2025年5月18日 イエスは道、真理、命 小田哲郎伝道師
(説教本文)ヨハネによる福音書14章1-11節
先週の主日礼拝では死んだはずの若者が4日も経ってから生き返ったというヨハネによる福音書の「ラザロの復活」の物語を聞き、そして礼拝後には「明るく楽しい葬儀」についてベテルの会で最近お母様の葬儀を行ったばかりの方の経験を聞きました。エンディングノートや南三鷹教会で用意している「わたしの葬儀」という書類を書いて自分の葬儀の備えをすることは自分の残されたこの地での命を生きることを考えることでもあります。死を考えるのではなく命について考えることです。また最後で最大の家族伝道の機会という話も出ましたが、自分の信じている神さまを伝える遺言でもあります。ラザロはイエスの墓から出てきなさいという呼びかけによって生き返りましたが、またいずれ死んだでしょう。永遠の命によみがえったのではない蘇生だったと申しました。しかし、イエスの復活はそうではなく、死なない命によみがえったのだと聖書は言っています。今日は永遠の命について聖書はどう言っているのか、聖書特にヨハネによる福音書の言う「救い」=「永遠の命」とはどういうことなのかを聞いていきたいと思います。
ヨハネによる福音書14章の1節~6節は葬儀の中でもよく読まれる箇所です。「わたしの父の家には住むところが沢山ある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」この言葉を聞くと、イエスさまは死んで天国に行って、私たちにも天国に沢山の部屋を用意して待っていてくるように理解するかもしれません。そんな説教を葬儀や召天者記念礼拝で聞かれたことがあるかもしれません。
南三鷹教会の関係者も大勢入っている小平霊園にある東京教区・西東京教区の墓地は骨壺を入れるカロートがいっぱいになってきて、もうすぐ入る場所がなくなるものですから一つひとつ骨壺におさめるのではなく骨を一緒にする合葬を勧めていますが、天国にはそんな制約はない部屋はいっぱいあるから安心しなさいと言っているようにも聞こえますが、そうではありません。
イエスさまは死んでも天国に行けるから大丈夫だなんてここで言っているわけではありません。そもそも聖書には死んで天国に行くという記述はないのです。マタイによる福音書では天の国と呼ばれるのは他の福音書で「神の国」「神の王国」という神の支配する領域のことです。その神の国は地に降りてくるというのが主の祈りで祈られていることであり、ヨハネの黙示録に描かれていることです。ヨハネによる福音書では「父の家」という時、それは神殿をあらわしています。その時にしかこの家という言葉は使われていません。あの神殿で商売している人たちをイエスさまは怒って追い出した時、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と言っています。そしてヨハネの黙示録21章が描く新しい天と新しい地、天から降ってくる新しいエルサレムには神殿がありません。都エルサレム全体が神殿なのです。これは「戻って来てあなたがたを迎える」と言ったように、キリストが再び来られる時に、この新しい創造の世界で霊のからだをもって復活するということを言っているのです。
イエスさまは弟子たちに「心を騒がせるな。」と命じます。弟子たちの心がざわつくのも仕方ありません。最後の晩餐の席で弟子の誰かがイエスさまを裏切ると予告し、イエスさまの行くところには命をかけてでも一緒に行くと言ったペトロも三度イエスさまを知らないというだろうとイエスさまは予告されたのです。これは、イエスさまが最後に弟子たちにこれから起こることを伝える告別説教です。エンディングノートのようなものです。最後に弟子たちに伝えておきたいこと、イエスさまは父なる神のもとに帰ること、イエスさまがいなくなってからも助け手である聖霊が送られるから大丈夫だと伝えるのです。そして、聖霊によってイエスさまが共にいるのだから心配するなと言うのです。イエスさまの遺言です。
しかし弟子たちはどうでしょう。まずイエスさまが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」と言えば、トマスは「主よ、どこへ行かれるのかわたしたちにはわかりません」と言い、「今からあなたがたは父なる神を知る。いや、わたしを通してすでに父なる神を見ている」とイエスさまが励ませば、フィリポは「わたしたちに、父なる神を示してください。そうすれば満足できます」と、信じることができない弟子の姿を代表します。それは私たちの姿でもあります。イエスさまの悲しいまなざしがあります。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」
そんなわたしたち弟子にイエスさまは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
そんなこと言われたって、よく分かりませんよ。禅問答みたいで、「道、真理、命」って何がなんだかわかりませんよって思いませんか?ヨハネによる福音書にはイエスさま自身が「わたしは、○○である」ということばが何度も出てきます。「わたしは命のパンである」(6:48)「わたしは世の光である」(8:12) 「わたしは羊の門である」(10:9)「わたしは良い羊飼いである」(10:11) 。そして先週の「わたしは復活であり、命である」(11:25)、今週の「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)とあります。そして15章には「わたしはまことのぶどうの木」という言葉も出てきます。主イエスがどのような救い主かを示す、ヨハネによる福音書のキーワードです。
今日のところでは「道、真理、命」とあります。イエスさまは道であるとはどういうことでしょう?イエスさま自身がこう言います。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」父なる神さまのもとに行く、「神の国」に入るにはこのイエスさまの道を通らなければたどりつけません。この道を歩むということは、イエスさまに従うということです。イエスさまがこれまで見せてくださった愛の業と言葉に従うことです。この直前、最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗って模範を見せてくださった、へりくだりと従順、そして互いに愛し合うという「新しい掟」に従うことです。これが真理と命に通じる道です。真理である神さまの支配する神の国で死ぬことのない永遠の命に生きることです。
キリスト教のことをキリストの道と呼んだ人がありました。日本には神道、武道、茶道と言った何々道というものがあります。どうも日本に入ってきたキリスト教は知識に偏りすぎていて、まるで教理を理解すれば救われるとでもいうような、聖書の勉強をし、礼拝でも説教で聖書の講釈を聞くことが中心のような理解があるのではないでしょうか。そのことへの反省から「教え」だけではなく「行」行いを含めての生き方が「道」であると考えるのです。キリストの道とはキリストに従う生き方、イエス・キリストの示した父なる神の世界、神の国の世界観を生きるのです。キリストの道は世界を「神の国」へと変革する原動力であると「日本の宗教とキリストの道」を書いたカトリック司祭の門脇神父は述べています。ここで、もう一つ関連して考えるのは、私たちは信仰とは個人の心の中のことと捕らえているのではないかということです。ですから道を通って父なる神のもとに行くというのも、まるで心の中で信じるだけで魂が天に行ける、あるいは霊魂は天国に行けるという風に考えているのではないかということです。
真理を知ることは神を知ることと同じ意味です。そしてイエス自身が父なる神を表しているのですからイエスさまは真理だということです。そして、この真理の反対は偽り、罪と悪の力ですから、真理はそれら罪と悪の力から私たちを解放し、永遠の命を賜物として受け取ることができます。先ほどの「道」ということから研鑽とか修行というイメージもわいてきますが、その結果の真理の獲得や永遠の命を得ると言うことではなく、あくまでも真理=イエスを救い主キリスト、神の子メシアと信じることで、そこから永遠の命を神からのギフト・賜物として受け取ることができるのです。
永遠の命は、最初に言ったわたしたちの復活や新しい天と新しい地というまだ来ていない完成の時に与えられる遠い将来のものではありません。ヨハネによる福音書が強調するのは、それは現在から始まっているということです。イエスをキリストと信じて告白し、洗礼を受けた時にこの新しい命である永遠の命がはじまるのです。そしてキリストの道を歩むとき、永遠の命という新しい命をすでに生き始めている私たちは、新しい掟である「神の愛」に満ちた神の国にこの世界が転換されることに参与するのです。それがキリストの道を歩むということです。永遠の命を得るというのは、決して個人の魂が救われるというだけのことではなく、世界規模・地球規模の「神の国」の完成へと、新しい天が地に降りてくることへの参与であり、死ぬことのない命をただ将来待ち望むだけでなく、この今の時から永遠の命を生き始めるということです。
ヨハネ5章25節でイエスさまは「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得、また裁かれること無く、死から陰持ちへと移っている。はっきり言っておく、死んだ者が神の子の声をきく時が来る。今やその時である。その声をきいた者は生きる。」すでに死んだ者も、今死に捕らえられている者、死に行く者も、イエスさまの声をきく者、その言葉を信じる者は、死から命へと移されるとイエスさま御自身が言うのです。
この福音書の物語を最初に聞いたヨハネの教会はユダヤ人からの迫害に遭い、死を覚悟していたことが16章2節の「人々があなたがたをユダヤ教の会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」という言葉の中に現れています。それでも、彼らはイエスを信じることで永遠の命を「今」受け取るということに平安と希望を得ていました。ヨハネの共同体も私たちと同じように共に聖餐に与るとき、洗礼によって復活したイエス・キリストに結ばれ、新しい命、永遠の命に入れられたことを思い起こしたことでしょう。キリストにあって一つとなることで、愛によって一致することで、既に救いに与っていることを味わったことでしょう。
今、死の淵を歩いている人がいます。家族の中に、友人の中に。多くの子どもたち、老人たち、女性たち、男たちを死に追いこむ戦争が、唯一の神を信じる国と国の間で、キリストを信じる者の間で、まだキリストを知らない人たちとの間で起こっています。永遠の命という救いに今与れるという救いを伝えるために、新しい天と新しい地という神の国愛の支配が満ちた世界が来たりつつあるという希望を伝えるために私たちができることは何でしょうか?イエス・キリストは真理であり、永遠の命であることを示すために、私たち自身がイエスの道、敵をも愛する愛に生きる道を歩むことではないでしょうか。「わたしたちに神を示してください。奇跡をおこして見せてください」と祈るのではなく、「わたしはイエス・キリストが示してくださった本当の神さま、真理である神さまを信じます。あなたが行う愛のわざを、永遠の命を与える救いを信じます。ですから、私たち教会を通して、あなたの御業がこの地に行われますように、どうか平和の道具としてお用いください。そして死を乗り越えた命に生きる喜びと希望の共同体として、死の力の前に打ちひしがれている友たちをイエスの道に招くことができますように、助け主なる聖霊を送ってください。」と祈ることではないでしょうか?