2025年12月21日クリスマス主日礼拝 マリアの賛歌 小田哲郎牧師
(説教)ルカによる福音書1章39ー56節
クリスマスおめでとうございます。
クリスマスは喜びの時です。
皆さんは喜びをどんな風に表現するでしょうか?
入学試験の合格発表の中に自分の受験番号を見つけたときに、飛び跳ねて、一緒に受かった友人と抱き合って喜ぶ受験生のようにでしょうか?スポーツ選手がガッツポーズを決めたりオリンピックで女子やり投げの北口選手が勝利の鐘を打ち鳴らしたあのシーンを思い浮かべるかもしれません。
私はアフリカの人たちが全身で踊って、声を上げて喜びを表現しているのを見て、うらやましいと思ったことがあります。自分がするかというと、できない。日本人は喜びを体全身で表すことは少ないかもしれません。飛び跳ねたり、踊ったりはしないかもしれませんね。特に大人になると。
今日の聖書箇所の中では「お腹の中の子、胎児が喜んで踊った」とあります。それを聞いたマリアも神さまを賛美して歌うのです。
今日の登場人物、主人公は二人の女性です。エリサベトとマリアです。でも、本当の主人公は彼女たちのお腹の中にいるヨハネとイエスなのでしょう。福音書記者ルカは洗礼者ヨハネとイエスを福音書の最初のところから、その誕生の様子から並行して描いていきます。
エリサベトは祭司ザカリアの妻です。祭司といってもエルサレムの神殿に仕えてはいましたが、郊外の山里に住んでいて、位の高い祭司長ではありませんでした。マリアが天使からイエスを身ごもるとのお告げを聞く6ヶ月前に、ザカリアに天使が現れます。すでに妻のエリサベトは高齢で、妊娠するような年齢ではなかったのですが、男の子を産む、その子にヨハネと名付けよとのお告げを天使から受けました。その天使の言葉を信じなかった祭司ザカリアは口がきけなくなりました。実際、高齢のエリザベトは妊娠しました。
そのエリサベトとマリアは親類同士でした。
一方、マリアは天使の出現と婚約者のヨセフとまだ一緒になっていないのに男の子を産むというお告げに驚いたものの、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」という天使の言葉を聞いて、信じ「私は主の女僕です。お言葉通り私の身に成りますように」と応えました。
そしてマリアは高齢で妊娠した親類のおばさんのエリサベトに会いに、ガリラヤ地方のナザレからおそらく3,4日の旅をしてエルサレムに近いユダ地方の山里の村へと急いだのでした。それは天使の言葉を確かめるためではありません。もう信じていたのですから。そうではなく、同じように神の力によって妊娠した親類のエリサベトと共に喜びタイからです。これまでつらい目にあってきたこの女性に神さまが目を留めて下さったことは、自分のような貧しい少女に神さまが目を留めて下さったことと同じように嬉しいと、共に喜ぶために急いだのでした。
そしてザカリアとエリサベトの家に着くと、マリアはエリサベトに挨拶をしました。するとどうでしょう、エリサベトのお腹の子、生まれてくればヨハネと名付けられる胎児が踊ったのです。喜びを表したのです。ただ、お腹の子が動いた、お腹を蹴った、ということではなく、喜びに踊った、お腹の中で踊って喜びを表現したのです。
そして、お腹の赤ちゃんの喜びが伝染したように、全身が聖霊に満たされたエリサベトは声高らかに言います。この聖霊に満たされた状態の人もアフリカの礼拝に出席したときに見ましたが、Glory to God, Hallelujahと叫ぶように声高らかに神に栄光、ハレルヤ!と神さまを賛美するのです。マリアのお腹の子も祝福し、そしてエリサベトはマリアを祝福します。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。と。エリサベトの祭司である夫は、神の使い天使の言葉、つまり神さまからの言葉を信じることができず、口がきけなくなりました。しかし、マリアは信じたのです。エリサベトはマリアを祝福します。神の言葉を信じた、そのあなたは祝福されています。そのお腹の中の赤ちゃんも祝福されていますと言います。なぜなら、お腹にいるのは私の主、主なる神の子だから、マリアはそのお母さんだからです。
エリザベトはマリアよりも遙かに年上で、おそらくマリアはまだ10代前半、12歳から14歳くらいだったでしょうから、もう子どもが産めない年齢とおもっていたエリザベトはマリアのおばあちゃんくらいの世代になるのですが、そのエリザベトがとてもへりくだってマリアを神の母だと言い、そんな方が私に会いに来て下さるとは、というのです。この謙虚さは後にその息子が洗礼者ヨハネと呼ばれるようになったとき、イエスがヨハネのところに来た時に「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」、「自分はイエスの履き物のひもを解く値打ちもない」と言ったことに呼応しています。
エリサベトの神の子の母であるマリアに会った喜びにと祝福に応答して、マリアも神を賛美し讃えます。「わたしの魂は主をあがめる」と歌い始めます。崇めるという言葉、ラテン語でマニフィカートと呼ばれるマリアの賛歌です。先ほど歌った讃美歌「わが心は」も日本のマニフィカートで、私たちはこのクリスマスの時期によく歌うのですが、カトリックでは修道会や聖職者によって毎日行われる祈りの典礼の夕べの祈りで唱えるそうです。
マリアは神さまをたたえ、まず自分のような貧しい者にも目を留めてくださり、偉大なことをしてくださったことを喜びほめたたえます。これがエリサベトと共通の、共に喜びあったことです。マリアの場合は男性との関係をもたずに妊娠し、エリサベトは不妊の女と言われていたのに高齢にもかかわらず妊娠するという、普通ではあり得ないことが聖霊、神の力によっておこったのです。そして、そのお腹の中の胎児は神の子と言われるイエスと、イスラエルの多くの人々を神に立ち帰らせるヨハネという聖霊に満たされた存在でした。
しかし、それだけではありません。51節からのマリアの口から出る言葉は、旧約聖書によって、彼女たちにとっての聖書に記された神さまの約束、救いの約束です。アブラハムとその子孫に対しての永遠の約束、創世記に記された大いなる国民、総ての人々の祝福の源とするという契約、預言者エレミヤに神さまが語られた捕囚からの解放と公正と正義を行うという約束の実現です。神さまはその約束を誠実に守るお方だという信頼の言葉です。救いが来る、その救い主が来た時に、神さまの正義と公正がこの世界に実現して、権力にある者をその座から引き下ろして、逆に身分の低い者を高くし、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返す。これは、福音書記者ルカが記す神の国の実現の姿です。イエスさまが山上の説教(ルカでは平地の説教ですが)で語る「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる。しかし、富んでいる人々は不幸だ、すでに慰めを受けている。今満腹している人々は不幸だ、あなたがたは飢えるようになる」と、その日、終わりの日、神の国の完成の時について語る言葉を、マリアの賛美の言葉とします。その日には喜び踊りなさいというイエスさまの言葉を、すでに今エリサベトとお腹の中のヨハネと共に実現したものとして喜び踊っているのです。
イエスさまの誕生によって始まる神の国の到来を、はるか昔からの先祖アブラハムへの神さまの約束の実現を、遠い将来におこる事としてではなく、すでに起こったことの様な確かさで喜ぶのです。その偉大な業、神さまの憐れみは確かなこと、信頼に足ること、信じるべきことだと。その救いの確信は、すでにお腹の中にいるイエスが、エリサベトのお腹の中のヨハネが聖霊によって与えられたという自らの体験、実感に基づくのです。
わたしたちは本日この礼拝の中で洗礼式を執り行います。洗礼を志願するという、信仰を告白するという聖霊によらなければできないことが、この方の中で起こりました。自分の力ではありません。神さまの恵み、賜物です。すでに洗礼を受けてキリストの相続人、接ぎ木とされた私たちも、自分の洗礼の時を思い起こし、それが聖霊の働きによるもの、神さまからの賜物であったことを思い出すのです。洗礼によって永遠の命に生きる者となります。その永遠の命は、この肉体が死んでから始まるのではなく、洗礼を受けた時から始まるのだと私たちは信じます。永遠の命という一人一人の救いがこの時から始まるのです。すでに起こったこととして、喜びに生きるのです。そして神の国が遠い将来に完成するユートピアではなく、すでに私たちの間に始まっている、確かなこととして喜ぶのがクリスマスです。
イエス・キリストは生まれました。救いは始まっています。闇の世は光に勝つことはできません。すでに到来した神さまの救いを、救い主を喜び祝いましょう。エリサベトとマリアと共に、喜び踊って祝いましょう。この良き祝いの時に、また一人、救われ加えられた神の家族、洗礼を通して生まれた新しい命、尽きることのない命の誕生を皆で喜び祝いましょう。