2025年11月30日 救い主が来る 小田哲郎伝道師
(説教本文)イザヤ書51章4-11節
すでに教会に入ってきたときにお気づきになったと思いますが、1階の玄関にクリスマスツリーが飾られ、今朝こどもの教会の子どもたちがツリーに飾りを付けました。そして、先ほどの讃美歌でも歌いましたようにアドベントクランツの最初のロウソクに火が灯りました。今日は待降節第1主日、アドベントに入りました。最近では、教会の外でも、
デパートやオンラインショッピングでもアドベントカレンダーという言葉が聞かれますが、クリスマスまでのカウントダウンのように12月1日から1日ずつ箱の窓を開けて、キャンディーや化粧品が出てくる仕掛けになっているものですね。
そもそもアドベントという言葉はラテン語の「アドヴェニオー」という来臨する(やって来る)、前進する、接近するという意味の言葉に由来します。救い主イエスの降誕がやって来るという意味です。また教会はこのアドヴェントの時を、イエス・キリストが再び来られる再臨の時、終わりの時である終末を待ち望む時として覚えてきました。聖餐式の時に歌う讃美歌で「マラナ・タ」と歌いますが、イエスさまや弟子たちが話していたアラム語という言葉で「主よ来てください」という意味です。再び来てくださいと祈るのです。「マラナ・タ」と区切ると「主よ来たりませ」ですが、「マラン・アタ」と区切ると主はすでに来られたという意味になり、すでに救い主
私たちは「救い主 イエス・キリスト」が来ることを待ち望んでいるでしょうか?すでに救い主が来られた、私は救いの中にあると心から信じているでしょうか?
今年もウクライナとロシアの戦いが続いている中でクリスマスを迎えます。今年もガザでは、家も学校も病院も破壊し尽くされた町の中で、子どもたちは飢え、人々は安心して眠ることもできずにアドベントがやってきました。ミャンマーではまた国軍による民主化勢力への攻撃が激化していると言われる中、タイ国境を超えて避難している人たちの間にも神さまは共にいます。
彼らにとって、救いを待ち望むことは、とても現実的なことです。イルミネーションでライトアップされた美しい、そして贈り物を買い求めるパーティーの計画をする楽しいクリスマスを待ち望む風景とは違って、地下シェルターに隠れておびえながら、あるいは瓦礫間に張られたテントの中でお腹をすかせながら、隣国に逃げて家族と離ればなれになりながら、彼らはアドベントを迎えているのです。彼らは、心から救いを待ち望んでいます。今のこの困難な状況から救い出されることを望んでいます。
本日聞いた旧約聖書の預言者イザヤの声は、ユダがバビロニア帝国に滅ぼされ、都エルサレムの街も何よりも大切にされてきた神殿も破壊され、多くの人々、特に指導者階級の人たちがバビロンに連行された中で、その人々を励まし希望を与える言葉でした。
彼らは捕囚の地バビロンで、故郷に帰ることを夢見ていました。今日の聖書箇所の直前51章3節にはこうあります。「主はシオンを慰め/そのすべての廃墟をなぐさめ/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。/そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。」
まだ捕囚の地におり、捕囚の身でありながらも、神の約束、アブラハムの時代からの約束に望みを置いているのです。
今、ガザの廃墟にいる人たちはどうでしょうか?吉祥寺PARCOにあるアップリンクという映画館では継続してガザの現状を伝える映画を上映しています。私が見たのは「ガザからの声」というドキュメンタリーで、16歳の少年の目から見たガザの今が語られています。アハマドという少年には双子の兄が居ていつも一緒にいて、二人で体操を習いサーカスでアクロバット演技を見せて観客を楽しませていましたが、水をもらいにタンクを抱えて歩いていたところをミサイルで爆撃されて兄は即死、アハマド君も両足を切断し手の指も無くす大けがを負いました。自分たちの住んでいた家も破壊され町全体が瓦礫に埋まっている中でテントで家族が暮らし、アハマド君は車椅子でしか動けないのですが、それでも母親もガザは元々美しいところで、必ず神がガザを再建し美しさを取り戻すのだから私たちはアハマドの義足を作りに行く以外でガザを離れることはないと言い、アハマド君はもう自分はバク転など体操はできないが、ガザで子どもたちに体操を教える指導者になるのだと夢を語るのです。本当にその地域全体が悲惨な状況で、50日前に家族を失い悲しみの中にいるはずですが、決して希望を失わない。神が、彼らはアッラーと呼びますが、必ず成し遂げてくれるという神への信頼に生きているのです。
第二イザヤの時代の捕囚されているイスラエルの民も、そのように希望を持って生きられたのは、神への信頼によってです。
主なる神が呼びかけます「わたしの民よ、よく聞きなさい。わたしの国民よ、わたしに耳を傾けなさい。わたしの正義は近い。私の救いは現れた」まだ起こっていないことであろうと「私(神)の救いはもう現れた」というほど確実なことなのです。神の民だけで無く、異邦人も海というカオスと混乱の中にいる外国の民も、主なる神が歴史に介入して帝国の支配から解放することを待ち望んでいるというのです。
6節に「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ」と神の言葉がイザヤの口を通して人々に告げられます。天はただ空ということではありません。神の領域のことです。私たちが主の祈りの中で「御心が天になるごとく」と祈るように神の国、神さまの王国では王である神さまの意思が完全に実現しているのです。一方で下に広がる地も、主の祈りで「地にもなさせたまえ」と祈るように、私たちが生きているこの世界のことです。そこで見せられる天と地は消えてなくなります。地に住む人はブヨのように死にます。虫が食った服のようにボロボロになって朽ち果てることになるのです。しかし、神さまの救いは永遠に続き、神さまの恵みの業、神さまの正義、弱い者小さい者が大切にされ誰も分け隔て無く神さまの愛を感じられるという恵みは無くなることはないのです。その救いと恵みは、神さまを知り、その教え神の御心を心に持っている者、神を信じその約束された救いがかならず来ると神に信頼をおくものには、光を見るのです。4節に「教えはわたしの元から出る。私の裁き、正義をすべての人の光として輝かせる」とあるのは、父なる神の元から私たちのところへ遣わされた光、神の言が人となって私たちの間に宿られたとイエスの降誕を描くヨハネによる福音書の冒頭を想起させます。
イザヤは「わたしに聞け」と三度目に言います。1節で「わたしに聞け、正しさを求める人/主に訪ね求める人よ」と呼びかけ、、4節で「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ」と重ね、7節で「わたしに聞け、正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ」と三度目に「わたしに聞け」と呼びかけます。私たちは真理のことば、まことの神の教えに、聞きなさいと呼びかけられます。神の声に聞き従う者、この聖書の教えに神さまの価値観に御心に生きようとする者は「人に嘲られ、ののしられる」であろう。しかし、その嘲る者たち、ののしる大勢の人々を恐れる必要はない、嘲りもののしりの前に尻込みする必要はないのです。「御国が来ますように、御心が天になるように、地にもなりますように」と、私たちが神さまの価値観に生き、神の国での永遠の命という新しい命をこの地で生きる時、一時的には迫害に遭うでしょう困難に悩まされるでしょう、しかし、神さまの恵みの業は永遠に続き、神さまの救いは幾世代も続くのです。
現代の日本でも神さまの愛を伝え、それに生きようとすれば、おそらくネット上では大炎上するでしょう。例えば在日外国人に対するヘイト、ユダヤ人も異邦人もないと壁を取っ払ったイエスさまに従うならば、そんな差別が許されるはずはありません。LGBTQの性的マイノリティーの人たち、先日の東京高裁で同性婚を認めないのは憲法違反ではないという判決が下されましたが、イエスさまだったら法律をたてに苦しんでいるひとたちを裁くようなことはせず、苦しむ人たちの中に入っていって、神さまの愛はすべての人に注がれていると説くでしょう。イエスさまの言いそうなことを、ネットに書き込めば大炎上間違いありません。
先週のこども祝福礼拝の中でもお話したように、イエスさまの生きた当時は子どもなんて何もわからない存在で、弟子にも邪魔者にされたのですが、イエスさまはひどく怒って弟子を叱り神の国はこのような子どものような者こそが入れるのだと子どもたちを抱き上げ祝福しました。そして小さくされている者、長年の病気の原因が穢れているからだ、障害を負っているのは罪を犯したからだと社会から疎外されている人たちのところへ、わざわざ出かけて行き、喜びなさい、神の国が来た。あなたたちの涙はぬぐわれ、病は癒やされ、神さまのもとで喜びに生きられのですよと伝えましたが、それは当時としてはとんでもないことでした。律法に書かれていることを無視するのかとモーセの律法に反することをする不法な存在で、神を冒瀆するものだと突き上げられたのでした。しかし、イエスさまは自分の言っていることやっていることは神さまの意志だと言い、愛は律法を超えるのだ。そもそも神さまが与えた律法は「神を心から愛し、隣人を自分のように愛する」ということであって、他人を陥れるためにあるのではないと言って当時の社会の常識の声と宗教者や権力者と闘ったのです。全ての人に示された神の救いの業、恵みとは何であるかを人々に教えるために。
イザヤは神の民に「海を、大いなる淵の水を干上がらせ、迂回海の底に道を開いて」と出エジプトの出来事を示して、あなたがたを主なる神はエジプトの奴隷の地から救い出したではないか。そのことを思い出せ。だから今、バビロンの捕囚の地からも必ず救い出し、故郷に連れ帰る。喜びながらエルサレムに入り、喜びと楽しみを得て過去の嘆きと悲しみは消え去る」と、イザヤは神の言葉を継げます。あのガザの16歳のアハマド君が喜びと楽しみを得るその時に希望をいだき続けているように、その母がガザは美しい町に再建されると神さまの御業を信じているように、捕囚の中に現在の悲しみ苦しみの中にある神の民も希望をいだくことができました。救い主が来ると。
私たちもイエスさまが救い主として生まれたという歴史に起こった神さまの御業を知っています。わたしたちにとっての出エジプトです。十字架を通しての救いの出来事です。神さまの言葉、神さまの意思は必ず成し遂げられるということを、この旧約聖書に記された神さまの約束と新約聖書に記されたイエスさまの言葉と行いから知っています。アドベントに入ったこの時「わたしに聞け」という神さまの声が響きます。この地は滅び果てようとも、神さまの意思がすべてに行き渡る天、神の国はもう近い、救いは接近しているのだと。私たちも、この困難と苦しみ、悲しみの地にかならず再びイエス・キリストが来ると信じ、そのことを祈りつつアドベントの時を過ごしましょう。「御国が来たりますように、御心が天になるように、地にもなりますように」と祈りながら。