2025年12月14日主日礼拝 荒れ野で呼びかける声 小田哲郎牧師

(説教)イザヤ書40章1-11節

アドベント第三主日は「喜びの主日」とも呼ばれます。聖書日課では「先駆者」という主題がついています。今日の聖書日課に示されているのはこのイザヤ書40章と新約聖書からはマルコによる福音書1章1節から8節です。
神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。」というように、イエスが来る前に神から遣わされた先駆者、露払い、さきがけでした。

「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」と書かれているように、その人気は絶大でした。
マルコによる福音書には、イエスの降誕の物語は書かかれず、洗礼者ヨハネのことを先駆者として「神の子イエス・キリストの福音の初め」として描きます。「預言者イザヤの書にはこう書いている「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」とありますが、これはイザヤ書ではなくマラキ書3章1節からの言葉ですが、それに続くイザヤの預言と組み合わせて道を整えるために先駆者を送るという預言が洗礼者ヨハネを指し示していたと、預言の成就であることを福音書記者は語ります。
続くイザヤの預言、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」というのが、本日示されたイザヤ書40章3節の言葉です。私たちの使っている少し違っていますが、4人の福音書の記者たちが読んでいた聖書は当時広く読まれていたギリシア語に翻訳された聖書で、私たちが読んでいる翻訳聖書の元になっているヘブライ語聖書よりも古い聖書から翻訳されています。ですから、よりオリジナルに近い可能性があります。「荒れ野で叫ぶ声がする」と「荒れ野で」というのが元々あったようですし、「道をまっすぐにせよ」と「広い道を通せ」という違いがあります。

「荒れ野」は聖書の中では、人間が神さまに反逆する場であり、また回心する場でもあり、神の救いの始まる場でもあります。私たちの住む、生きる、この地です。イザヤ書40章からは第二イザヤと呼ばれる無名の預言者が神の言葉を民に伝えます。39章までのイザヤが紀元前8世紀頃のアッシイラ帝国が力をもちユダ王国エルサレムの脅威となった時代の預言者であったのに対し、第二イザヤはバビロニア帝国にエルサレムが滅ぼされ、ユダの民がバビロンに捕囚された時代に、故郷に帰るという救いの希望を伝えました。「慰めよ、慰めよ」と始まる第二イザヤが神に告げられたのは、現在の苦しみ、苦難の原因が神に背を向けて生きていたことへの裁きという事よりも、この苦難からもうすぐ主なる神は救い出してくださるという希望でした。預言者はその「慰め」を語るようために召し出されるのです。

昨日行われた0422市民クリスマスでは日本バプテスト同盟駒込平和教会の渡邊さゆり牧師がクリスマスのメッセージを語られました。渡邊さゆり先生は、私たちも日本キリスト教団の呼びかけに応えてミャンマー中部で起こった地震の際に献金を捧げたアトゥトゥ・ミャンマーというミャンマーの支援を行う団体を始められた方です。アトゥトゥ・ミャンマーは地震の起こる前から、ミャンマーで民主勢力が圧勝した選挙の後に起こった国軍による軍事クーデターによって人々が虐殺される中で祈りによって支える祈り会から始まりました。クーデターが発生した直後の2021年2月から毎週金曜日にオンラインで祈り、すでに254回の祈り会を重ねてこられました。
渡邊さゆり牧師は、クリスマスの物語は決して楽しい場、喜ばしい状況ではなく、若い女性が安全のない場所、家畜小屋で出産し、その小さな命を守ることはできないかも知れないと冷たい飼い葉桶に赤ん坊を寝かしたのだと語ります。権力者はこの一人の赤ん坊を見つけ出して殺そうと嬰児虐殺が起こった、悲しく苦しい物語が聖書の描くクリスマスの物語の起こった状況なのだと。それは、現在のミャンマーの人々の置かれている状況とも重なるのです。そのような中で祈る。祈ることしかできない。祈りに効力があるのかもわからないけれども、その苦しみの中にある人たちから「祈って下さい」という声が届く。そうして5年近く、毎週、254回の祈り会が続けられてきたということでした。

預言者はその荒れ野、苦難の中に呼ぶ声を聞きます。人が生きていくには困難な荒れ野に、険しい道に、山に谷に、でこぼこの地に平らでまっすぐな広い道を通せと。それは神が勝利の凱旋をする道、神の民が故郷へと帰還する道です。そして天の声、神の使いに「私はなんと呼びかけたら良いのでしょうかと」預言者は問います。天の声は「肉なる者、つまり神の民を脅かす国、そして人間は草のようなもので枯れ、また人間の繁栄である花もしぼむ、しかし神の言葉は永遠だ」と告げよと。

先日の葬儀の中で故人の愛唱讃美歌が「勝利をのぞみ」という英語ではWe Shall Overcomeという曲で有名なアメリカ公民権運動のテーマソングであったし、反戦平和運動や労働運動でも歌われた歌であったこと、その讃美歌の歌詞の元となっているマタイによる福音書10章26-31節のイエスの言葉を紹介しました。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」と、被造物である人間や権力者を恐れる必要はない、創造主である神をこそ恐れなさいということを言っています。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉は永遠に立つ」のです。これは旧約聖書の中で何度も言われることです。神の言葉は成就する。神の言葉は永遠である。それは、神さまの人間を救うという約束、契約が永遠に有効だということであり、み言葉、神の言葉によってその救いが必ず実現するという確信を得ることができる、ということです。

広くて平らな道を神の凱旋のために準備するようにと預言者は告げられましたが、それは軍事的な勝利の凱旋ではありません。軍事力や、経済的繁栄や、抑圧者や支配者は、草のように枯れ、花のようにしぼみます。それらに対抗するために、力や富を得ることも同じくむなしいことです。力によって困難な状況をひっくり返す革命も、おなじく一時的なもので虚しいものです。本当に困難から、苦難からわたしちを救い出すのは神御自身です。その約束の神の言葉は虚しくはありません。

見よ、見よ、と10節で繰り返して、将来のその救いの時を預言します。その神が力を帯びて来られて、救い主としてこの世に来られるのは、力を帯びてと言っても軍事力ではありません。弱くて小さな命、赤ん坊としてこの世に来られたのです。しかし、その救いの実現のイメージは母子の羊の群れが羊飼いに養われている平和なイメージです。それが救いの喜びの知らせです。捕囚から解放されて帰還するという喜びだけでなく、その先にある平和な世界です。これが良い知らせ福音です。苦難、困難から解放されて、神のもとで平安を得られるという福音です。

良い知らせをシオンに伝える者よ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ、と繰り返し呼びかけられているのは預言者です。天からの命令です。力を振るって声をあげよ、声をあげよ恐れるな、ユダの町々にその福音を告げよと。これは神さまの救いの言葉を聞いた、その言葉がイエス・キリストの降誕という形で実現したことを見た物が、宣べ伝えよと神さまから命じられているのです。まだ、そのことを知らない人々に伝え、世界のすべてに伝わったときに、再びイエス・キリストは力をもって来られ、神の救いを完成し、神の平和を行き渡らせ、神の国がこの地に成就するのです。

私たちは、この荒れ野のような困難の多い世界で、その神の救いを信じ、告白し、神さまの意志に従い神の国に生きる者となった先駆者でもあります。わたしたちは高い山にのぼって宣べ伝えよと命じられます。神の救いは来た。救い主イエス・キリストは来られた。そして、イエス・キリストは来られる。と宣べ伝えよと言われます。このアドベントの時、クリスマスを待ち望む時、私たちの抱く救いの確信を、永遠に立つ神さまの言葉を、多くの人に良い知らせ、福音を宣べ伝えましょう。