2025年4月27日 信じる者になる 小田哲郎伝道師
(要約)
イエスの復活は、宗教指導者たちによって隠蔽されようとしましたが、初代教会の信仰の根幹となりました。科学的合理性と信仰の間で揺れる現代においても、復活信仰はキリスト教会の根幹です。復活を信じて洗礼を受ける時、私たちは古い自分に死んで、イエス・キリストと共に生きる者となります。
(説教本文)マタイによる福音書28章11-15節
先週の日曜日はみなさんと共に主の復活日イースターの礼拝を捧げ、その中で細坪宗利さんの洗礼が執り行われたことを喜びました。イエス・キリストの名による洗礼は、授かる人が「肉体的という意味ではなく、霊的な意味で一旦罪に死ぬ、しかしその後キリストの復活の命をいただき、新しく生まれるのだ」と聖書は教えるのです。「キリストと共に葬られ、キリストと共に復活する」という事が洗礼において起こるということです。
その日の夜のニュースで、健康状態が良くないと伝えられていたローマ教皇がバチカンのサンピエトロ広場に集まった人々にイースターの挨拶をしたと伝えていて驚いたのですが、その翌日の夕方にはフランシスコ教皇が亡くなったというニュースが流れて本当に驚きました。自然を愛し、貧しい人々と共に歩み、平和の祈りでも知られるアッシジの聖フランシスコから名前をとった教皇は、初のラテンアメリカ出身の教皇で、人々に近い教皇としてパレスチナ・ガザの教会に毎晩電話をし、性的マイノリティーの人々にも寄り添い、世界のあまり顧みられない地域にも訪れ、若者にも直接語りかけました。気候変動、地球温暖化にも警鐘をならし、ラウダート・シという影響力のある回勅を出して世界の政治指導者たちと地域のカトリック教会が環境問題に取り組むようにと促しました。
「不都合な真実」という環境問題を軽視する政府の政治的・経済的裏事情を告発したドキュメンタリーをアメリカの元副大統領のアル・ゴアが主演しましたが、フランシスコ教皇はカトリック教会の『不都合な真実』である、各国の聖職者たちによる性的虐待の事実を受け入れ、カトリック教会の責任を負う教皇として被害者に謝罪し赦しを請いました。
イエス・キリストの復活は、当時のユダヤの宗教指導者たちにとって「不都合な真実」だったのでしょうか。本日与えられた聖書箇所は空っぽの墓によってイエスの復活を描く4つの福音書の中でも、マタイによる福音書だけが記す報告です。
十字架の死から三日目の朝、日曜日の朝に墓へと出かけたマグダラのマリアともう一人のマリアは、墓を蓋していた石が主の天使によって転がされたのを見ました。白く輝く天使がその石の上に座ったのを見て、墓を守っていた番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと28章4節に記されています。
そもそも番兵がそこにいたのは、祭司長たちとファリサイ派の人々が墓からイエスの死体が盗まれないようにするためでした。少し戻って27章62節にこうしるされています。
明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」
ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。
ここから続くのが今日の箇所です。
「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。」
マグダラのマリアやもう一人のマリアら女性たちが弟子たちに喜び急いで行くのとは別の方向、エルサレムの城壁の中、エルサレムの宗教的権力の中枢に向かう番兵たち。困ったことになった。死体が盗まれないように見張っていたのに、墓から死体が無くなった。これは番兵としての任務を果たせなかったので責任を追及されるかもしれないと、恐れの中で急いで走って行きました。復活のイエスを信じる女性たちとは反対に向かって。
「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」なんと番兵を買収して、弟子たちが夜中に来て盗んで言ったと証言させたのです。
イエスさまを裏切った弟子イスカリオテのユダも銀貨30枚で買収しましたが、神殿で神に仕えるはずの祭司長が、金をつかってそのようなことをするのです。そしてローマ帝国の権力にも忖度するのです。「もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにしました。「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」と、福音書が書かれた時点でも多くのユダヤ人たちは復活などなくて、イエスの死体は弟子たちが盗み出したのだという話を信じているのです。
イエスが言っていたように三日目に復活したということでは、都合が悪いのです。ますます、ナザレのイエスがメシアだという人たちが増えてしまいます。メシアが来たとなればそれは革命的なことです。新しい世界が始まるのですから。そして、メシアを十字架にかけて死刑にすることを要求した自分たちはどうなることか。ローマの権力と結託している、祭司長や長老といった宗教指導者たちは現状維持によって自分たちの地位を守りたいのです。
このようにして、イエスの復活などなかった。墓が空っぽだったのは弟子たちが死体を盗み出したというフェイクニュースが流されたのです。古代人でも死んだ人がよみがえるということは、起こりえないことだと思っていますから、それを聞けば「そうだよね、死人がよみがえるなんて馬鹿な話はないから、弟子が死体を墓から盗み出したというならつじつまが合うよね。納得できるよね」と古代人だって思ったでしょう。
わたしたちもイエス・キリストの復活を信じると言いつつ、合理的な説明ができないかと考えてしまうことはないでしょうか?歴史的な事実としてナザレのイエスに何が起こったかを考える時、十字架刑はキリスト者ではない歴史家の書物にも書かれていますから史実として受け入れるとしても、復活については神話的なお話にすぎないというクリスチャン、牧師、神学者だっているのです。だって、人間の体について遺伝子レベルで分析できる現代ですよ。電子顕微鏡を見れば細胞レベルどころから、その中の核に含まれる染色体の動きまでみることができる時代に、死んでよみがえっただなんて信じられませんよ。現代の知的な人はそんな復活が起こったなんて信じませんよ。
本当にそうでしょうか?私たちは聖書を神話的なお話しとして理解しているのでしょうか?宗教の教義として、それはそれとして同意しているのでしょうか?再現性のある実験によってなされる科学的な証明や合理的な説明ができることではないにしても、一回性の歴史的な事実としては何かが起こったとして言いようがありません。
まず、最初の教会から日曜日に礼拝を行うようになったのです。ユダヤ教では安息日である土曜日に礼拝を行ってきました。イエス自身も弟子たちだってユダヤ教を信じていましたから、土曜日に礼拝することが当たり前だったのです。それがイエスの弟子たちキリストの復活を信じる人たちは日曜日に集まって礼拝を捧げるようになった、その日を「主の日」と呼ぶことは、あの十字架の死から三日目の週の初めの朝に何かが起こったためであると考えられるのです。
そして、復活の証人である弟子たち、「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちはその証人です」(使徒2:32)と復活したイエスの目撃者であると主張するペトロたちは殉教の死を遂げるまで復活を宣べ伝えました。イエスがメシアだと主張する人たちへの大迫害が起こり、その他の多くの弟子や信徒が復活の証人だと主張して、死に至ったのです。死を覚悟してまでしても復活を主張する人々がいることは、そのことの重大さ真実さを表しているのではないでしょうか?
そのひとたちの目撃証言をもとに新約聖書の4つの福音書と使徒言行録は書かれました。福音書というのは歴史書ではなく物語ですので、表現については様々ですが4つの福音書に共通して復活が重要な事柄として描かれています。そして福音書が書かれるよりも前に書かれたパウロの手紙であるコリントの信徒への手紙にも「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既にねむりについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」(15:3-6)と書いています。「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、信仰も無駄です。」(15:14)と言うほどです。
それでも、パウロがアテネで宣教していた時でも、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。」(使徒言行録17:32-33)とあるように、あざ笑われることもあったのです。
わたしも人身取引の非常に深刻な悪のことや被害者の悲惨について話したあとに、しかしこのような巨悪に対して絶望することはない、神の国が完成するときにその悪は完全に滅ぼされると言ったときに、会場の参加者から冷ややかな笑いを浴びせられたことがあります。
イエスの復活は旧約聖書に書かれている人間を救う神の計画が実行され、新しい世界が始まったことを意味します。それまでの金や権力による支配、暴力と争いで人間の欲望を拡大していく世界、環境の破壊や貧困や格差に苦しむ世界に、イエス・キリストの復活によってイエスの伝えていた「神の国」の到来が実現したということです。「神の国」とは私たちがすぐに思い浮かべる死んだ後に行く「天国」のことではありません。イエスは私たちが死んで天国に行くために復活されたのではありません。イエス・キリストの復活とは、この地に神の国が到来したことを意味するのです。その完成の時までイエスの教えに従っていきること、つまり神を愛し、隣人を愛する生き方をするのが復活したイエス・キリストに従う道なのです。
イエス・キリストの復活を信じる者になりましょう。それは神の国、神の平和がこの地に実現することを確信することです。イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを信じる者になりましょう。それは、信じるわたしたちも、その神の国が完成したときに、キリストと同じように霊の体をもって復活することに希望を持つことです。イエス・キリストをよみがえらせた神様の力と愛を信じる者になりましょう。私たちも、すべての人を愛せるようにと聖霊が働いてくださいます。
フランシスコ教皇は本当にイエス・キリストに従う生き方の模範を示したと思います。誰をも愛し、洗足の木曜日には刑務所を訪れて受刑者たちの足を洗い、他宗教の指導者たちとも対話を重ねました。教皇になる前は出身のアルゼンチンのユダヤ教のラビと頻繁にあってサッカー談義で盛り上がる気さくな人柄も伝えられています。イエス・キリストの謙遜さを、自らの謙遜さとし、イエス・キリストの貧しい人苦しむ人に自ら出会っていく愛を実践しました。
私たちも、この一人のキリスト者であるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ、フランシスコ教皇のように、キリストの復活を信じる者、キリストの復活によって始まった新しい世界、神の国を生きる者としてキリストの道を歩むものとして、謙遜にそして愛に生きるものとなりましょう。なかなかそうなれない私たちを、洗礼によって私たちの内に与えられたキリストの霊、聖霊なる神が導いてくださることを祈りましょう。