2025年3月16日 悪との戦い

(説教本文)マタイによる福音書12章22-32節

受難節レントに入ってから2回目の主日を迎えます。今年はこどもの教会ではレントの期間中6回の日曜日があるのですが、7本のローソクを立てて毎週1本ずつローソクの灯りを消していく消灯礼拝を行っています。最後の中央のロウソクを消すのは洗足の木曜日あるいは聖金曜日・受難日の礼拝となります。
クリスマスを迎えるまでの4週間をアドベントとして1本づつローソクを灯していくのに対して、イースターを迎えるまでの6週間をレントとして1本ずつローソクを消し、その闇によってレントの期節を歩んでいることを心に刻みつけながら過ごそうというテネブレ消灯礼拝の伝統が4世紀からあります。

本日、聖書日課で受難節第二主日に与えられている主題は「悪と戦うイエス」です。先週は「荒れ野の誘惑」で誘惑する者、悪魔あるいはサタンが出てきましたが、今日の聖書箇所にもサタンが登場します。そして悪霊が出てきます。英語だとデーモンです。小見出しにあるように、悪霊の頭、頭領であるベルゼベルという名前も登場します。この一週間私はこの聖書箇所で悩まされました。何度も読んだことのある箇所ですし、マルコによる福音書の3章11節以下、ルカによる福音書11章14節以下にも同じ「ベルゼブル論争」という小見出しで物語に組み込まれていますので、話は知っているのですが、それがどういう意味があるのかちょっと訳がわからないなあ、どう語ればいいのだろうかと悩みました。「ベルゼブル論争」と小見出しが付いているくらいだから、ベルゼブルに何か重要な意味があるのかと思うと、悪霊の頭(かしら)の名前なのですが、その意味は「ハエの主」とか「汚物、糞尿の神」ということだそうで、ハエの顔をした悪霊のイメージが頭から離れず困りました。実際にはそんなハエの顔した悪魔は聖書の中には登場しません。ファリサイ派がイエスに対して言った言葉の中にだけ出てくるのです。では、悪霊もサタンも実際には存在しないのでしょうか?

まずは福音書の物語を読んで理解していきましょう。
本日の聖書箇所の最初に「そのとき、悪霊に取り憑かれて目が見えず口の利けない人がイエスのところに連れてこられてきてた」とあります。イエス様の生きた当時の古代社会では長年治らない病気や身体や精神の障がいは罪のためだとか、穢れている、悪霊に取り憑かれていると理解されていたのですが、イエス様は病を癒やし、障がいを取り除きます。「イエスが癒やされると、ものが言え、目が見えるようになった」とある通りです。そうするとそのイエス様のなさった奇跡的な治癒を見た群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」とダビデの子すなわちメシア救い主ではないかと驚き熱狂するのです。ただ病気を癒やすのではなく、生まれつき目の見えない人が見えるようになること、口が利けない人がしゃべれるようになるのはメシアのしるしだと当時は言われていたのです。9章のところでも二人の盲人が叫んで「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでくださいと言いながらついてきた」、とあるようにイエス様が宣教を始めてこれまでも大勢の病人を癒やし、障がい者の障がいを取り除き、その噂が広まり色々なところからイエス様の元に病人や障がい者を連れてきて癒やしてもらいました。その癒やされる人の数がどんどん増え、またナザレのイエスが救い主メシアだという噂がどんどん広まっていった様子が読み取れます。9章32節以下には「悪霊に取り憑かれて口の聞けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊を追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚愕し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。と、今日の聖書箇所と良く似た記述があります。今日の箇所では口が利けないだけでなく目も見えない人となっていて、イエス様がいやされるとものを言い、目が見えるようになったと、癒やしの力も強くなっている様子が表現されています。そして、そこにいたファリサイ派の人々は、「あの男(イエス)は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。と、今日の箇所と同じ台詞をいうのですが、ここではイエス様の反論はありません。まだ「あの男」とイエス様に聞こえない距離に立って群衆に向かってだけ言っているかもしれません。しかし、今日の12章23節では「この人はダビデの子ではないだろうか」「救い主に違いない!」との群衆の熱狂ぶりに、ファリサイ派の人々は穢れた名前ベルゼブルを持ち出します。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者に悪霊を追い出せるわけがない」とイエス様をベルゼブル呼ばわりするのです。イエス様を群衆が「メシア、救い主」に違いないと言ったことがファリサイ派の気に触ったことがわかります。自分たちの考えるメシアとは全然違うこの男、社会の底辺で苦しむ人々に関わる、穢れた人たちに近づいていき、罪人だとされる人たちと一緒に食事をするイエス様が神の子、救い主のはずがない、自称メシアに過ぎないと敵意を持ったのです。
そこでファリサイ派の心の中の考えと思いをイエス様が知って反論するのですが、悪霊、サタン云々よりも重要なのは28節です「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのならば、神の国はあなたたちのところに来ている」。と、イエス様が行っている神の霊による悪霊祓いは、あなたたちファリサイ派を含めイスラエルに神の国が来ている徴なのだと。あなたたちファリサイ派の人たちは聖書をよく読み律法を一つでも破ることのないように生きているが、主なる神が戻ってくる終わりの時、神の国の支配が完成するときは裁きの時である。神に敵対する者は厳しい裁きを受けることは免れないということは知っているだろう。と迫ります。そして神の国が来ているということは、この悪が満ちていている世界で、まず強いサタンを縛りあげることで、悪霊によって苦しんでいる人々から悪霊を追い出し、悪と罪の力から人々を解放し、神の国の支配を広げていけるのだと29節で言うのです。そして、サタンを縛り上げるという、イエス様のサタンへの勝利はすでに荒れ野の誘惑のときに私たちは見ました。そして決定的な打撃を与えるのがイエスの十字架なのです。十字架の上のイエス・キリストは悪によって負けたのではありません。御自身の死によって罪の結果である死にうち勝った勝利者なのです。この物語は福音書の頂点である十字架に向けて、イエスさまの奇跡の行為を通しての、またファリサイ派への反論によって、神と悪との戦いが描かれているのであると私は受け止めます。そして、イエス・キリストの十字架上での勝利こそが、アブラハムへの約束から始まる神の救済計画、人間を罪と死の奴隷から救い出す計画の実現だと言えるのです。

このところテレビや新聞の報道で地下鉄サリン事件から30年ということが言われています。あのカルト集団オウム真理教の教祖であった麻原彰晃(松本智津夫死刑囚)が、どのようにあのような事件を起こしたかを、元信者で側近であった無期懲役の服役者が告発しているのですが、世界最終戦争ハルマゲドンに向かっていると若者の不安を煽って信者を集め、自分こそが最終解脱者として弟子たちのだれも超えられない絶対者になろうと出家という宗教の制度をつくり自分の王国を作ろうとしていたというのです。あれだけの事件を起こしたから麻原と死刑囚となった弟子たちを世間では悪と呼ぶのかもしれません。聖書の中で言えば、これこそがベルゼブルで、宗教的な倒錯、いのちを救うはずの宗教が殺戮へとむかっていかせるのです。

悪霊というのは様々な悪、私たちが悪と捉える様々な現象についての古代人の神話的表現だなどと言って片付けられるでしょうか?確かに聖書の中で悪霊に憑かれていると表現される様々な身体的状況は、現代の科学や医学的知見によって多くの場合、その原因を説明することができます。私たちはベルゼブルやベリアルと言った名前を持つ悪魔が今も生きて悪霊の親玉として働いているということを想像しなくても良いかもしれません。しかし、だからと言ってパウロが人の行動や社会の出来事に影響を与える「支配力と権威と力」と表現する霊的な現実、力の存在は私たちも実感しているのではないでしょうか。
この世の悪の力の存在については、今の世界を見ればイエスの時代のローマ帝国やイスラエルと変わらないようにも思えるほど、政治的権力において戦争や紛争を引き起こして人々を苦しめていることを私たちは知っています。武器を売りさばくことで巨額の利益が得られるのですが、富を得るために人々を苦しめる巨悪を個人の利己心、心の中の罪の問題に矮小化することはできません。武器密輸、麻薬取引や人身売買が世界から無くならないのは、国際犯罪組織があるためでそれらを摘発すれば解決するというレベルのものではないと私は感じています。その背後に働く悪の力を感じます。それは、神の国が拡大することを拒む力であり、霊的な存在です。
群衆が「ダビデの子」と言ってメシアの到来かと熱狂したのも危険なことです。「ダビデの子」というとき、それはこの世の王として政治的に解放する、つまりローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれる「救い主」として期待するのです。しかし、イエス様はそんな政治的軍事的メシアとは違います。迫害する者のために祈り、敵をも愛せというのですから、暴動や軍事クーデターをおこしてローマ軍を追い出すなどするわけがありません。そんな期待が裏切られたと、「ユダヤ人の王」と揶揄した称号を十字架に掲げてイエスを侮辱するのです。
私たちも国連が機能していれば、とかアメリカの大統領が誰々であったならと、現在の世界の状況を神の国の到来とは全く別次元で考えていて、まるで神様の救済計画など無視して、私たちの人間の努力で何とかしなかればならないと考えてしまうものです。神なんかに頼らず、宗教なんかに頼らず現実的に考えよと、まるで神が無能者であるかのように考えさせる、神から私たちを引き離そうとするこの世界に蔓延する価値観があります。
ファリサイ派、律法学者たちはすでにイエスを偽メシアとして告発しようとしています。彼らこそ神の国の実現のために選ばれた民イスラエルの指導者であったはずですが、文字で書かれた律法によって自分を正当化し自分たちのやり方に固執するあまり、神の子であるイエス様を十字架に架けてしまうのです。新しいイスラエルである私たち教会は大丈夫でしょうか?歴史の中で何度も教会は過ちを犯してきました。教会が分裂し、争ってきました。一人の主である神を引き裂き、救いを求めている人を救おうと世に出て行き隣人を愛するよりも、組織を守ることに心を砕いてきました。そこにも神の国の実現を阻止する霊的な力、悪霊が働いているのです。

今も残存している悪魔の力、サタン、悪霊を感じることがあっても、その存在がどのようなものであるかを頭で理解し、またどこから来たのかを探る哲学的な議論をする必要はないでしょう。私たちはこのレントの時期に聖書から知らなければいけないのは、イエス・キリストはそれら悪の力にすでに勝利しているのだということ。十字架の出来事によって、私たちを死と罪の奴隷から解放してくださったということです。それが救いです。そしてイエス様の「神の国はあなたたちのところに来ている」という言葉こそが福音です。
十字架にかけられたイエス様は「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)とイエス様を罵る人々のために祈りました。人の子に言い逆らう者は赦される、人の子であるイエス様がそのために執り成してくださるのです。しかし「霊に対する冒涜は赦されない、聖霊に逆らう者はこの世でも後の世でも赦されることはない。」とイエス様は言います。人の救いをもたらす聖霊を冒涜し、神の国を広げる聖霊の働きに逆らう者、サタンや悪霊とその力に捉えられて神の敵対勢力であり続ける者は神の裁きを受ける。永遠の命に与ることはできないのです。
私たちを神に敵対するこの世の価値観へと誘惑するサタンにイエス・キリストはすでに勝利されているということを信じ、聖霊に導かれて神の国を広げる宣教の働きに加わりましょう。
「あなた方には苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)というイエス・キリストに従って。