2025年10月19日 召天者記念礼拝 天国に市民権を持つ者 小田哲郎伝道師
(説教)ヨハネの黙示録7章9-17節
本日は召天者記念礼拝として礼拝を捧げています。キリスト教では信仰をもって、クリスチャンとして亡くなった方を召天者とか永眠者と呼びますが、召天者とは神さまに呼ばれて天、神さまのところに行って安らかにこの世の先の命を生きている人たちという意味です。永眠という言い方もしますが、永遠の眠りについたわけではなく、永遠の命を生きているのです。
このようにして先に天に召された信仰の先達のお写真を前に並べて、目に見える形で先に召された方も、まだこの世界での命を生きている私たちも共に礼拝していることを感じたいのです。このように写真を並べない普段の礼拝においてもこの地にある私たちと、すでに天に入れられた信仰者が共に礼拝している、そのような信仰者の交わり、聖徒の交わりを私たちは信じています。ですから、亡くなった故人の写真を置いて亡くなった家族を偲ぶために集まっているのではなく、信仰をもって亡くなった方とそのご家族と一緒に神さまに礼拝を捧げることで、信仰をまだ持っていないご家族にも大きな教会の家族、神の家族の交わりに加わっていただいているのです。
礼拝後にこの教会員であった召天者の方々を写真を見せながら約50名ご紹介いたします。写真はなくても私の手元にあるリストにはこの教会で葬儀をおこなったり、教区墓地に納骨した方を含め約70名の方が名前を連ねています。写真にあるのはいつもの礼拝出席者と同じくらい、リストにあるのはこの教会に現在会員として名前を連ねているのと同じくらいの人数です。倍の人たちと共に礼拝をしていると言って良いでしょう。
本日共に聞きました聖書の箇所、ヨハネの黙示録には天の上での礼拝の様子が描かれています。あらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民からなる大群衆が、白い衣を着て、手にはイエスさまをエルサレムに迎えるときに人々がやっていたように棕櫚(なつめヤシ)の枝をもって、「玉座」であらわされる父なる神と「小羊」で表される子なるイエス・キリストの前に立っているのです。
これは長老ヨハネが神さまから見せられたすばらしい天国の光景を、なんとか言葉で伝えようとしているのですが、受けとめることができるでしょうか?なかなかビジュアル的に想像するのは難しいかもしれません。では、こうして考えてみてはいかがでしょうか?私たちの今生きている世界と対比してみる。比べてみるのです。
私たちの世界は国と国との争いが絶えず、一つの国の中でも分断されているということを私たちは嫌というほど知っています。しかし、天の国ではあらゆる国民、民族、言葉の違う人々がみんな一つになって、同じように白い衣を着て一緒に「救いは神とイエス・キリストにある」と高らかに宣言するのです。この世では、私たちの生きる社会では「救いは神にある」と言ってもなかなか真剣に取り合ってもらえません。いやいや、現実的に考えましょう。そんな他力本願ではなく、どうやったら自分の力で、自分の足で立てるようになるかを。困難の中にいるのは自業自得じゃないの?自己責任でしょ。そんな神頼みではなくて、汗を流して働いて、もっと勉強して、そして自分の力で向上していくべきではないですか。そんな声が聞こえてきそうです。しかし、天の上で白い衣を着ている大勢の人たちはこの地でも「救いは神にある」と大真面目に信じていて、もしかすると周囲から馬鹿にされたり、あきれられたりしながらも信仰を貫きとおしたのです。この世ではそんな生き方をするのはフツウではなく、マイノリティでしたが、天の国ではそんな人たち、大声で「神の救い」を喜ぶ人ばかりなのです。
このヨハネの黙示録が書かれた当時は、キリスト者に対する迫害が過酷でした。ローマ皇帝を神の子として崇めることを拒んで、多くの殉教者がでました。白い衣はその苦難によって血で汚れた人たちが、イエス・キリストの血で洗われて白くなったというのです。そんな酷い目に遭うなら、イエス・キリストを捨てる、神を信じることを止めるといって難を逃れるのではなく、どんなに苦しめられても本当の神さまは信じる私を救ってくださると信じて、信じることを止めなかったのです。そしてこの地上では苦しんでも、天の上で喜びに満たされ永遠の命を生きているのです。
キリスト教の殉教者はこの聖書が書かれた時代のローマ帝国だけではありません。この日本でも20万人のキリスト者の殉教者が出たと言われております。17世紀のキリシタン迫害です。遠藤周作の小説「沈黙」がマーティン・スコセッシ監督によって映画化されましたが、その中でキリシタンが煮えたぎる釜の中で殺されていくシーンがあります、「パードレ・神父さま、わたしたちはこの苦しみの後パライソ・天国に行けるのですね?」と言いながら死んでいく人たちが描かれ、海に建てられた木の杭(十字架)に縛り付けられ潮が満ちて溺れ死んでいくというような拷問のシーンがありました。幕府によってキリスト教が禁教とされて信仰を捨てることを迫られ、それを拒否して命を絶たれる者もあれば、隠れて信仰を守り続けた人々もいました。かつて隠れキリシタンと呼ばれ、今は潜伏キリシタンと言われますが、世界遺産になって有名な長崎、天草地方や九州だけでなく日本全国に迫害を恐れながら密かに信仰を守った人たちがいました。後ほどご紹介する私たちの教会員でもあった召天者の中にも潜伏キリシタンの流れを汲む家の出身でプロテスタント教会で洗礼を受けた方もあります。日本の20万人の殉教者もこの聖書に描かれている白い衣を着た多くの人々、世界各地から集まった大群衆に含まれているのです。
現代においても他の宗教が国の宗教となっている国々や社会主義国でキリスト教信仰の故に迫害されている人々がいます。私もイラン出身のクリスチャンで迫害を恐れて難民申請している人に出会ったり、ラオスで働く宣教師から村ごとクリスチャンの村が焼き討ちにあった話を聞きました。信教の自由が保障されている日本では、命の危険を感じることはありませんが、その信仰が家族にも理解されず、また集落の共同体の中で「変わり者」として浮いた存在として見られているということはあります。今日お集まりのご家族の中には天に召された家族のことを、どうしてそこまでして毎週日曜日に教会に行くのだろうか、どうしてそんなに真面目に2000年も前に書かれたイエスの言葉や教えに従って生きようとするのだろう?そんなことしても得することもなく、社会一般とは違った方向に行くのではないいかと思われた方もあるかも知れません。
それは、この天の国の群衆に加えられることを信じていたからと言って良いでしょう。そこではこの世界では罪に汚れた服も小羊キリストの血によって白くされる。罪といっても何か犯罪を犯したわけではなく、神さまの望むようには必ずしも生きられなかったことをすべて赦してもらえるということ。そして玉座に座っている神さまが幕屋という神殿に招いてくださる、つまり天国に招いてくださるのです。そこではもう飢えることも、渇くこともなく、責められことも苦しむ事もなく、地上での苦しみを知っている神さまが、その涙をぬぐってくださるのです。この地での命を幸せに生きた人も、最後は病気などで苦しんだ人も、等しく神さまの前で苦しみも悲しみもない平安な命を生きるのです。
私たち信仰者は、そのような天の国のほうが本来の命を生きる場だと信じています。もちろんこの地上の命も大切で一生懸命生きます。天の国に本来の国籍があり、この地上での人生は旅人としての命だと考えます。その旅の人生が、旅の恥はかき捨てにならないように、真面目に、楽しみ、喜びをもって生きます。なかなかそれがうまくはいかないことも知っています。イエスの言葉に従うことも結構難しいのです。隣人を愛せと言われても難しい、自分を家族を愛することはできても、敵をも愛しなさいなんて無理だと思ってします。失敗しても、ダメでも救ってくださる神さまがいる。イエス・キリストの十字架はそんな私たちをも救ってくださる印なんだと信じているのです。天の国では、イエス・キリストが私たちを喜んで迎えてくださる。そのことを信じて、この地上で失敗しても、なかなかうまくいかない人生でも、苦しみや悲しみがあっても、本来の国に帰れば全てが良い喜ばしい命に生きることができるのです。私たちもそう信じて生きますし、先に天に召されたこの信仰の先達も今天の国で永遠の命に生きていらっしゃいます。そしてまだ信仰を持っておられないご家族にも、こっちの国はいいものだよ、あなたもこちらに住む市民権を取ったらどうだい?と呼びかけていらっしゃることと思います。今日はそんな皆さんと共に天と地で共に礼拝を捧げていることを喜び、主なる神に感謝しましょう。