2025年3月30日 光輝く姿に 小田哲郎伝道師

(要約)3人の弟子たちはイエスに連れられて山に登り、光輝く姿のイエスとモーセ、エリヤが話し合っているのを目撃しました。それはゴルゴダの丘での十字架上の衣を剥ぎ取られて裸になり二人の十字架にかけられた強盗に挟まれているのとは正反対の姿です。

(説教本文)マタイによる福音書17章1-3節

 私事ですが、今年に入って週に2回、この近所の元気創造プラザのジムで運動をするようになりました。このところ周りにいる高齢の方で転倒して骨折して入院したという話をよく聞くものですから、なるべく長く牧師として神さまにお仕えするには体も鍛えないといけないと思い、意識するようになりました。そうでもしないと牧師館・牧師室と幼稚園の2階と1階を行き来するだけで、この教会の敷地から1歩も出ないということが週に5日くらいあるのです。運動エクササイズは日々の積み重ねですので今からコツコツとやっていこうと思っています。
 同様に私たちの信仰生活にとって、信仰的な、あるいは霊的なエクササイズも大切なことではないでしょうか。先週の木曜から金曜日まで一泊二日でカトリックの修道院で行われた黙想会に参加してきました。日本に宣教にきたフランシスコ・ザビエルのイエズス会の修道院なのですが、イエズス会の創始者の一人のイグナチオ・ロヨラは16世紀に「霊操」という霊的修行の指導書を書きました。聖霊の「霊」に体操の「操」で英語に訳せばスピリチュアル・エクササイズという意味です。今回は長い期間を要するイグナチオの「霊操」の全部ではなく、入門的な瞑想、黙想をする会で9名の参加者をイエズス会の日本人の神父が指導してくださいました。9名のうち私を含め3名がプロテスタントの信者でしたね。黙想の間に神父との面談、霊的同伴とよばれる祈りの助けをする面談の時があるのですが、その時に言われたのはプロテスタントの牧師も何人もこれまで参加されたとのこと。
 私はカトリックの大学に行きましたので、学生時代にも親しいイエズス会の神父の先生から鎌倉の禅寺でやる黙想会に誘われたりもしたのですが、若い頃は全く興味がなかったので参加せずで、今回が初めての経験でした。最初に瞑想の仕方を教わりました。座禅と同じく自分の呼吸に意識を集中して、頭の中の考えや心にうかぶ感情、雑念を無くすのですが、これがなかなか難しく、すぐに日曜日の説教をどうしようとか、幼稚園のあの仕事が、と雑念が浮かんでくるのです。座って呼吸瞑想するだけでなく、歩く瞑想や、食べる瞑想も教えてもらいました。これは神さまの呼びかけを聞くための内的な沈黙、自分の中でのおしゃべりを止めて神さまの声を受け取る入り口です。そして、聖書の言葉を聞いて祈っていきます。
 その聖書の読み方も「レクティオ・ディヴィナ」という神的な読書という意味の聖書の読み方があって、まずゆっくりと聖書に書かれている一つ一つの言葉に注意を払いながらゆっくり読み、理解しながらも特に心に触れた言葉、心に響いた言葉や箇所に思いを留めながら何度も繰り返し読みます。そして次に黙想します。心に触れ、響いた言葉を味わいながら思いを巡らします。どうしてその言葉が心にふれたのか、私にとってどんな意味をもっているかを考えることで、神さまから私への呼びかけを味わうのです。心の耳を澄まして神様の声を受け取ろうとするのが黙想です。そして次に黙想の中で受け取ったものへの応答として、自分の内側からうまれてきたものを味わい、正直な感情を神さまへの応答として神さまに献げるのが祈りです。そして最後がなかなか難しいのですが、「今、ここ」にあって自分をつつんでいる、そして内にある神さまの現存を感じる観想コンテンプラティオという段階です。目の前に感じる神さまに委ねるという感覚でしょうか。
 私が、私たちが日頃聖書の言葉を歴史的背景や、物語の文脈の中で分析して頭で理解するという聖書の読み方をすることが多いのですが、もっと心で読むと、自分への語りかけに耳を澄まし、そして応答するという読み方がレクティオ・ディヴィナです。どちらが良い悪いではなく、どちらも補いあう必要があるおのです。頭でっかちにならないように、このように祈りながら御言葉に浸るということも大切です。今日は黙想会での体験の中でこの説教を準備しました。
 
 今日の聖書箇所は「イエスの変容」と呼ばれる箇所です。マタイだけでなくマルコ、ルカによる福音書にも同じ話が含まれています。それほど印象的で重要なことを目撃者たちは経験しました。先週の説教で取り上げた「あなたはメシア救い主、神の子です」と信仰告白したペトロをイエス様が「あなたを岩ペトロと呼ぶ。あなたの上に教会を建てよう」と言ったその日から6日後のことです。イエス様はペトロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて山に登りました。「高い山」とありますが、雲より山頂が高い雲海を見下ろすような高い山ではないようです。この場所はガリラヤ湖の南にあるタボル山という小高い丘程度の低山と考えられています。エルサレム郊外のオリーブ山というのも、実際は丘のようなものですが山と呼びます。山は祈りの場であります。そして神と出会う場でもあります。イエス様も祈るために登られました。ペトロとヤコブとヨハネの3人はイエス様についてきなさいと言われて従ってきただけです。この3人はオリーブ山のゲッセマネの園でイエス様が祈られた時にも同じようにイエス様に連れられていった弟子たちです。これらの出来事の目撃証人です。
 山の上でイエス様が祈っていると、顔が太陽のように輝き、服も光輝いたとあります。マルコによる福音書は「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と、そのまばゆいほどの白さを描きます。イエス様の復活の朝に墓にいた天使の衣が雪のように白かったことを見て、私たちはこのイエス様の輝きを思い出すようにとうながされているようです。この栄光に輝くイエス様を見ただけでも驚くのですが、そこに見えたのはモーセとエリヤと語り合っているイエス様です。モーセは、あの出エジプトを率いたモーセです。モーセもシナイ山に登り、雲が山を覆い神の呼びかけを聞きます。エリヤはモーセとならぶ旧約聖書の重要な預言者ですが、エリヤも神の山ホレブで神に呼びかけられました。
 どうしてイエス様と話しているのがモーセとエリヤだとわかったのかは定かではありませんが、ペトロは旧約聖書の二人の偉人とイエス様がいるのを見て3つ仮小屋、テントを立てましょうと、ちょっと訳のわからないことを言います。自分でも何を言っているのかわからなかったとルカによる福音書は記します。とにかく驚いたのでしょう。さらに恐ろしいことに神の声を直接聞いたのです。神を見た者は死ぬと信じられていましたから、3人は顔を伏せて恐れおののきます。そこで聞こえてきた声は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に天から響いたのと同じ声です。「これは私の愛する子。わたしの心に適う者。これに聞き従え。」と。光輝く雲として顕現した、姿をあらわした神の声です。
  私が黙想の中で聞き取ったのは、この神様の声です。何もペトロたちのように神秘的な体験をしたわけではありません。音声が聞こえたのではありません。心の中に響いた神様の言葉です。「これに聞け。この愛する神の子イエス・キリストに聞き従え。」ペトロたちも山の上で、神との出会いの神聖な場所で、この声をきいたのです。ひざまずいて身をかがめて神様を伏し拝んで礼拝するしかありません。その時、イエスの手が触れるのを感じます。モーセやエリヤの幻ではなく、霊の姿のイエスではなく肉の体をもったイエスの手のぬくもりを感じるのです。「起きなさい。恐れることはない。」遠く偉大な存在の神様ではなく、近くにいて触れてくださるイエス様を今ペトロは感じています。私も感じました。心に触れてくださるその感覚を。なんと幸せな恵に満ちた感覚でしょう。
 
 この感触というのが意識を神様に向けるためにも大切です。黙想会で学んだ瞑想のこつは。歩く瞑想の時には足の裏に集中して雑念を払います。心を空にします。何か考えや思いが浮かんで来たときに意識を片足に体重がのり、かかとからつま先方向に移動していく足の裏の感覚に意識を向けます。食べる瞑想では食事をしながらも、美味しいとか嫌いという評価を排除し、食べ物から連想する様々なイメージを振り払うために、食べている命の感触、固さやシャキシャキした歯触り、舌触りに意識を向けます。何か考えが浮かんでくると煮た大豆を食べてはねちっとした感触に集中し、目の前のイチゴが目に入ってイメージが膨らみはじめたら「意識よ戻ってこい」レンコンを食べて修正します。そうして心と頭を空にするとところに神様のスペースができて神様が今ここにいる感覚を持てるようになっていきます。こころに神様の声が聞こえてきます。
 
 静まりかえった聖堂の中で黙想をしていました。「起きなさい。おそれることはない」の声に、目を開け顔を上げると十字架にはイエス様がかけられたままです。カトリックの聖堂にある十字架には釘を打たれ頭を垂れたイエス様がはり付けられたままなのです。山の上で光輝く衣を着たイエス様、モーセとエリヤが並ぶ栄光の姿とは対象に、ゴルゴタの丘では衣を剥ぎ取られた裸のイエス様が、二人の強盗の十字架に挟まれているのです。イエス・キリストの復活と昇天の栄光の姿はペトロたちにはまだ示されていません。だからイエス様は山を下りるときに厳しくペトロたちに命令します「私が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはならない」と。まだ神様が定めたその時ではありません。しかし、復活の後に、この光景をはっきりと思い起こし、そしてペテロはみんなに告げたことでしょう。何度も勘違いし、イエス様に「サタンよ退け」と言われるほど失敗たけれど、イエス様を知らないと離れてしまって悪魔の誘惑に陥ったけれど、イエス様はもうあの時、「あなたメシアです」と告白した翌週にはあの山で栄光の姿を私に見せていてくださったのだと。私たちが信仰を持つ前から神様は、恵みを与えてくださっています。信仰を持ってから振り返ると、あの時神様は私にあんな素晴らしいことをしてくださっていたと知ることがあります。神様の恵がわたしたちの信仰よりも先行しているのです。
 
 ペトロたちは山から下りてきました。そこは先ほどまでの神的な雰囲気に包まれた山の上とはうってかわって、エリヤを殺そうとする、エリヤの再来である洗礼者ヨハネの「神に立ち帰れ、回心せよ、神の正しい道を生きよ」という声を邪魔に思い消し去ろうとする地上の世界です。イエス様も山の上に留まっているわけにはいきません。ペトロが建てようと提案した仮小屋、山の上の礼拝所に留まって下界の様子を眺めているわけにはいかないのです。
 神様はこの地上の悪の力をうち破って、人々を神様のほうへと向き直らせるために、神様との関係を回復するために、愛する御子を送ったのです。そのために主イエスは十字架の道を歩かなければなりません。私たちのために苦しみに遭わなければなりません。「これは私の愛する者。これに聞き従え」との神の声がまだ心の中に響いています。ペトロにも、そして私たちにも。ペトロたちが山を下りたように、私たちもこの礼拝堂から出て、この世へと出て行かねばなりません。この教会の心地よい、神を感じられる幸せな空間に留まっているわけにはいきません。イエス様が十字架の道を歩まれた、その後に従って歩むのです。「平和を実現する人々は幸いだ」というイエス様の声に聞き従い、この平和のない世界に神様の愛の支配、神の国がもう来ていることを告げ知らせるのです。
 この世界は神様のことばではなく、おしゃべりや雑音で満ちています。「やっぱりパレスチナの恒久的平和なんて無理なんだ」とか、「停戦交渉に必要なのは結局経済的利益を見せることだ」とか、「あなたは役に立たない」とか「そんなの自己責任でしょう」、といった悪魔の声やささやきに満ちています。私たちは、レントの中にあって神様の前に静まり、神様の声を聞き、イエス様の手で触れていただいてイエス様を感じながら、イエス・キリストの道を歩みましょう。