2025年5月11日 イエスは復活また命 小田哲郎伝道師

(要約)「ラザロの復活」はやがて死ぬ肉体の命への蘇生でしたが、イエス・キリストの復活は死ぬことのない命、、永遠の命への霊の体を伴ったよみがえりでした。それは信じる者が今の世でも永遠の(天的な)命に生きるためであり、終わりの日にイエス・キリストと同じような霊の体で復活する希望を与えるためでした。

(説教本文)ヨハネによる福音書11章17-27節

 今日は復活節第4主日です。イエスの復活の朝から4週目となります。復活の喜びの中を歩んでいますか?イースターも終わった、イースターエッグ作りも終わって一息。祭は終わった。つぎのペンテコステまでちょっと休憩という気分でしょうか?どうも日本では(なのか他の国でもそうなのかわかりませんが)、クリスマスは12月24日のクリスマス・イブが終わればクリスマスはおしまい、イースターの日曜日が終わればイースターもおしまいと思ってしまっているのではないでしょうか?教会の暦では聖霊降臨日ペンテコステまで復活節が続きますし、イエスの復活ということと昇天、聖霊降臨は一連の出来事として考えられるのです。そんなわけですので今日も与えられた聖書箇所から「復活」について聖書が何を語っているのか、わたしたちキリスト者は何を信じているのかを聞きたいと思います。

 私がこの教会に着任した最初の1年は教会員とその家族の葬儀が相次ぎました。1年間で6名の方を神のみもとに送りました。今日も礼拝後にベテルの会でお葬式の話を聞きますが、「明るく楽しいお葬式」というタイトルなので楽しみにはしていますが、「死」そのものを考える時、それは決して「楽しい」ものではありません。しかし教会の葬儀が「明るい」ということは、とても聖書的でありキリスト教信仰の特徴を表しているではないかと思います。

 この今日の聖書箇所は「ラザロの復活」と呼ばれるヨハネによる福音書にだけ含まれている物語です。司会者に読んでいただいたのはその一部ですので、ヨハネによる福音書11章に描かれる全体のストーリーを見ていきましょう。

 エルサレムの近く15スタディオンと言いますから3キロほどの距離にあるベタニアという村にアリアとマルタの姉妹が住んでいました。ルカによる福音書に出てくるあの姉妹です。マルタは来客をもてなすのに忙しく立ち働いているのに、マリアはイエスさまの足下に座ってイエスさまの話を聞いているので、マルタが「イエスさま、何とかマリアに言ってくださいよ」とイエスさまに文句を言ったという、あのマリアとマルタの姉妹です。イエスさまがエルサレムに上ってきたときには何度もこの家に立ち寄ったような、非常に親しくしていた家族です。そうでなければイエスさまに文句なんて言えません。妹マリアはこの後のヨハネによる福音書12章でイエスさまの足に高価なナルドの香油を塗って髪の毛でぬぐった女性です。この姉妹にはラザロという兄弟がいましたが、このイエスさまも愛する青年ラザロが病気になって重篤なため、マリアとマルタはイエスのもとに使いを出してそのことをしらせました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」
 しかしイエスさまは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と謎の言葉を述べて、二日間も同じ場所にとどまっていました。謎の行動です。

 二日経って、イエスさまはおもむろに「もう一度、ユダヤに行こう。」とエルサレムに向けて出発することを弟子たちに告げるのです。そして「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われます。眠っているわけではなく、死んでいるのを生き返らせることをイエスはこのように言ったのですが、弟子たちは「眠っているだけであれば、助かりますね」と本当にただ眠っているものだと勘違いします。

 ベタニア村に到着すると、マリアとマルタの家にはラザロの死を悼む大勢の人が弔問に訪れています。マルタはイエスさまがようやく来てくれたと聞きつけて村の入り口まで迎えに出ます。そこでマルタは「イエスさま、どうして早く来てここにいてくれなかったんですか。あなたがここにいてくだされば、わたしたちの兄弟ラザロは死なずにすんだでしょうに。だって、あなたが神さまにお願いすることは何でもかなえてくださることを私は知っています。」と非難めいた口調で言います。親しさもあってのことでしょう。

 マルタはマリアを呼びに行きました。マリアはさっきのイエスさまとマルタが話していた場所まで行くとイエスさまを見るなり足元にひれ伏して「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟はしななかったでしょうに」とマルタと同じ思いの言葉をイエスさまに投げかけます。
涙を流すマリアを見て、イエスさまも涙します。それを見て「どんなにラザロを愛しておられたか」という者がいる一方で、「イエスも盲人の目は開けることができたが、さすがにラザロを死なないようにはできなかったのか」という者もいました。それを聞いてイエスさまは心に憤りを覚えて、ラザロが入れられている墓に向かいます。そして岩をくりぬいた洞穴の墓の入り口を覆っている石を取り除けなさいとイエスは言うのです。

 いつも実際的、実務的なマルタは「主よ、四日もたっていますのでもう臭います」と死後4日もたって死が確実となり遺体の腐敗が始まっていると、イエスさまが墓を開けようとするのを止めようとします。しかし、人々が石を取り除けると、イエスさまは天を仰いで祈ります。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」と祈ってから、大声で「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれました。そうすると、死んでいたはずのラザロが手足を布で巻かれたまま出てきたのです。顔も布で覆われていますが、確かに死んだはずのラザロでした。

 これが「ラザロの復活」の物語です。このイエスさまが行った「しるし」、奇跡が最後の「しるし」となって、エルサレムでファリサイ派や祭司長たちがイエスさまを殺す、十字架刑での死刑への引き金となりました。この死人からよみがえった「しるし」によって、さらに多くのユダヤ人がイエスさまを信じるようになったからです。そのことが11章の終わりから12章にかけて描かれています。
 
 ここまでラザロの「復活」と言ってきましたが、この死からの復活は死んだ肉体が同じ命に甦る「蘇生」です。ラザロはこの奇跡によって不死身の体になったわけではなく、やはり死によってこの肉体の命は終わるわけです。死んで終わる命に戻ったのです。わたしたちがイースターのメッセージで聞いた、イエスさまがよみがえった「復活」とは違います。イエスさまは死を克服した新しい命、永遠の命に復活したのです。ラザロは顔を覆った布と手足を巻いている布をとれば元のラザロだとわかりますが、覆っていた布をとって甦ったイエスさまの姿は最初に目撃したマグダラのマリアやエマオへと向かう弟子たちには、イエスさまだとはわからないのです。弟子たちの集まっているところに現れた復活のイエスさまは鍵のかかった扉を通り抜けます。幽霊でしょうか?でも足もありますし、パンを裂いて弟子たちと食べ、焼き魚も食べました。十字架に打ち付けられた手に残る傷跡もあります。体をもって、霊の体という別次元のからだをもってよみがえったのです。ただ霊魂だけが肉体を離れて永遠に生きると言っているのではありません。からだを伴う、霊の体を伴う復活なのです。
 
 イエスさまに「あなたの兄弟は復活する」と言われたときにマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。イエスの時代、私たちの読んでいる旧約聖書が書かれた後の時代にはユダヤ人の間ではダニエル書から始まる黙示思想を受け入れていましたから、正しい人が主なる神がこの世界を治める「主の日」におこる最後の審判によって正しいとされた者は復活するのだと信じられていました。その時にダニエル書で「人の子」として描かれている天的な存在が雲に乗ってやって来るのがメシア「救い主」だとして待望されていました。
 
それは死んだ後に、そして世界の終りの時に起こることを観念的に知っているだけなのです。しかしイエスさまはそうではないのだとマルタに言います。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と。そして、「このことを信じるか?今生きているあなたは今信じるか?」と問うのです。

 イエスさまはマルタの目の前にいる自分が復活の主であること、イエスさまご自身が永遠の命への道であることを宣言されるのです。ヨハネによる福音書はいたるところにこのことをちりばめています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである、」(3:16)、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」というイエスさまのことばもマルタは聞いていたのでしょう。また、イエスさまが自分を遣わした天の父に祈ることは、何でもかなえてくださることをこれまでの数々の奇跡、しるしでみてきたことでしょう。
 
 マルタは「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じます」と愛するイエスさまがこれまでに語ったこと、数々のしるし奇跡を見てきたマルタは信仰を告白します。しかし、ペトロが信仰告白をしたすぐ後に失敗したように、マルタもラザロが本当に復活するとは信じられない「もう死んで腐敗がはじまっているから墓など開けても無理ですよ」と思うのです。
 私たちはどうでしょうか?信仰告白で主は「三日目に死人のうちよりよみがえり」とあるイエス・キリストの復活は信じたとしても「からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず」という自分の身に起こることは本当に信じているでしょうか?
 マルタの妹、無口でおとなしいマリアは「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたらわたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いながらはらはらと涙を流します。それを見てイエスさまは涙を流してマリアの心に寄り添います。「どうして神様救ってくださらなかったのですか?」と、私たちが家族を失った悲しみにも共感してくださる方です。
 しかし、私たちを悲しみに閉じ込めてしまう「死」という力、「神の子もラザロを死なないようにはできない。どうせ死には勝てない」と思わせてしまう、神への信頼を私たちから奪い取ろうとする「死」の支配にイエスさまは心に憤りを覚えて墓に向かい、墓を開けと言い、天の父に祈るのです。「あなたがわたしをお遣わしになったことを、子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためにわたしを遣わしたことを彼らが知るためです」と祈るのです。そしてラザロをよみがえらせました。しかし、これはもっと大きなことの予兆です。しるしです。イエスさまご自身が、復活することによって、私たちが復活と永遠の命を信じるようになるためです。
 イエス・キリストは「初穂」として死者の中から復活されました。これはマルタが言うように終わりの時に、メシア・キリストが再び来られるときに私たちが復活するという確証が与えられた出来事でもあります。復活のイエスと同じような霊的な体をもって私たちも復活するのです。しかしそのいつ起こるかわからない将来の話だけではないのです。洗礼を受けることで、イエスさまの十字架と共に古い自分に死に、復活のイエス・キリストと共に新しい命、朽ちることのない永遠の命に生きるのです。永遠の命とはこの世における不死ということではなく、神の世界、天的な「いのち」です。死によって終わらせられない神と共にある、真の人間の命です。その命はすでにイエスさまがキリストだと信じるところから始まっています。
 だから、私たちは死を終わりとは考えません。この世から天的な世界、神さまの愛の支配の世界に移されるので、すでに始まっている永遠の命はより素晴らしい神の世界で復活の時をまっているのです。だから死は暗い悲しいだけのものとは考えないのです。明るいお葬式ができるのです。
 
 イエスさまは家族を失い、愛する人を亡くして涙する私たちと共に涙を流してくださる方ですが、しかし「死」の悲しみ苦しみに捕らわれている私たちを開放するために自ら進んで十字架上で死んで死に打ち勝ち、私たちが信じて救われるために復活してくださいました。すでに死んだ人をも救うために陰府(よみ)にまで下り復活なさったのです。
 イエスさまは私たちに言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」