイ24:36)というように、それはいつやってくるのかイエスさまだって知らない、父なる神さまだけが知っていることで、いつ来るのかを詮索したり、計算したり、うわさを信じたりしてはいけません。
「世界終末時計」という核戦争などによる人類の滅亡を真夜中0時として、そこまであとどれだけ残っているかを示して世界に警告を発している原子力科学者の会があります。1947年に7分前からはじまり、ソ連崩壊により冷戦終結の1991年には17分前にまで戻りましたが、現在2025年が89秒前とこれまでで一番0時に近くなっています。核の脅威だけでなく、中東情勢や地球温暖化も考慮にいれられているということで、今までにない危機の時代にあると言えるでしょう。そんな中でも、聖書は終わりの時の希望を持って生きなさいと言います。
終わりがあるこの世界の先にある、終わりのない永遠の世界、神さまが完全に支配して平和で喜びにあふれる世界、神の国が今は天にあるだけですが地に降りてくる。新しい天地創造によって「すべてが良い」という中で私たちも復活の命に生きられるというのです。それは危機を軽視して楽観的に生きることでも、もうこの世は終わるのだから何やっても意味がないと刹那的に生きることでもありません。神さまに与えられたこの世での命を毎日一生懸命神さまの栄光を顕す、わたしたちを救うためにイエスさまを送ってくださった神さまの愛を信じ、自分が永遠の命に生きるだけでなく必ずこの世界全体を救ってくださることに希望をおき、神さまから受けた愛をもって隣人をも愛し希望を伝えていくということです。
パウロはこのテサロニケの信徒への手紙でも何度も信仰、希望と忍耐、そして愛という言葉を繰り返し宣べ、そして彼らが使徒たちの教えに従って生活するように、他の教えに惑わされて道を外れてしまわないようにと勧め、聖霊の助け、主イエス・キリストと父なる神が心を励まし、信仰を強め、神さまの目に善い働きと、人を愛する善い言葉を語るものとしてくださるようにと祈ります。
ロシアとウクライナの戦争での核の脅威の高まり、中東でのイスラエルによるガザの破壊行為やイランへの攻撃、そしてこの異常気象の原因である気候変動・気候危機を目の当たりにして、終末は近いと思わざるを得ない私たちも、「たとえ明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」という思いで、うろたえることなく聖書の示す喜ばしい終わりの時の到来を信じ、希望と愛の種を植え続け、日々の業に励みましょう。