2025年5月4日 しるしを欲しがる 吉岡喜人協力牧師
(要約)主イエスが神の子であり、救い主である証拠を求めた人々がいました。神の世界のことは霊的なできごとであり、人は信じることで救われるのであって、証拠によって救われるのではありません。信じて悔い改める者が救われるのです。
マタイによる福音書12章28節~42節
わたしたち人間が、他の動物たちと大きく異なることについて、学校では、火を使うこと、道具を使うこと、言葉を使うことと教えられました。しかし、科学的研究が進み、チンパンジーやボノボはいろいろな道具を使うことができることが分かっていますし、ライターで火をつけることができる例もあるようです。鳥も言葉を使うことが分かっています。先日テレビでカラスの鳴き声を研究している人が紹介され、カラスの鳴き声を聞いて、この声は警戒している声、この声は餌があるぞと教えている声、など説明していました。
しかし、「悩む」ことはどうでしょうか。わたしたちはいろいろなことで悩みます。悩むことは人間独特のことです。悩むから人間だということもできるでしょう。かなり昔のことですが、作家の野坂昭如が「ソクラテスもニーチェもサルトルも西鶴もゲーテもみんな悩んで大きくなった」と歌っていました。人は悩みを克服して成長する、多くの悩みは人間を大きくする。たしかにその通りでしょう。しかし、悩みを克服できないことも多々あります。深い悩みが原因で、自ら命を終わらせることもあります。
悩みには、食べ物がないなど現実的肉体的な悩みもありますが、人間関係など社会的な悩みが大きな悩みの一つです。さらに大きな悩みが霊的な悩みです。自分はなぜ生まれて来たのか、人は何のために生きるのか、人は死んだらどうなるのか、など、霊的な悩みは簡単には答えが見出せません。古今東西、霊的な悩みは人間を苦しめてきました。人間はこの悩みから解放されたいと願い、救いを求めて来ました。悩みと救いは人類の誕生から今も、そして未来にも続く永遠の課題です。
新約聖書には律法学者とファリサイ派の人々がなんども登場し、主イエスと論争をすること、また主イエスからその姿勢を批判されていますが、彼らも悩みを持ち、真剣に救いを求める人々でした。彼らが主イエスの話を聞きに来た場面や、教えを乞う場面が新約聖書にいくつも書かれています。律法学者はいわば聖書学者で、神の言葉である律法に通じ、その意味すること、まだどのようにすれば律法に従った生き方をすることができるかを人々に教えていました。律法に従った人々の優等生とでも言うべき人々がファリサイ派の人々でした。
彼らは主イエスを預言者あるいは律法の教師と見ていたようです。主イエスの話に救いを覚えることもあったのでしょう。一方で、安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んだことを擁護したり、安息日に病や障がいを持った人々を癒したりするなど律法に違反した行為をしていると批判し、主なる神を父と呼ぶことは神を冒涜することだとして腹を立てていました。
ある日、主イエスが人々に話をしているところに律法学者とファリサイ派の人々がやってきました。「先生」と主イエスに呼びかけていますので、一応主イエスに尊敬の念を示していますが、この日の彼らの心は裏腹でした。「先生、しるしを見せてください。」と彼らは言いました。あなたは安息日を軽視することがよくありますが、なにを根拠に律法を軽視するのですか。あなたは神を父と呼んでいますが、その権威は何に基づくのですか、その証拠を見せてくださいと迫ったのです。
主イエスが彼らの求めるしるしを示したら、彼らは主イエスを神の子、救い主として認めようとしたのでしょうか。そうではありません。しるしなど示せるはずがないと思っていたのです。主イエスがしるしを示せないことが明らかになれば、ほら見ろ、この人は神の子でもないし、救い主でもないと言えるからです。
主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々の心を見抜いて言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」。「よこしまで神に背いた時代の者たち」と間接的に行っていますが、明らかに律法学者とファリサイ派の人々を指して「あなたがたは、よこしまで神に背くものだからしるしを欲しがるのだ」と批判して言っているのです。
わたしたち現代社会に住む者にとって、しるし・証拠は大切です。科学は証拠によって発展して来ました。ガリレオたちは星の動きを観察して、その動きに規則があることを発見しました。ニュートンたちは、さらに星の動きの規則性から万有引力の法則を発見しました。万有引力の存在は、天体の動きを説明する証拠でした。
袴田事件など、多くの刑事裁判で再審が行われ、大きな破壊問題になっていますが、裁判において証拠を軽視したことが誤審の大きな原因でした。
では、宗教ではどうでしょうか。宗教の世界は、見ることも触ることもできない神の世界です。神の世界でも証拠が必要でしょうか。神の存在が証拠をもって示されなければ、わたしたちは救われないのでしょうか。そうではありません。救いとは霊的なことがらです。霊的なことがらは、証拠によって確かになることはありません。証拠に頼れば、かえって救いは遠ざかってしまいます。
復活した主イエスが弟子たちの前に出て来られた時、弟子のトマスは、その方が主イエスである証拠、手足の釘の傷、脇腹の槍の傷に触れて見なければ信じないと言いました。主イエスはトマスに言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである。」 人はしるし・証拠ではなく、信仰によって救われるのです。証拠をいくら集めても、神の世界を知ることも、そこに入ることもできません。救いは遠のきます。ただ、信仰によって神の世界を知り、入ることができ、救われるのです。
その後、主イエスは「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と言われましたが、律法学者やファリサイ派の人々がしるしを欲しがることを主イエスは批判しているのに、なぜヨナのしるしに言及したのでしょうか。主イエスは病の癒しなど行いによってしるしを示されていました。しかし、それを神の業と信じない人々にとっては、単に不思議な出来事であり、主イエスのしるしではありませんでした。主イエスはヨナの出来事を引用してご自身の十字架の死と復活のこと、それがあなたがたに示されるしるしであると言われたのです。
その十字架と復活も、信仰をもって接しなければ、不思議な出来事以上にはなりません。信仰をもって主イエスを見る時、わたしたちはしるし、すなわち主イエスが神の子であり、救い主であることを知ることができるのです。
冒頭に人間は悩む存在であることを申し上げました。わたしたちはわたしたちを苦しめる悩みから逃れることはできません。逃げても逃げても悩みは追いかけてきます。しかし、悩みを克服することはできます。悩みを克服した時、わたしたちは救われたことを実感するでしょう。しかし、わたしたちは悩みを克服する力を持っていません。持てると思うかも知れませんが、自分の力で悩みを克服できた人はいません。あえて言えば、仏教の創始者である仏陀だけでしょう。わたしたちの悩みを克服させてくださるのは、わたしたちの主である神様です。わたしたちに出来ることは、神様を信じること、それだけです。主イエスはソロモンの知恵を求めて遠い南の国から来た女王について語っていますが、ソロモンの知恵とは神の言葉のことです。南の国の女王は神の言葉を求めた、すなわち神を信じた彼女は救われたと主イエスは言われるのです。
ヨナはニネベで神に背く人々に、悔い改めなさい、そうしないとニネベは滅亡すると呼びかけました。すると王を初めヨナの説教を聞いたすべての人々が悔い改め、ニネベは滅びから救われました。主イエスは、自分たちは律法に従って生きており、罪を犯していないと自負し、悔い改めようとしない律法学者やファリサイ派の人々に、あなたがたもニネベの人々のように悔い改めなさい、そうしないと滅びに至るよと、呼びかけたのです。
わたしたちは、救いを求めています。神様は、わたしたちに救いの手を差し伸べてくださっています。神の救いに与るには、しるしを求めずに神を信じること、そして悔い改めることです。