2025年12月28日主日礼拝 星に導かれて 小田哲郎牧師

(説教)マタイによる福音書2章1-12節

クリスマスの物語、主イエスの降誕を伝えるページェントで演じる話としてはルカによる福音書とマタイによる福音書を継ぎ足しているのです。もちろんマリアとヨセフはどちらにも名前が挙がっていますが、マタイによる福音書ではヨセフに天使が現れてイエスの誕生を告知し、ルカによる福音書ではマリアに天使ガブリエルが現れて受胎告知します。天使の知らせを聞いた羊飼いたちはルカによる福音書にだけ、そして三人の博士はマタイによる福音書だけに記されている記事です。今日はそおのマタイの記す三人の博士の物語を聖書から聞きましょう。

私たちは東方の三人の博士と呼んでいますが、新共同訳聖書では占星術の学者と訳され、新しい聖書協会共同訳では博士と訳されています。これは新約聖書の書かれた言葉ではマゴイと書かれていますが、マギというペルシアの祭司のことで、星を観測してそれによって神の意志を王様に伝えるようなことをしていたので、占星術の学者とも言われます。この言葉は新約聖書の書かれたギリシア世界に伝わると、賢者とか哲学者とか博士というように理解されるようになりました。ですから、占星術の学者でも博士でも良いわけです。ただ、聖書には3人という人数は書かれていません。幼子イエスさまに捧げた贈り物が、黄金、没薬、乳香の3つだと聖書に書かれているため、彼らと複数形で3つの贈り物なので3人と理解されるようになりました。そして、その後の時代、6世紀になるとその3人が、ガスパール、メルキオール、バルサザールという名前で、肌の色が一人は白、一人は黄色、もう一人は黒く、青年、壮年、老人であったとか、インドの王、ペルシアの王、アラビアの王であったなどの伝説も生まれました。

とにかく東方のユダヤ人ではない異教徒に、旧約聖書にしるされていたユダの人たちイスラエルの民が待ち望んでいたメシア救い主の誕生が告げられたということが重要です。彼らは、星を見て占うという、ユダヤ人からすれば忌むべき行為、申命記4章に「目をあげて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない」とあるように、偶像礼拝として聖書では戒められていた行為ですが、しかし、神さまは、その星を読む占星術を通しても、救い主である真の王の誕生を異邦人に知らせたのです。彼らは、王の星が昇るのを見て、それに導かれてエルサレムにまで来ました。実際その星が何であったのか、天文学的な研究がなされても解明はされていませんが、わたしたちはここでは、マタイが意図したように一つの象徴ととらえましょう。

この異邦人たちが贈り物を携えて、その新しい王、真のユダヤの王を拝みに来た、礼拝しに来たといっているのに対し、エルサレムにいる祭司長たちや律法学者といった旧約聖書に精通し、そのメシアの到来を聖書の中に聞いてた人たち、信仰のあるはずの人たちが、ユダヤのベツレヘムに生まれることを聖書の中に探り当てても、彼らは拝みに行かないのです。ヘロデ王に忖度してなのか。このように救い主を礼拝するものと礼拝しない者が対比して描かれるのです。

そしてこの神が選んだのではない偽物のユダヤ王ヘロデと生まれたばかりの真のユダヤの王イエスが対比されるのです。このヘロデはヘロデ大王と呼ばれてエルサレムの神殿を壮麗な神殿へと再建築したことでも有名だったのですが、その出自はダビデの血筋でもユダヤ人でもない、父はイドマヤ人の武将でユダヤ教への改宗者で母はナバテア人という異邦人でした。ローマ皇帝にうまく取り入って属国ユダヤの王位に着きました。神殿だけでなく数々の土木事業を行って権力を誇示しましたが、家庭内でも後継者争いがあり常に疑心暗鬼で王位を脅かす者は身内でも暗殺するような残虐さをもっていました。そして、聖書に記されているのはユダヤの王が生まれたと東方の占星術の学者から聞き、彼らが報告もせずに帰国したことを知ると怒り狂って、ベツレヘム周辺にいた二歳以下の男児を皆殺しにするという虐殺を行ったというのです。これが王だと言えるでしょうか?偽りの王です。世界を治める真の王は、平和の君として力のない弱い赤ちゃんとして生まれたのです。暴力的な王と、非暴力の平和の主のコントラストをマタイは描くのです。

ヘロデ大王の話を聞いていると、星の沢山ついた国旗の国の王様を思い浮かべるのは私だけでしょうか?ノーベル平和賞を欲しがる一方で、自分の名を冠した戦艦を建造して黄金艦隊などと呼ぶ、あの王ならぬ大統領。ある意味ではイエスさまの誕生がもたらした神の愛が支配する神の国と正反対の価値観の金と権力と自己顕示欲が支配する世界は、2000年前と変わらないと言えるでしょう。

そう、星、星条旗の星ではなく、東方の博士、占星術の学者たちを導いた星です。このことが今日のテーマです。この星についても旧約聖書の中に「ひとつの星がヤコブから進み出る」と異教徒のモアブ人の王バラクに雇われバラムが託宣と受けたこと(民数記24:17)や、預言者イザヤが「見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。/しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。/国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出るその輝きに向かって歩む」と星ではありませんが、「主の光がエルサレムの上に輝き」とメシアの到来を予言します。そして、ユダヤだけでなく王たちと他の国々、諸国の王もその輝きにむかって歩むと救いの広がりを予言します。
救いがイスラエルの民だけでなく世界の人々に広がることは、創世記においてアブラハムに約束されています。そのアブラハムを神さまは夜外に連れ出して言います。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」と、アブラハムに子イサクが与えられる前の約束されるのです。こうして星は神さまの約束をも思い起こさせるのです。

この旧約聖書の伝統は洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアのヨハネ誕生の後に口がきける様になったときの賛美と預言にも引き継がれます。ルカによる福音書1章76節以下にこうあります。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く。」と、イエスの誕生をあけぼのの光と言い表します。そしてヨハネの福音書もイエスの誕生を人間を照らす光が来たと証しします。

マタイによる福音書は、この星、王の星が彼らを導いて来たと表現します。東の異国の地から、砂漠や荒れ野を越えてユダのエルサレムまでは来ました。しかし、彼らの王が生まれるのだから王宮に違いないとの人間的判断が、ヘロデ大王のところに連れて行きました。そのことによって後に幼児虐殺という悲劇をも引き起こすのですが、(マタイはそのことが記されている2章16節の「学者たちに確かめておいた時期に基づいて」とあることを7節に記し、ヘロデ王の野蛮さを予感させます)
ヘロデ王のところに来たことで、祭司長や律法学者から聖書の預言にその王が生まれるのはダビデ王の故郷であるベツレヘムであるというヒントを得ます。これも神の計画でしょう。そして再び星に導かれてベツレヘムに向かうと、あの星が幼子の居る場所の上に止まったのです。博士たちはその星を見て喜びにあふれました。まだ幼子に会う前から、喜びに溢れるのは、この神の導きによる旅の終点、ゴールに到達したからでしょう。 星の光が私たちを導きます。

 たどり着いたところ、そこはマタイは家畜小屋とは書かず、ただ家と記します。ですから牛もロバも羊も羊飼いもいないのですが、家の中には幼子と母マリアがいます。生まれたばかりではないのかもしれません。羊飼いたちが訪れた時から、しばらく時間が経っているのかもしれません。1,2年くらい。
幼子イエスを博士たちはひれ伏して、跪いて拝みます。ただ礼拝したというのではなく、王や神の子に対しての特別な拝み方をしたのです。そして、贈り物をしました。ある解釈によれば、黄金、乳香、没役はこの占星術の学者たちの大切な商売道具であったとも言われます。この事からも異教の国から来た彼らが、目の前の幼子を真のユダヤの王、彼らは知らなかったのですが聖書に書かれているメシアであると、受け入れたから、信じて、自分たちにとって一番大切な物を贈り物として差し出したです。

一方、祭司や律法学者たちは拝みに行きませんでした。真の王、メシアであるイエスを拒絶したのです。ヘロデ王という神に敵対する悪の象徴のような王の取り巻きである彼らだけではありません。4節でヘロデ王がユダヤ人の王が不安を抱いたのと同様に、エルサレムの人々も皆同様であったと言います。少なくともエルサレムというガリラヤ地方という辺境地ではなく、富と権力が集中する、そしてここにこそ神が住んでいるから守られる安心だと思う神殿があるエルサレムに住む人々にとっては、たとえそれがヘロデではない真の王であろうと、人々が待望していたメシア救い主であろうと、変化を望まず現状維持でありたいと思ったのではないでしょうか。

 この三人の博士の物語を改めてこのように読んで来ると、少し怖い気がしてきます。私たちは、神の国を待ち望んでいると言いつつ、どこかで現在置かれている自分の生活、この世に執着があり現状維持でありたいと願っている者ではないか。周辺に置かれている羊飼いや、異教の国の博士たちに救い主の誕生が告げられたのに対し、わたしたちはエルサレムの人々のように聖書を知っている、大きな教会、教団に属しているから大丈夫などと思っていないでしょうか?

 星の光であるイエス・キリストに導かれて人生を歩みたいと思います。それは若者の人生にとってはとんでもない冒険の旅になるかもしれません。壮年にとっては、この世の価値観から外れる、現状維持では居られなくなる居心地の悪いものかもしれません。老人にとっても、これまで最も大切にしてきた物を差し出す勇気が必要かもしれません。しかし、そこには博士たちが喜びにあふれたように、その星イエス・キリストを見て、出会って喜びにあふれる幸せがあります。

 お一人おひとりの人生をイエス・キリストの光が照らし、導いてくださるよう祈りましょう。