2025年11月2日 カインとアベル 小田哲郎伝道師

(説教)創世記4章1-10節

先日、26年前に名古屋で起こった主婦、小さな子どもの母親が何者かに自宅アパートで殺害された殺人事件の犯人が警察に出頭したというニュースがありました。四半世紀以上も見つからなかった犯人がわかったこと、その犯人が亡くなった方の夫の同級生の女性で、事件後も近くに住んでいたことを知り、執念で探し続けた家族の気持ちのやっとという気持ちと同時に、この犯人の女性がどのような気持ちでこの年月を過ごしていたのだろうかとも思いました。

 本日の聖書箇所は、人類最初の殺人事件とも呼ばれる箇所です。先週に続き創世記の物語です。土の塵(アダマ)から造られ神の息を吹き入れられて生きるものとなった人(アダム)に、向かいあって生きるパートナーとして神さまは女を造られました。3章では蛇にそそのかされて神さまにこれだけは食べてはいけないと命じられた「善悪を知る木」の実を女とアダムが食べてしまった有名な物語があり、そしてアダムと女エバはエデンの園から追放されました。
 
 その後、アダムとエバには子どもが生まれました。「私は主によって男子を得た」と喜びますが、この男の子にその「得た」という意味のカインという名を付けました。そして、エバはまた弟となる男子を産み今度は風とか虚無という意味のアベルという名前を弟につけました。人類最初の兄弟(姉妹)が、仲睦まじい兄弟ではなく問題をはらんだ者であることを描きます。カインとアベルだけでなく、創世記の中で続く「エサウとヤコブ」の兄弟や「ヨセフと11人の兄弟」で繰り返される嫉妬と憎悪の物語は、私たちの兄弟姉妹の関係にも、もっと広い共同体の中での関係にも影を落としています。

 兄のカインは土を耕す者、農耕の民となり、弟のアベルは羊を飼う者、牧畜の民となります。それぞれに収穫の実りの初物を神さまへの献げ物として持ってきます。カインは穀物や果実を献げ、アベルはよく肥えた仔羊を献げたところ、神さまは弟アベルの献げ物に目を留められたとあります。これは祝福という意味であり、アベルの牧畜が栄えた一方、見向きもされなかった兄カインの農業は不作となったことを意味します。なぜ、神さまは弟の献げ物に目を留め、兄の献げ物に目を留めなかったのか?
弟が正しく信仰の人で、兄は不正で不信仰の人であったからだとは旧約聖書には書かれていません。また、神さまは穀物より肉を好んだとも書かれていません。弟の名前のアベルが風や虚無を意味することから小さき者へ向かう神の慈しみの故だという解釈をする人もいますが、それもわかりません。私たちの思いや理解をはるかに超えて自由に働く神の意志によるものということで、受けとめたいと思います。たまたま、この時は仔羊を選び、穀物は選ばれなかった。それは、農業に豊作の年もあれば、どんなに努力をしても不作の年があるように、人生にも良いときもあれば、苦しい時期もあること、それがなぜなのか私たちにはわからないことと似ているのではないでしょうか。
しかし、目を留められなかったカインの心には「神さまはなぜ自分の献げ物には目を留めず、弟の献げ物に目を留めるのか?」という気持ちが湧き上がってきます。どうして選ばれるのは自分ではなく、あいつなんだ?自分は兄で、弟よりも祝福を受けて当然ではないか?という妬みの気持ちが起こります。激しい怒りに変わっていきます。

兄弟姉妹がいる人は経験するのではないでしょうか?「どうしてお兄ちゃんばかり、親の期待をされるのか?」「どうして妹ばかりそんなに甘やかされていい思いをするのか?」など家族の中で日常おこっていることです。そして社会でも、苦しい人ほど「あいつらばかり得して」という思いをいだかされる。妬みから怒りへと変わっていく。神さまを見上げることもできず、顔を伏せる。

  そんな私たちの心の中を、いやカインの思いの奥底までご存じの神さまは「どうして怒るのか?どうして下を向いているのか。もし、あなたの思いが正しいものであれば顔を上げて私を見ることができるはずではないか?」と問いつつ、神さまはすでにカインがその怒りから罪を犯すことをご存知で警告を発するのです。「正しくない怒りは罪に捕らえられてしまうぞ。人間を罪に陥れようとする悪は戸口に隠れて待っているのだ。だからあなたは自分のコントロールしなければいけない」
その神さまの警告に、カインの応答はありません。彼の心は決まっているのです。アベルの献げ物を選んだ、不公平な神さまへの文句や怒りではなく、自分が受けるはずの祝福を横取りしたかのように思える弟アベルへの憎しみへと向かいます。「こいつさえいなければ、神さまの目は、愛は自分に向かうはずだ。」カインはアベルを野原に誘い出し、野原に着いたときに襲いかかって殺したのです。
神さまの警告どおり、自分の怒りをコントロールできなかったカインは待ちかまえていた罪に捕らえられ罪に支配されたのです。

一部始終をご存知の神さまは、カインに呼びかけます。第3章で禁じられていた実を食べた後、園の中で神さまの顔を避けて隠れていたアダムに「どこにいるのか」と声をかける、探し求める神さまは、ここでも声をかけます。「どこにいるのか」しかし、今回は「お前の弟アベルはどこにいるのか」と。
しかし、カインは神さまの前から逃げようとします。言い逃れし、隠れようとします。「知りません。なぜ私が羊の番をする弟の番をしなければならないのですか」と言って。責任の放棄です。
しかし、神さまは知っています。アベルの血が土の中から神さまに向かって叫んでいるのです。

 名古屋の殺人事件が起こった現場のアパートを26年間借り続けた夫の執念もすごいのですが、アパートの玄関の床に残る血痕が映し出されたとき、妻の血が叫んでいるように思えました。アベルの血のイメージが重なりました。ことさら「血」に宗教的意味を見出さなくてもよいでしょう。具体的な罪の現れを示しています。人が人を殺したのです。命を終わらせたのです。ただ、カインとアベルの物語は人類最初の殺人事件の物語で片付けるわけにはいきません。その罪を神が裁かれ、罰が与えられる。人殺しには永遠の命はとどまっていないというヨハネの手紙Ⅰ3章12-15節の理解だけではありません。

 神さまはこの後、カインをその罪の故に土地を耕しても作物を生み出さず、地上をさすらう者とすると裁きを行います。しかし、カインが「私の過ちは重すぎて負いきれない。出会う人に殺されるだろう」と言うと、神さまは、カインが殺されないように印をつけ、エデンの東に住まわせます。罪を罰しても、人には憐れみをかける神さまの姿が描かれています。

罪とは何でしょう。キリスト教では「罪」というのは本来「的外れ」という意味で、神さまの意志に反した生き方「的外れ」な生き方である、神さまへの反逆、神さまに背を向けた生き方だと説明されます。また、その人間の罪の性質は創世記3章の神さまの命令に反して善悪を知る木の実を取って食べたところから始まったと言われます。「原罪」 Original Sinと呼ばれる本源的な罪という理解です。しかし、創世記の3章には罪という言葉はありません。この物語そのものはパウロの理解やアウグスティヌス、そしてルターに続く西方のキリスト教の神学の中で「原罪」という概念が生み出されました。
しかし、「罪」という言葉はこの4章のカインとアベルの物語で初めて出てくるのです。より具体的な行為とその結果としての「罪」です。心の中の問題ではありません。旧約聖書でも「罪」は非常に重要視されていて、神さまへの背きだけでなく社会的な犯罪も倫理的な過ちも神さまとの関係において理解されています。罪の結果を神の裁きという形で人は引き受けなければいけません。そう言われると、神の裁きと聞くと「罪」を犯しやすい傾向にある、罪から逃れようのない私たちは恐ろしく感じてしまいますが、また同時に旧約聖書は、罪を犯したカインに示されたような神の憐れみも重要視しています。

本日の交読詩編にあり、その後の讃美歌でも歌った詩編歌は詩編51節からでしたが、これはダビデが部下の妻であるバトシェバを略奪し、その罪を預言者ナタンに指摘された時に歌った詩とされています。ダビデは自らの罪を知っています。認めています。神の前に告白しています。それと同時に「神よ、わたしの救いの神よ、流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの下は喜び歌います」と、打ち砕かれる悔いる心を差し出すことによって、救い出される恵みを喜び歌うのです。神さまがそのように憐れみ深いかたであることを神さまを愛するダビデは知っています。

  このカインとアベルの物語、兄弟殺人の発端は神さまへの献げ物から始まったことを思い出しましょう。神さまへの献げ物、すなわち礼拝です。ダビデのような罪の告白と悔い改めも礼拝の中でおこなわれます。

新約聖書に目を向けるとマタイによる福音書5章21-26節にはイエスの言葉が書かれています。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、道中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。」

 祭壇に供え物をする礼拝の前に兄弟と仲直りをおしなさい、和解しなさい。と言われます。具体的に兄弟、隣人に対して犯してしまった罪を神さまに告白し、悔い改めるときには、まずその兄弟、隣人と和解しなさい、仲直りしなさいとイエスさまはおっしゃいます。そして、神さまとの和解をイエスさま自身が取り持って、十字架という自己犠牲をもって神さまと和解させてくださり、私たちの罪に傾き、戸口で潜んでいる罪への誘惑に引きずり込まれるしかない私たちの死ぬ命を、永遠の命へと移してくださるのです。